相互に無碍涉入
重々帝網とは、我・仏・衆生の身心が三密において円融し無碍であること、いわば一切の存在者 が身・語・心(意)の三密によって相互に無碍涉入している存在様相を明らかにしていることばであった。 即身は、かかる存在様相においてこ の世界に立ち現れているのである。
https://www.chugainippoh.co.jp/article/ron-kikou/ron/20200513-001.html 【空海『即身成仏義』の核心について】より
前東洋大学長 竹村牧男氏
たけむら・まきお氏=1948年、東京都生まれ。東京大文学部卒、同大大学院印度哲学専修博士課程中退。専攻は仏教学、宗教哲学。博士(文学)。文化庁宗務課専門職員、三重大助教授、筑波大助教授、同教授を経て2002~18年、東洋大文学部教授。09~20年3月、東洋大学長。著書に『入門 哲学としての仏教』『ブッディスト・エコロジー』『鈴木大拙 日本人のこころの言葉』『華厳とは何か 新装版』『〈宗教〉の核心 西田幾多郎と鈴木大拙に学ぶ』など多数。
密教の特質は、優れた行法によってこの世のうちに成仏を果たすことができるということにあるとよく言われる。いわゆる「即身成仏」が実現するというのである。空海は『即身成仏義』を著し、その前半において、密教の教えにしたがって修行すれば、この身において、この世のうちに成仏できるということを『大日経』『金剛頂経』『菩提心論』に基づく八箇の教証によって示している。
しかし、「六大無礙にして常に瑜伽なり」から始まる「即身成仏頌」を説く後半になると、空海は「即身成仏」の語に対する独自の解釈が開示していく。その内容は従来、必ずしもよく理解されてこなかったのではないかと思われる。
まず、「即身成仏頌」の第一句、「六大無礙にして常に瑜伽なり」の句の真義がほとんど理解されていない。六大とはふつう、地大・水大・火大・風大・空大・識大という物質的・心理的諸元素のことである。しかし空海はこの六大について、『大日経』『金剛頂経』のある特定の句によってその意味を取るべきだと指示する。すなわち、六大は、本不生・離言説・自性清浄・不生不滅・空および覚智のことを表すものだというのである。要は、大日如来の本体、つまり法界体性(それは自己の本体でもある)の内容を、この六大で明かしているというのである。したがってこの六大は、けっして諸元素のことなのではない、理智不二の本覚真如としての法界体性に具わる種々の徳性を表現しているものなのである。
また、この句の解説の中で、この六大=法界体性(理)は能成であり、所成は一切の仏及び一切の衆生等の四種法身、及び三種世間(智正覚世間・衆生世間・器世間)等(事)を意味することが、繰り返し強調されていく。この所成は、いわば現象世界のすべてであるといってよい。なお、能成・所成とあっても、それは対立する能・所にかかわる能成・所成なのではないとも強調されている。したがって、本性としての六大=法界体性と現象としての各身との間は、いわば一体にある、もしくは不一不二の関係にあるということになろう。
こうした論脈をふまえて、「六大無礙常瑜伽」の句の最終的な意味が以下のように明かされている。
是の如くの六大の法界体性所成の身は、無障無礙にして、互相に渉入し相応せり。常住不変にして、同じく実際に住す。故に頌に、六大無礙常瑜伽、と曰う。無礙とは渉入自在の義なり。常とは不動、不壊等の義なり。瑜伽とは翻じて相応と云う。相応渉入は即ち是れ即の義なり。
この文によれば、「六大」が常に瑜伽なのではない、「六大法界体性所成の身」が常に瑜伽なのである。この「即身成仏頌」第一句についての、最終的なこの説示を見逃すべきではない。この説明の内容を十全に表現するなら、「六大は法界体性の(徳性)のことであり、これに基づく凡夫身から仏身までのあらゆる身が、無礙に渉入自在であって、常に変わらず相応(瑜伽)している」のだということである。無礙にして渉入・相応しているのは、法界体性ではなく、あらゆる身同士であることを、「六大無礙常瑜伽」に読まなければならないのである。
そうすると、実はここにおいてすでに、人間存在の曼荼羅的構造が提示されているということになる。ここに、「相応渉入は即ち是れ即の義なり」と即の語の意味が明かされているように、「即身成仏」の「即」の意味は、実はある一身があらゆる他者の身と相即渉入していることなのだと、空海は明かしたわけである。
次に、第二句、「四種曼荼、各々離れず」の解説においては、たとえば「即」について、次のようなことが説かれている。
