切字の彼方へ
https://sengohaiku.blogspot.com/2020/08/ 【【アーカイブ】特集『切字と切れ』】
https://sengohaiku.blogspot.com/2019/12/127-005.html 【【緊急発言】切れ論補足(4)動態的切字論2――現代俳句の文体――切字の彼方へ 筑紫磐井】より
1.ふたたび始めに
前号の記述が誤解を呼びそうなので繰りかえしを述べる。切字論はある理念に基づいていると従来考えていた。前句が短歌の一部でなく、独立した詩歌だと認識させるためには、前句と下句の間に切断が必要となり、そのために「かな」という語――切字が重用されるようになった。だから切字と切れの効果に関心があり、正統的な切字を探求することになる。これを「静態的切字論」と呼んで、それはそれでそうした方面に関心がある人に議論を任せたいと思う。
もう一つのあり方が「動態的切字論」で、その「前提」は静態的切字論と似ているが、いったん切字が生まれた以上、その理念――切れの効果などとは無関係に、連歌師や俳諧宗匠、俳人たちの知的活動として切字らしいものが再生産されてゆくのを追跡する。こうした活動に関心を持つのが動態的切字論である。静態的切字論が文学上の理念をピュアに追求するのに対し、動態的切字論は、それが文学上間違っていたとしても、連歌師や俳諧宗匠、俳人たちがどんな活動をしてゆくかを探求しようというものである。現に切字とされているものがどのように変化したかという社会現象的な関心である。別に切字がなければいけないと思っているわけではなく、ともかく切字が始ってしまったからこれがどう推移するかに関心を持つと言う思考方法である。浅野のように「切字精神」が完成したからと言って、芭蕉以後の切字に関心がないわけではない。現代の月並みな切字にも大いに関心があるのである。
連句時代の切字を要求する発句(つまり付句を前提とした句)と、連句を廃止してしまった明治以降の俳句(つまり付句を前提としない句)にあって、この2つを接続して考えるには、切れとか何とか言う理念を放棄して、没価値的に切字がどのように変わってきたかを見ることの方が有益なのではないか。別にその是非を問うているのではなくて、人間とはこんな考えかたをするものだと言うことだけを示したいと思うのである。こういう現象が存在したことを前提として、その上で切字の価値を見つけたい人はまた考えてみればよい。一方でこれからも切字が残るのかどうかについても、――もちろん残らなくてもいいのだが、もしそれに類したものが残るとすればどう残るのかを尋ねたいと思う。ここまで来ると、前回紹介した川本提案説に近づくと思う。
連歌から貞門までの切字はここで一頓挫し、芭蕉は48字皆切字なりと言って、一見切字は廃止になったようにも思えるが、実は芭蕉以後も切字は続いており、現在でも切字論(その後は、切れ論と名称を変えたものとなっているが、本質は変わらないだろう、相変わらず切れの根拠に切字を置いているからである)は盛んな訳である。実際俳句辞典や入門書を見れば、どれも「かな」「や」の紹介から始り、付け足しのように芭蕉の48字皆切字説を紹介し、矢張り最後は切字入門講座で終わっているのが現状のようである。こうした考え方にも動態的切字論推奨は役に立つと思う。
2.時代を下る
さて切字の分類については、川本『俳諧の詩学』で専順法眼之詞秘之事の切字を次のように分類している。これはすでに『芭蕉解体新書』で示されている。
助詞=かな、もかな(もがな)、か、よ、そ(ぞ)、や
助動詞=けり、らむ(らん)、す(ず)、つ、ぬ、じ
形容終止形の語尾=[青]し
動詞命令形の語尾=[尽く]せ、[氷]れ、[散りそ]へ、[吹]け
疑問の副詞の語尾=[いか]に
もっとも、これに先立ち、余り評判が良くはない浅野『切字の研究』でもこうした分析は行われており、もっと詳細な分析が行われているので、ここでは取りあえず標準的成果としてこれを使うこととしよう。
●浅野信『切字の研究』による『専順法眼之詞秘之事』18切字の品詞別
[助詞]
【かな】終助詞=詠嘆
【もかな】終助詞=願望
【そ(ぞ)】終助詞=強調(係助詞なので切字ではない)[注]
【か】終助詞=疑問
【よ】終助詞=願い(命令)
【や】助詞=詠嘆(係助詞なので切字ではない)[注]→7つのや
