New!青山道⑨石倉から千代見橋ウォークの記録
12月6日、快晴、気温16℃
「シリーズ青山道を歩く⑨」目的地の大山まではもう目前です。
12月とは思えない暖かい日差しの中、石倉から千代見橋まで歩きます。
伊勢原駅よりバスに乗り込み石倉で下車。今回はここからウォークスタートです。
いつものように準備体操からスタートし、続いて観ボラ役員から本日のブリーフィングを行いました。大山への参詣の道は複数ありますが、ここ【石倉】でほぼすべての道が集結したという重要なポイントです。ここからは大山を目指して大山街道のゆるやかな坂道をひたすら進みます。
最初の目的地は子易明神(比比多神社)です。
こちらの神社には「子宝安産の守護神として日本で希な神社」と看板に書かれています。
神社の向拝柱を削り煎じて飲むと安産できると伝えられており、痩せ細った向拝柱が印象的です。(男の子を望む場合は向かって左側の柱、女の子を望む場合は右側の柱)
残念ながら、今はもう削ることはできなくなっていますが、左の柱の方が細くなっているのが見てとれました。
次の目的地を目指して、再び旧道を歩き始めます。だんだんと近づき大きくくっきりと大山が見えてきます。江戸時代に大山詣りに訪れた人々も目の前に迫り来る大山を見てさぞかしテンションあがっただろうな、と思いが巡りました。
旧道との分岐点にある易往寺です。大山寺4世の弁真和尚の時代に大地震があり、大山寺一帯が壊滅した為に避難先として建てられた寺院との事です。大山寺再建後を経てその後は真言宗から浄土宗のお寺となっています。
旧道を進むと左手に又も比々多神社が有りました。何故ここにもあるのかというと、明治の町村再編成で子易明神は上粕屋村に分かれてしまったので子易下の住人が子易明神を分祠して氏神として創建したものとの事です。三ノ宮の比々多神社も含めて三つも同名の神社があり、本来の意味は違いますが「三ノ宮」とか「比々多」という名称もややこしさの表れの様に思えてきます。
比々多神社の先を右折すると大山街道旧道の這子坂です。
名称の由来はこの坂を上がる参拝者の姿が子の這いずる形に似ていた等、諸説あるようですが、イメージがつかないですね(笑)
ほどなく次の目的地、「諏訪神社」へ到着です。北条氏の家臣だった大津氏の個人所有の神社を子易上の氏神として提供されたものとの事です。こちらの神社でのちょっとした見所は、幹の模様が鹿に見えると言われている、カゴノ木(鹿子の木)です。
鳥居の向こうには大山もばっちり見えますね。
三の鳥居をすぎたすぐ側に小さな橋が架けられています。かつては橋が二つ並べて架けられていたことから二ツ橋と呼ばれています。ここで、観ボラの役員より、大山に参詣した室町時代の僧侶、道興(どうこう)の歌が披露されました。
門前町に入ると「何々坊」「先導師何々太夫」などの看板が目立ちます。講社名や著名人の名が彫られた玉垣に囲まれた家が並び立ち、登拝記念の石碑も多く、往時の賑わいが偲ばれます。獅子山荘を通りすぎ、昼食休憩の阿夫利神社社務局へ到着です。
ぽかぽかの日差しの中、社務局の紅葉を見ながら昼食をとりました。
集合写真を撮影し、門前町をさらに進みます。
いよいよ、愛宕滝と愛宕社~権田公園~開山堂と良弁滝を周ります。
残念ながら愛宕滝は数か月前の大雨の影響か倒木があり滝には水も無く愛宕社や隣の民家も倒木の影響で荒れた状態でした。続く良弁滝は大山詣の際の禊ぎの滝として一番賑わったことから浮世絵にも多く描かれております。
良弁滝の傍にある権田公園です。明治の神仏分離の際、阿夫利神社の代表としてて大山を神道中心の体制を築くのに貢献した権田直助や、江戸時代に大山に能を広めた貴志又七郎の墓があります。
参道へ続くこの道は、バスの終点の大山ケーブルカー駅まで直行で行ってしまうと見ることがないのですが、観ボラのウォークではこの風情あふれる景観と日本遺産「大山詣り」を感じていただきたく、1つ1つ説明をして、じっくりと堪能していただきました。紅葉も美しく参加者の皆様からも「きれい!」と歓声があがっていました。
さぁ、いよいよ旧参道の「とうふ坂」に入りました。坂の入口にある宿坊「おゝすみ山荘」は安政3年に再建された建造物で江戸時代の面影を色濃く残した雰囲気建物が特徴です。とうふ坂の両側には宿坊、旅館が連なり、古からの参道の雰囲気を残しています。
最後に、とうふ坂の途中にある芭蕉の句碑をご紹介し、ゴールの千代見橋で解散となりました。次回はいよいよシリーズ大山道の最終地、コマ参道から阿夫利神社下社までを歩きます。お楽しみに。