是の如くの四種曼荼羅、四種智印は、其の数無量なり。一 一の量、虚空に同なり。彼れ此れを離れず、此れ彼れを離れず。猶し空と光との無礙にして逆えざるが如し。故に四種曼荼各不離と云う。不離は即ち是れ即の義なり。
ここでも即は不離の意と言っている。今、詳しくは述べないが、字身=言語の集合(法曼荼羅)、形像身=身形の集合(大曼荼羅)、印身=意思の集合(三昧耶曼荼羅)であり、かつそれらの作用(羯磨曼荼羅)の全体が四種曼荼羅であるので、四種曼荼羅はつまり三密のすべてと見なすべきだということになる。
そこにおいて「彼れは此れを離れず、此れは彼れを離れず」とは、いかなることであろうか。四種曼荼羅すなわち三密が渾然一体となって一つの身(各個)に具わっているとして、それらすべての三密があらゆる各身の間で相互に相即・相入して不離であることが、「四種曼荼各不離」の最大の意味だと受け止めることができる。このことは、実は次の第三句の説明にも、第四句の説明にも繰り返し出てくることにもなるのである。
実際、第三句、「三密加持すれば速疾に顕わる」の解説では、たとえば次のようなことが説かれている。
一 一の尊等に刹塵の三密を具して、互相に加入し、彼れ此れ摂持せり。衆生の三密も亦た復た是の如し。故に三密加持と名づく。
諸仏諸尊においては、彼らの無量の三密が「互相に加入し、彼此摂持」しているという。このことは、まさに第二句の「四種曼荼各不離」において、各身に帰属すべき三密が相互に不離相応している姿を活写するものであろう。さらに先取りして言えば、次の第四句、「重重帝網のごとくなるを即身と名づく」の解説にも、その冒頭に「是れ則ち譬喩を挙ぐ。以て諸尊の刹塵の三密の円融無礙なることを明かす」と説かれている。とすれば、この諸仏諸尊の無量・無数(刹塵)の三密が交響するダイナミックな世界こそが、空海における内証の世界の原風景なのであろう。如来の内証の世界としての曼荼羅を、けっして平面上の静止した姿のみでとらえるべきではない。
こうして、結局、第四句に「重重帝網のごとくなるを即身と名づく」と言わざるをえないことになる。その説明においては、自と他、衆生と仏等の間で、縦横重重にして、「彼の身は即ち是れ此の身なり、此の身は即ち是れ彼の身、仏身即ち是れ衆生の身、衆生の身即ち是れ仏身なり。不同にして同なり、不異にして異なり」とある。さらには「是の如くの三法は、平等平等にして一なり。一にして無量なり、無量にして一なり。而も終に雑乱せざるが故に重重帝網名即身と曰う」と示されるのである。ここの三法は、「心・仏・衆生」が分かりやすいであろう。
ともあれ、こうしてみると空海は、「即身成仏」の「即身」とは、自己(の存在と作用)があらゆる他者(の存在と作用)と相互に渉入するあり方にある身であることを意味している、と一貫して強調したことになる。こうして、『即身成仏義』が明かす「即身成仏」の意味は、あらゆる他者と重々無尽の関係を織り成す即身として、すでに成仏しており、かつ密教の教えにしたがえば、現世のうちにそのあり方をまどかに自覚・実現して速疾に成仏しうることと言うべきなのである。この「即身成仏」の理解は、「即身成仏」の語の表面的な了解にとどまらない、それに隠された意味を深く究明した、空海の実に独創的な解釈なのである。詳しくは拙著『空海の哲学』(講談社現代新書)を参照されたい。
なお、「六大無礙」とは、六大=法界体性により成る各身が、無障無礙にして互相に渉入し相応せることなのであった。この各身は、物質的・心理的諸元素である六大から成立しているとも言える。ここにおいて興味深いことに、各身が無礙である地平に立てば、やはり諸元素でもある六大が無礙にして常に相即相応していると見ることもできよう。ここにおいてもう一度、諸元素の無礙なる事態がよみがえることになる。とすれば、この「六大無礙常瑜伽」の句は、実に重層的で奥深い意味を持つ句であったというべきである。
http://mitsumonkai.na.coocan.jp/prefaces/preface201106.html 【六大無訝ろくだいむげにして常つねに瑜伽ゆがなり】より
織田隆深
四月十六日、 久しぶりに、 名古屋で講習会を開いた。 今回は弘法大師の真言密教開宗の書である 『秘密曼荼羅十住心論ひみつまんだらじゅうじゅうしんろん』 の序文をテキストにしたが、 受講者は難解な文章に皆呆然とされたかもしれない。 しかし、 この文章は、 真言密教の核心を説いたものなので、 無理して小生の拙い了解りょうげを述べた。