[助動詞]
【けり】助動詞=過去・詠嘆
【らむ】助動詞=現在の想像
【つ】助動詞=完了
【ぬ】助動詞=完了
【す(ず)】助動詞=打消し
【し(じ)】助動詞=推量打消し
[形容詞の語尾]
【し】形容詞の語尾
[副詞の語尾]
【に】副詞(いかに)の語尾
→「いかに」を「いかなる」(形容動詞)の連用形と見る見方もある。
[下知(命令)]
【せ】動詞の語尾(命令形)
【れ】動詞の語尾(命令形)
【へ】動詞の語尾(命令形)
【け】動詞の語尾(命令形)
[注]係助詞の「や」「か」「ぞ」を浅野は、係助詞であるから切字でないとする。終助詞の「や」「か」「ぞ」のみを切字とするのである。したがって、専順の挙げた例句を否定する。同様に、副詞(いかに)の語尾の「に」も切字と認めない。しかし、現にある切字一覧表を否定するのはフェアでない。
一方逆に切字に係助詞を発見して切字の機能を理論化したのは川本であった。
我々が通常切字として理解しているのは、このうちの助詞・助動詞であり、形容詞終止形・動詞命令形は切字として理解していない(せいぜい、句末の名詞止めが「切れ」ているという意味と同様に、これらは切れている、と言う頭の上の理解であろう)し、副詞は全く切字の体をなしていないと考えられる。しかしこれは当時の人々が切字を何として理解していたかを知るための手がかりにはなると思うので一応挙げておきたい。
ではこれを通時的に推移分析をしてみたらどうであろうか。『切字の研究』を見ても作法書ごとに切字の文法的機能を示しているが、これを全体として通時的にその推移は示していないようである。
まず、学校文法の、品詞の種類を全て挙げて、即して著作順に切字を落とし込んでみることとする。ただし、同じ単語であっても品詞はいくつか分かれるし、それぞれの論書の中でどれに当たるか判明しないものもある、特にBLOGの論考でもあり、学術論文でもないので一応の整理として見て欲しい。特段厳密な議論をしなくても私の議論には余り大きな影響はないからである。
【切字にかかわる全品詞の推移表】①~⑨の番号は、前号で述べた文献の種類の略号である。また()のついた略号は前回掲げた別本に上がっている切字である。
(1)[助動詞]
過去=き④(⑥)⑧⑨、けり②③④⑤⑥⑦⑧⑨、
完了=たり⑧⑨、り⑨、つ(②)⑤(⑥)⑦⑧⑨、ぬ③④⑤⑥⑦⑧⑨
推量=む③④⑥⑦⑧⑨、んず、けむ④、らむ②④⑤(⑥)⑧⑨、めり(⑥)⑨、らし(⑥)⑧⑨、まし⑧⑨、べし①⑧
打ち消し=まじ⑧、ず③⑤⑧⑨、じ⑤⑥⑦⑨
断定=たり、なり②(⑥)⑦⑨
希望=たし⑧、まほし、
* *
受身・可能=る・らる、
使役=す・さす、しむ、
比況=ごとし、やうなり
継続=ふ
推定=なり
(2)[助詞]
終助詞=な⑧⑨、そ③⑧、ばや、なむ、もが・もがな⑤⑥⑦⑧⑨・もがも、しが・しがな⑧・しがも、ね、か、かな①②③④⑤⑥⑦⑧⑨、かも⑧⑨、は、も、な④⑨、かし③⑦⑧、:
間投助詞=や、よ③④⑤⑥⑦⑧⑨、を⑥、ろ、ゑ:
係助詞=は、も、ぞ③④⑤⑥⑦⑧⑨、なむ⑧、こそ④⑥⑦⑧⑨、か③⑤⑥⑦⑧⑨・かは(⑥)⑦⑨・かも、や③④⑤⑥⑦⑧⑨・やは(⑥)⑦⑧⑨・やも:
接続助詞=ば⑥、とも、ど、ども、が⑨、に、を⑧、て、して、で、つつ、ながら、や、:
* *
格助詞=が、の、を、に、へ、と、より、から、にて、して、:
副助詞=し、しも、のみ、ばかり、まで、など、だに、すら、さへ、:
(3)その他の品詞
形容詞・終止形の語尾=なし②、し④⑤⑥⑦⑨、はなし(⑥)⑨、もなし⑦⑨
動詞・命令形の語尾=れ④⑤、せ⑤、へ⑤、け⑤、下知
疑問の副詞の語尾=[いか]に⑤⑦⑧⑨
*
副詞=さぞ⑥⑧⑨、いかで⑥⑨、なと⑦、いかが⑧、何⑦⑧
感動詞=いさ⑥⑦⑧⑨、
代名詞=いつ⑥⑦、いづれ⑥⑦⑧、いづこ⑦⑧、いづら⑧、誰⑦⑧
接頭語=いく⑥⑦⑧
動詞=あり⑧、候⑨
動詞語尾=ゆ⑧、
その他の品詞までを挙げると際限がないので、助動詞・助詞に限り、その推移を時期的に分析してみたい。品詞の種類が推移してゆくのと、同一品詞の種類の中でも更に語が推移してゆくのを見ることができる。
[切字にかかわる助動詞・助詞の推移表(初期→後期/切字となっていないもの)]
(1)助動詞
推量=べし、らむ、む、けむ→めり、らし、まし/(切字となっていないもの)んず、
過去=けり、き、
