【劒持秀樹】VOL.③ 元劇団四季、現スピリチュアリスト主夫が語る人間の純粋性。「後悔しない生き方」とは?
前回記事はコチラ→「体験と感情を紐づける役作りを冷静にやっていた劇団四季の劇団員時代」
人間関係に必要なのは「想像力」
昔から思っていることですが、分からないことに対応できる力があるとしたら、《動物的本能》だと思うんです。人間はそんな感覚が鈍ってしまっているのでしょう。だから、「こうすればうまくいく」という、保証がほしくなる。
でも、《人間にしかない力があって、それが想像力》だと思います。特に、人間関係において一番必要なのは、この「想像力」だと思っています。
ー想像力、とても大事ですね。
「感性」とも言い換えられる「想像する力」が人間にはあるはずなのに、それが現代では足りない。昔はエンターテイメントが想像力を刺激してくれて、色々な感情を揺り動かしていましたよね。
感想や想像がみんな「一致」するようなものは、やっぱり面白いと思えず、結局《違いがあるということ自体がすごいことだな》と思うんですよ。
ー違いを違いとして知ること、それを面白がれるのは素敵なことですね。
はい。今はYouTuberがたくさんいて、大体同じようなことを解説すると、みんなそれに寄せる。「自分だけはこう思うんだけどな」という様な感覚もあるはずです。それこそ、違いがあっていいと思うんです。
不条理演劇で代表的な「ゴドーを待ちながら」や宮崎駿作品のように、余白があるからこそ、多様に受けとれるのだと思うんです。
できないことがあるならば、適切に依存すればいい
ー余白、私も大事だと思います。全部自分の世界がすべてになる。周りも自分と同じように、ちがう世界が広がっているんですよね。
そうそう。「問題」というのは、ある人にだけ起きているのではなくて、周りの人たちも一緒につくるわけです。相手と自分でつくっている。でも、被害者面してしまうんです。「被害者意識」は、とにかく不調を生み続けます。
罪悪感や無価値感、被害者意識もそうですが、責任転嫁や猜疑心、理不尽、これが連動して意識の扉が開いていくんです。「開いたな」と気づけば閉じることができますが、GO!と開いた扉に突っ込めば、ますますそれを強化していってしまいます。
共通していることは、「自分の身だけは守りたい」という意識ですよね。ただ、他者への期待や不安・不足感から出るものと、自分への愛が溢れて出るものの違いはあります。その源泉に違いによって、目の前に起こる出来事は変わってくる。これが、まさにトントンに「自分がやったことは返ってくるんだよ」と話したものです。
ー子どもだから、と「弱い立場」を作らない、秀さんの言葉からはそんな印象を受けます。
そうです。社会的に子どもは弱い存在だから、同じ立ち位置では見られないという前提があったりします。僕には、それが傲慢に聞こえます。だって、大人になっても、できないことがいっぱいあるわけでしょう。 できないことがあるならば、適切に依存すればいいだけです。
ー「依存が悪い」の様な風潮もあるのでしょうか。
そう。「自立する」ことと、「依存しない」ことはイコールではないはずです。むしろ、「どこに依存すればいいか」を知っている人が「自立している人」だから。「まだご飯が作れないし、バイトもできないから、その辺はお願いします」というだけですよね。
それに対して「ありがとう」と、シンプルなんですよね。お互いに助け合って生きているのだから。
ー「できないことが多い」のが「だめなこと」ではない。でも、そう思いがちですよね。
特に、お金に関しては、他のことに比べるとすごく比重が高い。「これもできる、これも得意です」となっても、「でも、稼いでない」と社会的な評価を得られていないならば、「もうおしまい」となってしまいます。 あらゆることにお金が絡み、それで世界が歪んで見えている。
「そのバイアスを一回外してみようよ」と僕はずっと言っています。子どもを「弱いもの」と見るのは、実は「できることが少ない」こともあるけれど、「お金を稼いでいない」というバイアスが大きいのではないかと思います。
ーそういう見方もできますね。
僕が母親に何年か前に言われたのが、「あなたたちにお金を食いつぶされて、しかも、面倒も見てもらえず、私は何のためにあなたたちをこんなに苦労して育てたのよ」と言われたんです。 耳を疑う言葉でした。結局「金じゃねえか」と。そこには少しくらい「愛があった」と言ってみようよ、と思いましたよ。
それさえも曇らせてしまうのがお金の力なんだと思います。 魂はそんなことを思っていないからこそ、「何言ってんだよ」と僕は切れてしまうんです。思ってもいないのに、言ってしまうから拗れるんですよね。