冒頭、 いきなりアビラウンケンとはと出てくる。 アビラウンケンとは人格的に表現すれば、 大日如来であるが、 その中身はといえば地大 (ア)、 水大 (ビ)、 火大 (ラ)、 風大 (ウン)、 空大 (ケン)、 識大 (ウン) の六大である。 この六大から、 一切のものが生じてくる。 この世は、 一神教のように、 唯一神があるとき創造したものではなく、 仏教では、 いつ始まったかわからない過去に、 六大から宇宙、 銀河、 太陽、 地球が生まれ、 上は仏菩薩、 下は地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道、 地に這うもの、 空を飛ぶ鳥、 水の中を泳ぐ魚等、 森羅万象が自然に生じたと考える。 地大・水大・火大・風大の四大は、 密教以外では宇宙を構成する非情 (生きものでない) とするが、 密教では、 みな大日如来の三昧耶身さんまやしん (象徴) とみる。 前五大に識大 (心大) が加わることにより、 生き生きした六大の働きが生ずる。 前五大は、 五感で分かる具体的な色形があり、 感覚できるものだが、 識大そのものは目に見えないし、 匂いもない、 聞こえない、 味もない、 触れても分からない。 しかし前五大に各々備わり、 あらゆるものを知り、 了別する働きを持っている。 五大を色 (物質) であらわし、 識大を心で表し、 「四大等心大を離れず、 心色異なりといえども、 その性すなわち同也。 色すなわち心、 心すなわち色、 無障無碍なり」。 すなわち、 心のない物質はないし、 形のない心もない。 地大の中に他の五大である水大・火大・風大・空大・識大 (心大) がある。 他の五大もしかり。 六大が個々にあるというより六大がお互いに躍動的に影響しあっている。 ただ六大という宇宙の構成要素ではなく、 「六大無碍にして常に瑜伽なり。」 と表現されている。 「無碍とは渉入自在の義なり。 常とは不動、 不壊等の義なり。 瑜伽とは翻じて相応という」 とあるように、 六大が生きて働いている宇宙の大生命が大日如来であると空海は表現した。 『十住心論』 の序文では、 さらに六大から真言が生れ、 四種曼荼羅が生じ、 曼荼羅の諸尊が生じる。 六大無碍の働き、 三密加持が、 わが身にも具わっている。 われも六大に摂まる、 六大もわれに摂まる。 この六大無碍にして常に瑜伽なる法に帰命すると、 空海は宣言された。
この文章に当たるのが、 織田隆弘先生が書かれた、 『真言念誦次第』 の中の正念誦中の観想の文である。
宇宙一切は六大、 我も六大なり
六大一実の体は大日如来なり
六大無碍の生命一杯なり
五智の覚体は無限の大悲なり
如来大悲の我に入り、 我大悲に 包まる
有難し 有難し
こちらのほうが、 わかりやすいと思う。
難しい話になったが、 六大に識大 (心大) があるということを具体的に述べると、 先ず人間である自分自身を六大に当てはめてみるとわかりやすい。 我らは、 地大に当たる骨格・筋肉、 水大に当たる血液・リンパ液、 火大に当たる体温、 風大に当たる心臓や呼吸等、 体全体の動き、 空大に当たる空間である肺、 消化器、 口腔や細胞の隙間、 そして識大に当たる心を見れば、 自分も六大で成り立っている。 人間以外はどうかといえば、 霊長類はもちろん、 犬や猫も鳥も魚も虫も、 みな六大で成り立っている。
動物にも心があるのだろうかと疑問に思うこともあるが、 私にはあるような気がする。 だいぶ前の新聞だが、 「暁の脱走」 というタイトルで、 リーダーと思われる馬を先頭に、 たくさんの馬が群れを成して国道を疾走している写真と記事を見たことがある。 今はどうか知らないが、 昭和三十年代の家畜の屠殺は、 貨車で馬や牛を、 屠場のある駅まで運び、 そこからトラックで屠場へつれていったらしい。 その時、 動物は勘が鋭いので自分が殺されるのを雰囲気で敏感に察し、 暴れる場合があるという。 そこでおとなしい 「引き馬」 を駅に待機させる。 引き馬が落ち着いた様子で出迎えるので、 屠殺を待つ馬たちは暴れずに静かに引き馬に導かれ屠場に運ばれるという。 しかし、 引き馬も自分の行動に自己嫌悪を感じ、 良心の呵責に耐えかねたのか、 ある日の早朝、 駅についた馬たちを引き連れて集団で脱走した。 それが件の 「暁の脱走」 である。 そのころ池部良と李香蘭主演の同名の映画が流行ったので、 おもしろおかしくタイトルをつけたのだろう。 当時の私が子供ながら、 馬にも心があるんだなあと思った記事だった。 もっとも馬と生活している人 (農耕用の馬、 競馬や軍馬に携わる人たち) は馬と心が通じるそうである。 中西悟堂のように、 口笛を吹くとたくさんの鳥が寄ってきて肩に止まったりして、 小鳥と会話できる人もいる。
