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似非科学に支配された「閉ざされた社会」日本 <追記>

2024.12.15 21:30

 ABEMAでアニメ『チ。 ―地球の運動について』第12話を見て、驚いた。無学の代闘人オクジーが、地動説を唱えて研究成果を独占しようとする修道士バデーニに向かって言ったセリフが、20世紀最大の科学哲学者と呼ばれるカール・R・ポパーの考え方を想起させたからだ。


オクジー: 「自らが間違っている可能性を肯定する姿勢こそが学術や研究にとって大切なんじゃないかということで。第三者による反論が許されないなら、それは信仰だ。信仰の尊さは、理論や理屈を超えたところにあると思いますが、それは、研究と棲み分けられることでは?反論してもらうためには、他人が重要なので、あまり排除するのは…」

 (中略)

バデーニ: 「その姿勢を研究に採用してしまうと、我々は、目指すべき絶対真理を放棄することになる。そして、学者は、永久に未完成の海を漂い続ける。その悲劇を我々に受け入れろと?」

オクジー: 「そうです。それでも間違いを永遠の正解だと信じ込むよりもマシでは?」


 ポパーは、科学と非科学(似非(えせ)科学)とを分ける基準として、「科学の条件は、反証可能であること」というfalsifiability反証可能性を提唱した。

 実験や観察の結果によって誤りであると否定される可能性がない説は、どれほど科学的に見えたとしても、反証可能性を持たない以上、「科学の条件」を満たしていないので、非科学似非科学)ということになる。

 反証できる可能性のある実験や観察が存在する場合に、反証可能性があるとみなされるわけだ。


 平たく言えば、あとで証拠によってひっくり返される可能性があれば、その説は科学だが、あとで証拠によってひっくり返される可能性がなければ、科学ではないのだ。


 例えば、100年ほど前、アインシュタインは、相対性理論を提唱し、光でさえも重力に引っ張られて、その光路が曲げられるという重力レンズという仮説を主張した。その後、重力レンズは、皆既月食の観察によって確認された。観察結果によって否定されていれば、重力レンズ説は、誤りとされたので、重力レンズ説は、反証可能性があり、科学と言えるわけだ。

 これに対して、マルクス/エンゲルス『共産党宣言』(岩波文庫)の「今日まであらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である」(33頁)は、反証可能性がないので、科学ではない。似非科学であり、宗教・信仰なのだ。

 同様に、フロイトやユングの心理学も、反証可能性がないので、科学ではない(だから心理学科は、医学部ではなく、文学部に設置されている。)。


 そして、自由に議論・研究することができなければ、仮説を観察や実験で確かめることができないから、科学の前提条件として、開かれた社会でなければならない。

 そのため、ポパーは、開かれた社会の敵であるプラトン、ヘーゲル、マルクス、フランクフルト学派を徹底的に批判した。自由を否定する全体主義者だからだ。


 ポパーの著作は、たくさんあるが、法学を学んでいた私は、科学哲学よりも社会哲学に興味があったため、主にポパーの社会哲学に関する本しか読んでいない。学生時代に読んだのは、『開かれた社会とその敵』と『歴史主義の貧困』だった。

 『開かれた社会とその敵 第一部プラトンの呪文』(未来社)

 『開かれた社会とその敵 第二部予言の大潮 ヘーゲル、マルクスとその余波』(未来社)

 『歴史主義の貧困 社会科学の方法と実践』(中央公論社)

 『よりよき世界を求めて』(未来社)

 『果てしなき探究 知的自伝 上下』(岩波書店)


 調べてみたら、アニメ『チ。 ―地球の運動について』の原作漫画を描いた魚豊(うおと。鱧ハモが好きだから、ペンネームにしたそうだ。)氏は、哲学専攻だったそうだから(2年時退学)、科学哲学に関するポパーの『科学的発見の論理 上下』(恒星社厚生閣)や『推測と反駁 科学的知識の発展』(法政大学出版局)を読んでいてもおかしくはない。


 天道説も地動説も、反証可能性があるから、科学だが、前述したように、共産主義や社会主義は、反証可能性がないから、似非科学・宗教だ。

 マルクスやエンゲルスは、自らの社会主義を「科学的社会主義」と呼んで、オーウェン、サン・シモンなどの社会主義を「空想的社会主義」だと蔑(さげす)んでいるが、いずれも似非科学・宗教なのだ。

 ところが、我が国では、この似非科学・宗教にすぎない共産主義・社会主義が今なお強大な力を持ち、社会を支配し続け、自由な言論を抑圧している。

 天道説が支配し、異端審問が行われていた中世ヨーロッパよりも酷い状況にあることに、多くの人は気付いていない。洗脳されているからだ。


<追記>

 学生時代に、『歴史主義の貧困』(中央公論社)の共訳者がコチコチのマルクス主義者である久野収ってなんの冗談だ?と思ったものだが、今は別の出版社から新訳が出ているようだ。未読だが、新訳の方が良いと思う。