母親はその他にも、僕たち夫婦に「あんたたちが幸せそうにしているせいで、私がみじめで不幸に思える」ということも言っていました。被害者意識ですよね。でも、そこでまた僕が被害者意識になると「同じ」になってしまいます。
ー親が言ってると思うとモヤモヤしますし、飲み込まれてしまいそうになります。
母親はマムシのようなものと思っていて、近くに行って噛まれたら、それはこちらの責任です。だから、どう考えても、母親とは一定の距離を保たないといけないんです。 家族であろうが誰であろうが、関係なく、自分との距離を一定に保っておかないと容易に巻き込まれます。
だから、これは、僕なりの《母親への尊重の仕方》なんですね。
ーその距離感が難しかったりしますが、それもやりとりして感じていくしかない。
はい。ただの好き嫌いだけではなく、近づきすぎたら「熱い」から、それを「少し離しておいてあげないとね」という感じ。最近の社会では、この距離の取り方も難しいと思います。 というのも、その距離を社会に決められていたり、ストーカー的に勝手に詰め寄る人もいたりしますよね。
全部一定の答えがあると思い込んでしまっているように感じます。 そもそも一人一人その適切な距離が違いますし、しかも、自分も相手も、状態や状況によって適切な距離がまた変わりますよね。
ーそうそう。人によっても、場所や自分の状態によっても変わりますね。
「大好き」と言っていても、ある日「ちょっとごめん!距離を置いてもいい?」とか言ってしまう時があるわけじゃないですか。だから、たった一人の相手に対しても、一つも正解なんかなくて、《今、この場において、どうなのか?》しかないんです。
その人が今どういう状況なのか、どういう人なのかによって、その時の正解は一個ずつ、しかも、刻一刻と変わります。
ーそうですね。私の世界で見たり、関わってない事柄についての正解を問われても、「分からない」。できることがあるとすれば、「一緒に行って、それぞれ見て聞いて感じてみよう」と言うしかないです。
「分からない」から「分からない」という答えなのにも関わらず、全員に対して「同じ」良い距離があると思ってしまう。やっぱり、まず先に意識の共有がないと役に立たないんです。そこをすっ飛ばしてしまうから、机上の空論になってしまいます。
同じ人に対しても、日によっても違う反応があるという前提を共有した上で、「まず一旦これをやってみようか、そうしたら7割ぐらい当たるよ」と。それで、「残り3割はどうしたらいいですか?」と言われたら、「臨機応変に、としか言いようがないわ」と言います。
伝わらないのは、伝える側の問題もあるということです。
矛盾したことを言ったりするのが人間だから自分との対話を繰り返す
僕の中で、「潜在意識」にも大まかに分けて3段階くらいに分かれています。
「薄々気づいてるもの」や「気づきたくなくて見て見ぬふりをしてるもの」、「奥底にあり過ぎてあることすらわからないもの」のように。 これらの潜在意識の上に、頭で考えたものがあって、それが全部違う。それぐらい複雑だから、《矛盾したことを言ったりするのが人間》だと思います。
ーそう思います。
だからこそ、「結局何なの?」と言われても、「こうも思っていたし、これもあった」と《どれもある》んですよ。しかも、正反対のものもあります。それも、まるっと「あなたなのですね」ということです。
それが「本音と頭」のように2段階だと考えてる人に聞かれて答えると、通じないことがあります。もっと立体的で、複雑に階段があります。ある意味、全部本当に思ってることだから、《自分の中では一緒の自分》なんです。 全部その通りにしか思ってない、おっちゃんも一緒ということです。
でも、「どこ」を表現していくかは選べるから、《自分の深い部分にアクセスして対話を繰り返す》ことをやるんですよね。
ーすごくよく分かります。すべてが自分にある。その上でどこを出すかを選ぶ。
自分との対話の精度を高めて実行するのは、大変だということは分かります。せっかく穏便に、楽しく生きるためにそれを隠す選択をしてきたのに、なぜもう一回見たくない部分をほじくり出さなきゃいけないのか、理由がないですから。
「このままじゃ本当にダメだ」と切羽詰まっているという状況がない限り、人はお尻に腐ったバナナとかを詰め込むんですよ。
ー切羽詰まった状況になって初めて「始められる」。腐ったバナナ。笑
最初は嫌な匂いもなく、綺麗にしまっているように見えます。でも、段々とガスが充満し、明らかにお尻が破裂しそうになっているけれども、爆発するまでは放置したい、と。
ー爆発してからでは、やばいですが。
そうなんです。でも、その時は気づいていないから放置するのだけれど、さっさと捨てればよかったし、美味しいうちに食べればよかったとなるんです。爆発した後の処理ほど、大変なことはないですよ。
ーひでさん自身も、爆発したことは?
