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【劒持秀樹】VOL.② 元劇団四季、現スピリチュアリスト主夫が語る人間の純粋性。「後悔しない生き方」とは?

2024.12.15 04:58

前回記事はコチラ→「その人の本質からズレていることが見える、聞こえる」


体験と感情を紐づける役作りを冷静にやっていた劇団四季の劇団員時代


ー聞こえ過ぎることもあれば、入り込んで聞こえなくもなる。


劇団にいた頃は、先ほどお話したような感覚がひらいている人もたくさんいたんです。僕は「物理的な声」だけではなく、「その人の奥底の声」まで聞こえるんですね。言わば、テレパシーに近いんですよ。


ちなみに、生きている人の奥底の声が聞こえる人は、生きてない人のそれも聞こえるようなんです。劇団四季の「夢から醒めた夢」という舞台作品が、霊界の話なんですね。すると、なぜかそういう作品には、先ほどお話したような鋭くひらいた感覚をもつ人が集まるんです。


そうすると、「さっき子どもの声が聞こえて」とかいう会話が普通になるから、自分が変だと思わないんですよね。



ー自分が特殊だと思わない環境。演じるという世界は、感覚の研ぎ澄まされた人たちだからこそ表現できるのでしょうね。


やっぱり、自分ではない誰かを演じるということは、人によって違うと思いますが、「役と自分との境目をなるべく減らしていく」という作業になるんですね。 境目、つまり「他者との違い」とは、出来事に対する感じ方・捉え方と、それに基づく反応(行動)の違いに現れます。


頭で思っていることと、腹で感じていることと、魂が望んでいることは、ほとんどの人がばらつきます。人は、過去の体験をフィルターにして、自分に起こる身体的反応と、感情を紐づけます。この感情を元に、目の前の出来事に「いいこと・悪いこと」といったラベルを貼り、それに見合う行動を選択していきます。


この一連の流れが、個性や性格として個人のキャラクターを決定づけるのです。 ちなみに、僕というキャラクターは、「“嘘”に対して怒りがポンっと自動反応的に出てきて、ぶち切れる」という個性を持っているわけですね。



ー出来事へのラベリングと、感情と行動の連携が、キャラクター(役)を決定づけるわけですね。


そうそう。「かつての体験を通して、どういうラベルを貼ったか」によって、現在の反応や行動が選択されていきます。ラベリングの傾向や「どんな体験があるからこういう感情になるか」等ということを考えることが役作りの一歩目です。


そして、稽古を繰り返すうちに、自分の感覚がだんだんそれにシンクロされていき、嘘に対して反射的に自然と怒るようになっていくと「大分、秀樹という役に入ってきたね。」となるんです。



ーそれは、「役」から抜けられるんですか?


そうなんです。仲間と「役に入った後に抜けるのって難しいよね」と話していました。とは言え、僕はそこまでの大きい役をもらっていなかったし、そんなことを考えるよりも、当時は「いつクビになるか」とビクビクしている時間の方が長かったですが(笑)。 


 だから、すごく冷静に作業をこなす感じでやっていたので、「役にはまってしまう」ことはなかったですが。 

ディズニーダンサーとして「笑顔でいること」は「喜び」を取り戻すリハビリに


むしろ、ディズニーランドのダンサーだった時、「常に笑顔でいる」パフォーマンスを要求されていたので、それに侵食されて、自律神経失調症のようになったという体験はありますね。


「全然楽しくないのに、なんで笑っているんだろう」って。 それで、ここ(口角周囲)がずっと痙攣しているようにピクピクしていた時期がありました。自分の意に反する笑顔を作っているから、抵抗して戻ろうとするんですよ。 



ー身体が悲鳴をあげていたんですね。


これは後に分かったことですが、先ほどの僕の父親の話に通じています。父親と楽しく遊んだ直後に、「嘘だった事実」を言われたんですね。つまり、すごく喜んだ後に落とされるという体験をしたために、喜ぶことが怖くなってしまったようなんです。


だから、「最初から気分が上がらなければ、がくんと落ちなくて済むじゃないか」という、謎の理論が自分の中に構築されていました。中高生時代は「何があっても別に嬉しくないし、楽しくないし」と、あまり感情を表に出さず、クールを装うみたいになってしまったんです。


