小説 No Exist Man 2 (影の存在) 第二章 深淵 26
小説 No Exist Man 2 (影の存在)
第二章 深淵 26
「なぜだ」
林青は、叫んだ。
「林少尉殿、他の客もいますので」
港区飯倉にある中華料理店奉天苑の店主陳文敏は、一応個室の中であるから他に聞かれる心配はないと思いながらも、近くにいる人に廊下などに人がいないかを見に行かせた。
「人が死んでいるのに、何故事件にならないのだ」
林青は、こめかみに青筋を立てながら机をたたいた。象牙を模した箸が、カチンと音を立て、スープの上に波紋がたつほどである。
「何故事件にならないのか、そのことは、大沢三郎先生に聞いてみましょう。今電話をしましたから、もうじきここに来るはずです。」
「私はあとから入ることにする。それまで他の部屋を用意しなさい」
中国人とはメンツを非常に大事にする民族である。中国のような大きく、そして民族が多く、そのうえ共産主義によって歴史や民族という「目に見えないもの」を全て否定する唯物史観という考え方が浸透している国家においては、その場におけるメンツという事だけが非常に大きな内容になる。その場で見栄を張って相手を驚かせなければ、自分の地位やステータスを維持できないということになるのである。現在の日本でいう「ハッタリでマウントをとる」というような感じであろうか。その内容がハッタリであっても何でも、その見栄を張る行為がしっかりと成立していればよい。逆に言えば、その内容がうまくいかなければ、馬鹿にされてしまって相手にされないという文化がある。唯物史観的な思想の影響ということが言える。
この見栄の張り方には、本当にわけのわからない、またくだらない内容も含まれる。タバコなどは、タールが多い方が良いとされ、ただタールが高く値段が高いものを吸う方が良いとされているし、また、今回林青が問題にしている「どちらが先に待っているか」ということなどもその内容に近いものである。自分の方が相手を待っているということは、何か問題があって相手の力を必要としているということになるので、見栄を張ることができない、つまり「メンツを失う」ということになってしまう。その為に、大沢三郎に何かを頼まなければならないにもかかわらず、メンツを失うことも気にしなければならないのが、林青の立花のである。
「はい、私の事務所をお使いください」
「ああそうね。実験室の移転先を今のうちに見ておきましょう。」
「実験室」
「わかっていないわね。羽田の倉庫の実験室は使えなくなるから、ここに移転するのよ。ここならば、朝ごはんを食べに来るようなふりをして、そのまま実験できるし、ウイルスを仕込んだ弁当を配って多くの日本人を殺すことができるでしょ」
林青は、表情を全く変えることもなくそのように話した。要するに、奉天苑の料理の中に「死の双子」を仕込み、そのうえでそれを配布したり日本人に食べさせたりするということなのである。当然にそのようなことをすれば、奉天苑のオーナーである陳文敏がその責任を負うことになる。日本の警察に逮捕されることになり、また、刑罰に処されることになるのであろう。その間に林青などは中国に逃げるのか、または混乱に乗じて何か別な行動をするのであろうか。
「あ、そうですか。実験ならば地下の・・・。」
「地下の倉庫でしょう。わかっていますよ。見させてもらいます」
林青は、そのまま席を立った。
「なんてことだ」
陳文敏は、そもそも、林青などが監視に来ていること自体があまり嬉しくなかった。そのうえ、ウイルスの責任を自分に押し付けるということになる。実際に、前回の京都での事件で、陳文敏は疑われている。その様に考えれば、ウイルスの散布に関しても自分が疑われてもおかしくはない。林青にしてみれば、最も日本政府に疑われる可能性が高い、うまいスケープゴートなのである。
そしてうまく責任をとれない場合は、自分が殺される。それも生物兵器を使ったテロリストとして、自殺をするのか、または、ウイルスの扱いを誤って事故死をするというようなストーリになるのであろう。その様に考えれば、どの様に転んでも自分の命はないということになるのである。
「いや、お久しぶりです。陳さん」
そのような陳文敏の考えに、全く関係なく、大沢三郎が入ってきた。
京都で起きた事件は、一つには天皇陛下を危険にさらしたということであり、その意味では阿川首相にとって非常に痛手である。また、中国の李剣勝首相がその場でテロで殺されてしまったという結果からは、親中派はそのまま阿川首相を攻撃することになっている。そして、その「反阿川派」という意味では、大沢三郎はその首魁に収まっていた。ある意味で、阿川首相の対抗馬として大沢三郎が押し上げられた形になっている。
そのような意味から、大沢三郎は忙しくなっていた。その代わり、この奉天苑には、三田有希子が大沢の代わりによく来るようになっていたのである。大沢の派閥や、他の野党の代表などを連れて、大沢の代わりにあれこれと話をしている、そういえば、青山優子は最近顔を出していない。大沢との間に何かあったのだろうか。
「いや、大沢先生、久しぶりです」
陳文敏は、そのようなことは全く顔色に出さず、笑顔で握手をした。もちろん片手で握手をする。
「ところで、今日はどのようなご用件で」
「われら、中華人民共和国の林青少尉が、ぜひとも先生にお目にかかりたいということで、一席設けさせていただきました。」
「林青少尉、軍人ですか」
「いや、大沢先生は一度会ったことがあると思いますよ。前は、大使館の職員だったのですが、本国で出世しまして、今は人員解放軍参謀本部の少尉になっています。ただし、戦争をする方ではなく、情報将校や政治将校なので、何かあった時に政治家の代わりに政治を行うというような感じです」
中華人民共和国には、人民解放軍の中に「情報・政治担当の将校」と「軍事担当の将校」が両方いる。占領地や内戦があった場合の治安維持のために、一時戒厳令を行った場合、その時には通常の政治ができないので人民解放軍の将校がそのまま政治を行うことになる。しかし、本物の軍人が行ってしまうと、政治的なセンスがなく、虐殺や略奪を行ってしまったり、重要なことが治められていなかったりして、うまく統治に結びつかない。そのことから、人民解放軍の中には、政治担当の将校として、軍政や戒厳令下の中で、政治を担当する将校があらかじめあり、その将校は平時には情報担当を行っているのである。林青少尉を、陳文敏はそのように説明した。
「遅いですね」
その説明が終わると、大沢三郎はそのように言った。実際に忙しくなってしまった大沢には、あまり時間がない。
「いや、もう少しお待ちください」
陳は、大沢のグラスにビールを注いだ。そのうえで給仕係におつまみを運ばせた。
グラスに何回か注いだ辺りで、扉が開いた。
「ああ、大沢先生。お目にかかれて光栄です。」
女性用のスーツ姿の林青は、満面の笑顔で部屋に入ってきた。先ほどまでの不機嫌な態度は全くない。その豹変ぶりは、陳文敏も驚くほどであった。
「林少尉殿ですか。いや光栄です。」
大沢もたって林青を出迎えた。