いっぱいあります。それこそ、本当にお金がめちゃくちゃなくなるとか、仕事がなくなるとか、人間関係がうまくいかなくなるとか、色々なことがありました。 トントンが生まれた直後、僕が「いろいろと全部辞めよう」と受け取った時に、クライアントさんにも「セッションを辞めます」とお伝えしました。
でも、その中で一人「見捨てられた」と受け取った方がいたんです。 僕が思ったことを貫いたら、嫌な思いをした人が他にもいて、しかも、その余波で怒りが全部奈央ちゃんに向かってしまって、彼女が鬱になりそうになったんです。
「僕、死んだ方がいいのかな」とさすがに思いました。それが「罪悪感」ですね。
ー自分への罪悪感がそこにあった。
罪悪感があると、死ぬほど引きずられます。だから、敵を作ります。それは、意図していなかったとしても、結果としてそうなるということは、《自分がどこかで「見ていない部分」があるのだと立ち止まった方がいい》と僕は思うんです。
ーそれが、自分のつくっている世界。
はい。「なぜ僕はこんなに怒ってるんだろうか」ということを見つめると、怒りが原動力になっていたりします。それを「世の中を正す」という方法に使おうとすることは何かが違っていて、《遠くの世の中(外面)の前に近くの家庭や自分自身(内面)を正そうよ》という話です。
それは、フラクタルで必ず出ているわけですから。
人と人とが関わり生きるということ、そしてトントンに思うこと
アルコールや麻薬というのは、実験結果で確かに依存性が高いと認められています。けれども、ある実験で、群れにいる状態のラットにアルコールや麻薬を摂取させるという実験をしてみたら、どちらにも全く依存しなかったという結果があるんです。
そもそもネズミは、野生では群れにいることを考えると、一匹だけで孤立している状態自体がストレスなわけです。つまり、薬もアルコールも寂しさを埋めるために使われていたということが分かった。
トントンに暴力を振るってしまった「おっちゃん」も「一人暮らし」だった背景がありました。やっぱり、孤独で寂しかったのかなと。
ー寂しさを埋めるための道具。
結局、社会の中で働いている人は、嫌でも人と関わる機会がありますよね。だから、「1ヶ月くらい誰とも話さず、部屋の中から一歩も出ない」ということをやってみたら分かると思います。「これは痛いし、やばいよ」と。
ー社会的孤立状態を実感する、と。
だから、ケアマネが家に行くとか、生活保護を出すとか、それはそれで必要なんですけれど、それよりも、外に引っ張って連れ出して「草刈りやってもらえます?」とか言ってあげればいいんですよ。弁当一個、御礼で渡して。
病院に来たら、病院の草刈り、掃除とかをしてもらって、「超綺麗になったよ、ありがとう」って。それが一番の薬ですもんね。
ー人と人との関わりですね。実際に在宅医療の現場で、そう思うことがたくさんあります。
トントンが本当にすごいなと思うのは、「人との垣根が一切ない」こと。
そこが本当に大好きなところで、「素晴らしい」と思っています。ただ、「フルオープン過ぎると、たまにこうやって痛い石を踏むこともあるからそれだけは気をつけてね」「裸足で荒れてて危ないから、靴は履いておこうね」とは伝えます。 でも、それもまた自分の選択だから。
今回について言えば、トントン自身が「優しいおっちゃん」として認識をしていて、その一場面として「殴った」ところも、両方捉えています。「お酒を飲んでいた」ことも。 一場面だけ捉えると、傷になって残ってしまい、「傷ついたよね」と周りが扱い、さらにそういうラベリングをすることになるけれど、そうはならなかった。
警察官が読み上げた調書で、みんな笑って吹き出したのだけれど、「警察官が到着した時に上半身裸で血まみれの男児が、泣きながら焼きそばを食べていた。」とあったんです。
ーおお!食べていたのね。
そう。「もう一回、食ってんじゃねえか」って。「被害者」であると同時に「食ってる」。そのためについて行ったわけだしとは思うけれど、「ちょっとすごいな。食うんだ!その元気はあるんだ!」と思いましたね。 PTSDや心の傷を心配する声もあります。
でも、今何も起こっていなくて、起こっていないのに言われるがまま専門医に連れて行くのも変だと思うんです。それは、「自分たちがどうにもできなかった時に頼るべき相手なんじゃないの?」と。 僕らはそんな生き方をすることで、人の色々な感情を揺さぶるという「シェイカー」のお役目があるようですね(笑)。