身体と心がバラバラな状態で、ずっと違和感があった。 今思うと、《喜び》に関しては、役を演じてお金ももらえるし、お客様が喜んでくれるという大義名分がある状態で、リハビリをさせてもらっていたんですよね。



ーなるほど。大義名分があるから、喜んでもいいと自分に許可を出せた、と。


はい。そこから、笑ったり喜んだりということを思い出したんです。でも、最初は体が抵抗していたんですね。 

 


ー抵抗があったけれども、やり続けた。 


それは頭でも色々と考えたり、周りの後押しもあったりしました。でも、結局は《自分の魂が自分であろうと常に望んでいる》ので、「喜ばない」ことは、「自分らしくない」と知っているから、魂が突き動かしていろんな状況(ディズニーでのダンサー体験など)を整えていくのですよね。


理由なんてないのです。これを叶えるために、色々な出来事が起きて、それをうまく拾って組み立てて「今がある」。役者は自動反応的になるまで稽古を通してやるけれど、どこかで「これは役なんだ」という命綱をもっていないと帰ってこれなくなります。 


入り込んでいる自分を、(遠くから)見ていなきゃいけない。



ー役者じゃない人でも、当てはまるように思います。「自分はこういう人だ」と思い込み、その自分を度々出動させていたら、そういう自分になりますね。


そうです。自分が分からなくなり、しかもなかなか抜け出せなくなりますよね。僕は「世の中の出来事、悲劇的なことにどっぷり浸かっている自分」と「それを俯瞰的に見ている自分」というのを色々な場面でやってきました。


他人に対しても、「何故こんなに嘘をついているんだろう」と見えていましたが、それらが統合されていった時に、例えばセッションの時に「ここだな」と相手のポイントが分かるようになり、その見え方も活かされるようになりました。 


「同調できる」逆エンパス気質の体験


ー「自分を自分で見る」ようになった、きっかけのような出来事はありましたか? 


まず、「人と同調できる」ことを初めて体験したのが高校1、2年生くらいです。当時、仲が良かった子がメンタルの弱い子で、精神安定剤や睡眠剤を飲んでいました。 その子とは仲が良かったんです。ある日、僕が学校から帰ろうとしたら、急に自分の世界にエフェクトがかかった様な状態になりました。


人の声がまず水の中にいる様な状態で、宇宙人が喋ってるように聞こえて何を言っているかが分からない。それに、目の前も電波ノイズが入ったテレビ画面のような状態で、まともに見えない。 さらに、何か言おうとしても喋れないのです。


「自分がそこにいなくなった」ような、「遠くのモニターを通して世界を観察している」様な状態になりました。



ーここにいるのにいない。


しばらくして、その状態から元に戻ったのですが、「なんだろう」と思った時に、ふとその子のことが思い出されました。「あれは、あの子の感覚で、多分あんな風に世界が見えていたんだ」と。 それで、家に帰ってすぐにその子の家に電話をして、お母さんが出た瞬間に「今日〇〇ちゃん大丈夫ですか?」と聞いたんです。


すると、「実はね、秀樹に会うって言って出かけて、道が分からなくなって帰ってきて、それからずっと泣いてる」「ちょっと今は喋れる状況じゃない」と言われたら、「そうですよね」と。



ーその子の体験した感覚を感じた。


「こういうふうになるんだな」と感覚がリンクした感じです。劇団にいた頃も、「夢から醒めた夢」に出演していた時に、一番感覚の鋭い子と感覚をリンクした時がありました。 でも、段々とそれが気持ち悪くなってきました。



ーそれは、入り込みすぎて同調が起こるのでしょうか?


うーん。それはお互いなんじゃないかなと思います。僕は当時、「自分が相手に侵入されている」と思っていました。そのような、人の感覚を自分のことのように感じる体質の人を、スピリチュアルの用語で「エンパス」と言います。 


僕は、自分を同調しやすい人だと思っていましたが、後から考えれば、逆だということが分かりました。「逆エンパス」だったみたいです。どちらかと言うと、僕が相手に入って、その感覚を拾いに行っていたんですね。 


だから、「おっちゃん」に関しても、少し覗かせてもらった感じなんです。何故トントンに暴力を振るうという行動に至ったのか、というと「ねじれた感じ」があまりなく、「溢れてしまった感覚」なんです。 「それがあなたなんですよね、仕方ないな」となりました。 


《悔いが残らないように生きよう》
仕事を辞めて子どもと一緒にいると決めた


ーそれが「おっちゃんの純粋さが見えた」という意味。


そうです。とはいえ、恐らく世間一般からすれば、「ボコボコにされてるんだよ、息子が!!顔が腫れあがっているのを見て、なんとも思わなかったの?!」と言われたら、僕も何とも思わなかった訳ではないです。 どちらかと言えば、「バカだな」と思いましたね。



ーそう思うのは、どんな気持ちからですか?