完了=つ、ぬ→たり、り、
断定=なり/(切字となっていないもの)たり、
打ち消し=ず→じ、まじ、
↓
希望=→たし/(切字となっていないもの)まほし、
↓
(切字となる可能性のあるもの)
推定=なり
受身・可能=る・らる、
使役=す・さす、しむ、
比況=ごとし、やうなり
継続=ふ
(2)助詞
終助詞=かな、かし、そ、な→もが・もがな・もがも、しが・しがな・しがも、かも/(切字となっていないもの)なむ、ばや、ね、か、は、も、:
間投助詞=よ→を/(切字となっていないもの)や、ろ、ゑ:
係助詞=や・やは・やも、ぞ、か・かは・かも、こそ、→なむ/(切字となっていないもの)は、も:
↓
接続助詞=→ば、を、とが/(切字となっていないもの)に、も、ど、ども、て、して、で、つつ、ながら、や、:
↓
(切字となる可能性のあるもの)
格助詞=が、の、を、に、へ、と、より、から、にて、して、:
副助詞=し、しも、のみ、ばかり、まで、など、だに、すら、さへ、:
言っておくがこれらは切字として認識されているのではなく、切れを生む「てにをは」としてとらえられていたことに注意すべきである。「てにをは」とは現代文法にある助詞のことである。
●結論
(1)品詞の種類の拡大
助動詞では、推量・過去・完了・断定・打ち消しの助動詞から希望の助動詞へと拡大している。助詞では、終助詞・間投助詞・係助詞から接続助詞へと拡大している。
[補足]助詞・助動詞から副詞や代名詞への拡大は、句中に使われた係助詞の存在の影響があると思われる。それ程係助詞の登場の影響は大きいのである。
(2)同一品詞の種類の中の語の拡大
助動詞では、例えば、推量では「べし」・「らむ」・「む」・「けむ」→「めり」・「らし」・「まし」、完了では「つ」・「ぬ」→「たり」・「り」、打ち消しでは「ず」→「じ」・「まじ」と拡大している。助詞では、例えば、終助詞では「かな」・「かし」・「そ」・「な」→「もが」・「もがな」・「しが」・「しがな」・「かも」、間投助詞では「よ」→「を」、係助詞では「や」・「ぞ」・「か」・「こそ」→「やは」・「かは」・「なむ」と拡大している。
(3)結び(可逆的推移)
このように、切字は時代が下るとともに一般的に増加してゆく。それも無秩序に増加するのではなく、同一品詞の種類の中の語の拡張があり(2)、さらに品詞の種類が拡張してゆく(1)。
それからもっと重要なことは一方向的に増加してゆくのではなく増減を繰り返すことである。いったん切字リストに上がった切字が消えてゆくこともある。つまり字となっていない頭の中の観念的切字リストがあり、それぞれの宗匠がある基準から掲出したり、偶然掲出しまた偶然掲出し洩らす等によって具体的著作上の切字表ができあがっていると考えられる。つまり目に見える著作上の切字を操作することだけによって切字の全ての問題が解決するわけではないと考えられるのである。
切字の増加については、自著に新規さを持たせようとしたためと言う考え方もあるが、以上から考えるとそれ程単純な問題ではないように思う。こんなところから次回では観念的な切字のリスト、更には切字の本質を考えてみることにする。
【注】筆者は文法に見識を持つものではないし、学説もまちまちなところもあるようなので、今後精査があり得ることを前提に読んでいただきたい。
https://sengohaiku.blogspot.com/2020/02/130-008.html 【特集『切字と切れ』 【緊急発言】切れ論補足(7)動態的切字論5――現代俳句の文体――切字の彼方へ 筑紫磐井】より
●現代の切字論
平成17年頃、角川文化振興財団の呼びかけた「俳の会」に誘われて、片山由美子、谷地快一、宮脇真彦と四人で勉強会を開いたことがある。その会は都合3年間ぐらい続いたが、最初の1年で読者、季語、切字と切れなどの基本問題を検討し、その後その成果を部外協力者を加えてまとめることとし、最終的には『現代俳句教養講座』全3巻(平成21年)とし刊行された。その第2巻「俳句の詩学・美学」の中で切字問題が取り上げられている。会では、切字問題の執筆者として、仁平勝、川本皓嗣、藤原マリ子の三人を選んで依頼した。切字論は共通の認識もあるが、考え方にかなり見解を異にする部分もあり、一人で論じるのは難しく、複数の見解を並べて見る必要があると考えたからである。最新の切字論を一望できるコンパクトな書物としてはこれに如くものはないと思っている。