「後悔のない人生を」とよく耳にするが、彼は、今という瞬間を「後悔がないように生きている」のではない。彼は《自分に嘘をつかず》生きている。その結果として、今お別れがきても、何も後悔するようなことはないと言い切る彼の潔さに淀みはなかった。
私自身を省みると、「やりたくても、まだやっていないこと」が見えてくる。人は何かと理由をつけてやらないことがある。それは、失敗が怖かったり、変わることが不安だったり、様々な背景がある。でも、その「やりたい」と望んでいる自分を無視せずに、その恐怖や不安を見つめた時にこそ、奥底にいる自分と手を取り対話ができるのだろう。
華やかな世界にいた彼だったが、今、子どもとともに日々生きることを、遊び楽しみながら一所懸命にやり抜く姿は、周りの多くの人の「〜するべき」「〜せねば」を緩め、お金や愛に対する縛りを解き《自分を純粋に生きることとは?》という問いを投げかけているように思う。
父親の嘘や母親との距離について、赤裸々に語ってくれた彼。他者に語れるほど、「愛とは何なのか」感情を揺さぶられながらも味わいつくし、自身と向き合い続けてきたのではないだろうか。 感情を揺さぶるシェイカーとも呼ばれる彼らと共に過ごすことで、どんな感情が浮き上がるのか。
そして《愛とは》一体何なのか、触れてみた人には、自分なりのこたえが見つかるかもしれない。
PROFILE
劒持秀樹
プレゼンスアップ・コンサルティング代表、主夫
1999年3月 早稲田大学社会科学部を卒業
1999年4月 テーマパークダンサーとして、ショー・ステージに出演
2003年4月 劇団四季入団
主な出演作品:ライオンキング・夢から醒めた夢・CRAZY FOR YOU
2007年1月 劇団四季を退団して独立
2010年7月 個人事務所プレゼンスアップ・コンサルティング設立
2014年5月 明日香出版社より「選ばれる人になる 絶対的存在感の作り方」出版
2016年8月 三笠書房より「ビジネスで差がつく 自己アピールの技術」出版
2018年8月 第2子誕生をきっかけにビジネス活動を休止し、淡路島へ移住
2020年1月 コインランドリーでイザナギ・イザナミからのメッセージを受け取る
2022年7月 ヒモキTV開設
長男の誕生をきっかけに、「子どもの成長を一瞬たりとも見逃したくない」という想いのもと、すべての仕事を辞めて淡路島へ移住。
自然の中で、家族と共に釣りや畑、山遊びを中心としたスローライフを味わいつつ・・・ 「ツインレイ状態の目醒め」をコンセプトとして、パートナーシップを豊かにすることで、人生を軽やかに、自由に生きるための智慧を、ライブ配信や講座を通して仲間と共有する日々を楽しんでいる。
独自の視点から語られる内容の奇抜さと、考察の深さ・言語化の鋭さは、他のスピリチュアリストや自己啓発家、コンサルタントらと一線を画す存在として定評がある。
【メディア】
~ヒモキTV~「ヒモ的生き方の3要素(=お金の束縛からの自由・自分に正直・軽やかに頼れる)」に関する様々な情報を、Facebookライブで不定期に配信
お金の学校の詳細はコチラ
取材
はぎのあきこ
フリーインタビュアー / ウェルビーイング思想家
自分とまわりの環境とのつながりの中で、安寧を感じ幸福な状態を指すspiritual well-being思想を基軸として、「わたしたちはどう生きたいのか、どう死にたいのか」という正解のない問いを探究するため、独自のスタイルで取材・執筆をしながら、タッチケアやエネルギーワーク、ヒーリングを行うセラピストとして活動中。
保健師および看護師、教員として人の生死に触れ、「いのち」に直面してきた経験や最愛の祖母の死からの学びから自分の生き方、在り方を見つめ直すことが今の活動を始めるきっかけとなっている。「自分を知る」をテーマに生きる力を育み、体感して考える講義を得意としている。
取材や発信のテーマは、十人十色の「自分」という存在の美しさ、「いのち」がある今の喜びを伝えている。 情熱をもって「いのち」を尊重し生きている人への取材を2024年より自身のウェブサイトにて掲載スタート。
《主な講義》
2021年〜「生命倫理」「看護学原論」の一部講義担当
2024年〜「人間関係論」授業担当
在宅医療専門クリニックにて院内研修講師担当
《講義内容》
セルフマネジメント
メンタルヘルス/ウェルビーイング
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