まず僕は、子どもたちに「自分のやったことや言ったことには、自分で責任を取るしかないからね」と伝えています。それに「人に対して、嫌なことをしたら、必ず自分に返ってくるよ」という話もしています。 


その逆もまた然りですし、そういうことについて、子どもたちと十分すぎる程、共有してきたという思いがあるんです。それに、僕には前提として、《人間は、生まれてくるその瞬間も、逆に天に還るその瞬間も、全て自分で決めている》という感覚があります。 


だから、あの事件についても《自分で自分の人生の設計をしているのだから、ここで生きて帰ってくるも、もしそこで天に還ってしまうも、それはトントンが決めてること》なので、僕にできることはないんですよ。



ー生きるも死ぬも、その人の魂が決めてること。


はい。いつかどこかのタイミングで、どちらが先か分からないけれど、お別れが来ます。その時に、「あれをやっておけば良かった」とか、「これを言っておけば良かった」とか、僕はそういう《悔いが残らないように生きよう》とずいぶん前に決めました。 


それもあって「仕事を辞めます」宣言をした訳です。 



ーそうでしたね。


主夫になるつもりはなかったのですが、《外で仕事をしている暇があったら、僕はこの子たちと一緒にいたい》と思ったんです。《自分に悔いがないように、子どもたちと「一緒にいたい」と思う限りは一緒にいよう》と決めてからこれまで、僕自身、《悔いが残らないところまでやってきている》という自負があります。 


だから、もしも今、どちらかが死んだとしても「今日なんだね」と思える。「やりたかったけれど、やれていないこと」はなくて、後悔がないんです。 



ー私自身、なかなかそうは思えませんが、「人は自分が後悔したくないんだ」ということは私にも腑に落ちていることがあります。


そうです。



ー怖いんですよ。「子どもが何かあったら」と思う時は、「自分が怖い」んです。


そうそう。そこに「罪悪感」があるかないか、なんです。その罪悪感は、結局「やりきれなかった自分への後悔」なんです。自分なんですよ。どこまで行っても「自分」なんです。 トントンのことで言えば、もし天に還ってしまえば、「寂しい」はもちろんあります。


もちろんあるけれど、そこに「後悔がない」。それだけなんです。 



ー自分に対する後悔。


全部そうですね。結局「自分が怖いし、後悔する」と思うから、それに直面したくない。自分が自分に嘘をついて、魂の望みを叶えてこなかったとすれば、どこかで誰かに責任転嫁して、反応してしまうんです。


―確かに。でも、耳の痛くなるお話でもあります。結局、私はお二人のそれぞれのお話を聞いて、私の見た世界ではないから「分かる〜」とはならない。でも、ただ「秀さんはそういう風に見ているんだ」と「それが分かっている」。 人と人が分かり合えるっていうのはそのレベルまででしかないと思っていて、「違う」ということが分かればいいんじゃないかなと。


十分ですよね。それ以上にはなれない。 新しい事業のアイデアも、奈央ちゃんと一緒に、とことんぶつかり合いながら創造してきました。そういうことが全て、自分や周りを豊かにすることに繋がるということが見えてきたからこそ、自分から目を背けずにやってきました。


自分からズレて、キレて、理不尽なことを言って、のような過程をただ繰り返してるだけでは疲れます。それに対して、「もうやめよう」と関係を断ち切るとか、仮面夫婦になるとか、色々と「逃げるための方法」はありますよね。 


でも、「このぶつかり合いさえも、周りにとっての豊かさになる」と思えば、また何かが産み出されるんですよ。



ーそれが面白い。


そうそう。人生の全ての場面において、そうすればいいと思うんです。どうなるか先が分かっていて、その波に乗ってもつまらないから、「こんなこと起きちゃうんだ」と楽しむんです。



ー分からないからこそ面白いし、わからないから知ろうとするのが面白い。


はい。僕はそういう感じ。 


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