①仁平勝(標題「五七五という装置」)
②川本皓嗣(標題「切字の詩学」)
③藤原マリ子(標題「俳諧における切字の機能と構造」)
仁平は、切字は発句が脇句から切れるための語でありその中に「かな」「けり」のような句末の切字と、「や」のような句中の切字があるとする(仁平は「や」に呼応して句末の名詞で切れるから発句が脇句から切れるとしたが、その機能は示さなかった)。川本は句中の切れは係助詞であり遠隔操作的にその勢いの及ぶ句末で切れるのだと述べた。藤原は、必ずしも句中の切れによって句末で切れるものばかりではないことを指摘し、口伝となっている「7つのや」を元に「や」の使用例を歴史的に分析して芭蕉によって新たに配合の「や」が生まれたとしている(高山れおなは談林こそが「配合のや」を発見したのではないかと疑義を呈している。私も同感である)。川本も、最新著『俳諧の詩学』では藤原と同様の考察を加えている。
●「や」の分析
ここで藤原の論点を例句で眺めてみる。興味深いのは、明治になって誰も見向きもしなくなったやの口伝を踏まえていることである。まず標準的な口伝となっている「7種のや」※を挙げてみよう。藤原が対象にした『宇陀法師』の区分と例句を見てみる(順番は藤原論文に従った)。
①切(きる)や(係助詞。ただし*句は間投助詞)
・物ごとに道やあらたまるけふの春
*切顔や昼は鎖おろす門の垣(宇)
②中(なか)のや(並立助詞)・
・雪を持樫や椹に露みえて
③捨(すつる)や(座五末の「や」)
・かくしても身のあるべきと思ひきや
④疑(うたがひ)のや(疑問の係助詞)
・思へばや鵬鴫までとまるらん
・けふよりや書付けさむ笠の露(宇)
⑤はのや(副詞語尾。ただし*句は間投肋詞)
・今はゝや訪はじと月に鳥啼で
*更科や月はよけれど田舎にて(を)
*白魚や黒き目を明く法の網(宇)
⑥すみのや(初五の四字目の「や」)
・思ふやと逞ふ夜も人を疑ひて
⑦口合(くちあひ)のや(初五の三字目の「や」)
・月や花よる見る色のふかみ草
浅野信は、このうち②中(なか)のや④疑(うたがひ)のや⑥すみのや⑦口合(くちあひ)のやは切れないから切字ではないとする。
一方藤原は、②中(なか)のや③捨(すつる)や⑤はのや(*以外)⑥すみのや⑦口合(くちあひ)のやは切れないから切字ではないとする。従って明白な積極的な切字は、①切(きる)や④疑(うたがひ)のや⑤はのや(*句は間投肋詞)が切字であるとするが、①切(きる)やと⑤はのやの間投肋詞(*の句)は倒置構造を採っていない所からそれぞれ「配合のや」「主格のや」と呼び新しい切字であるとしている。そしてこのうちの「配合のや」が芭蕉の句の特色となり、彼の取合わせ論と重なるというのである。口伝の見事な活用ということが出来るだろう。
興味深いのは、川本の俳句構造説(基底部+干渉部)にしろ、藤原の切字説(「配合のや」)にしろ芭蕉に集約していくことである。我々はいつの時代になったら芭蕉と決別出来るのだろうか。
※その他のやに「腰のや」や「名所のや」「呼び出すや」が挙げられている。
●切れない工夫
以上、発句が脇句から切れるための工夫として切字を眺めてきたのだが、発句が脇句から切れればそれで目的を達するかといえば、実はそれだけでもないようである。連句では切字が必要であるというだけでなく、それ以上に発句というのは脇句を必要とするというもう一つの原理があったのだと言われている。川本の『俳諧の詩学』ではその事を巧みに述べている。川本は、学生に向ってこういう。
「発句というのは、そうして他人がさまざまに解釈して、自分なりの付句をする楽しみを残すために、わざと「脇をあまく」してあるんだよ。」
今や連句の伝統が残っていない現代俳句には切字が必要はないのだが、さらに付句をするためにわざと「脇をあまく」する作り方もなくなってしまっている。切字を論ずるには同時にこの脇の甘さも考えなければいけないのかも知れない。発句と俳句は切字の有ること以上に、脇の甘さが望まれるとしたら、新興俳句や馬酔木俳句、人間探求派俳句は、切字の有無以前にその詠み方によって「発句」たる資格を失っているのである。そして、我々はこうした「発句」を「俳句」として鑑賞してしまっているのではなかろうか。