では、 植物はどうか。 普通、 植物は動物と異なり、 心など無いというのが常識になっている。 しかし、 植物にセンサーをつけると、 まだ何の電波か解明できていないが、 結構電波を発しているらしい。 昼より夜が活発だという。 昨年ある新聞を見ていたら、 興味深い話が載っていたので一部引用する。
一九六〇年代の米国で嘘発見器を使って植物の感情を測った科学者クリーヴ・バクスターがいる。 二〇一〇年八十六歳になった彼は、 テレビで自分の過去について語った。 元々彼はCIAに勤め調査の仕事をしていた。 嘘発見器とは、 被験者の両手に電極を貼って、 皮膚の電気抵抗の変化を測定して、 それによって描かれたグラフから被験者の情緒変化を解析する器械である。 彼は、 仕事を通じて嘘発見器の面白さを知り、 独自の研究をするため仕事をやめ、 人間の思考能力にかかわる分野の研究を進めることにした。 一九六二年二月二日、 バクスター氏は、 ニューヨークにある実験室で、 リュウゼツランの根元に水を注いだとき、 その水が茎を通って葉の先に到達する時間を計ってみようと思った。 この時、 リュウゼツランの葉に電極を繋いでから根元に水を注入したら、 嘘発見器に現れた曲線は、 人間が感情的な興奮を感じたときのものと酷似していることが分かった。 この発見をきっかけに、 氏はさまざまな状況の下の植物の感情変化を測ってみた。 植物が恐怖状態で表す変化を測定するため、 葉を焼いてみたらどう反応するだろうかと考えた。 するとこの一念が浮かんだ途端、 嘘発見器の針は一挙に最上端まで振れた。 そのとき、 彼の手元にはマッチがなかったので、 マッチを取りに秘書の机に向かっていく途中で、 リュウゼツランと五メートル離れたところに立っていた。 すると、 曲線は激しく起伏し、 まるで葉が本当に焼かれているような反応を示した。 氏は 「神様、 リュウゼツランは私の考えを知っているのです」 と心の中で叫んだ。 氏はリュウゼツランの次の反応を知りたくて、 マッチを元の位置に戻した。 その後、 曲線は徐々に緩和していき、 実験の前の状態に戻った。 その後、 たまねぎ、 みかん、 バナナ等、 他の二十五種以上の植物にも実験したが、 類似した結果が得られた。
氏は 「生物のこのような本能は、 いかなる後天に形成された能力より、 はるか前から備わっていると信じるので、 自分の著書を 『原始の感応』 と名づけました。 一部の人は、 人間もかってこのような本能を持っていたと考えています。 しかし今、 私たちは、 植物が示した反応現象を通して、 私たちはこれを再認識しなければなりません。 この能力を否定する人もいれば、 一生を費やして研究する人もいます。 実は、 植物は一種のテレパシー能力を持っており、 人類と交流することができるのです」 と語った。
(『大紀元時報』 二〇一〇年十一月二十五日号)
この実験で面白いのは、 実際にリュウゼツランを焼くというより、 焼いてみたらどうかと実験者が心に思っただけで、 嘘発見器のセンサーに反応が現れたということである。 まさに人間の心が通じているとしか考えられない。 生き物の世界は、 まだまだ我々には、 わからないことがたくさんある。 むやみに殺生してはいけない。 まさに、 「一寸の虫にも五分の魂」 である。
では、 一見非情 (生き物でない) といわれる物質である岩や土、 水、 空気等には、 本当に識大が無いだろうか。 これから科学が進歩するに従って、 仏教で言うあらゆるものに心があるということが証明されていくに違いない。 密教ではそれらにも識大があると言う。 花や風景を見て美しいと思うのは、 人間からの一方的な見方で、 われわれが花や風景を見て美しいと感じるのは、 そう感じさせるものが花や風景にあるのではなかろうか。 美しいと感じさせるものが、 われわれの心に反応して映ったのかもしれない。 花や風景も同時にわれらを見ているのではないか。 もともと森羅万象は六大無碍であるから、 本能的に感応しお互い通じるものがあるはずである。 理知では分からないが、 本能の世界 (純粋感情の世界) ではあらゆるものと心が通じているのである。
そういう意味でも、 弘法大師は六大つまりオンアビラウンケンに稽首礼拝したのである。 礼拝する自分も六大に摂おさまる。 六大も我に摂まると。