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月残る高圧線や冬の空 五島高資

2024.12.17 08:26

facebook沼沢 忠吉さん投稿記事

月影の いたらぬ里は なけれども ながむる人の こゝろにぞすむ  法然上人

月の光が届かない里はないけれど、それを眺める人の心がなければその美しさを感じる事は出来ません。闇夜を照らす月の光は、一切の差別なく、分け隔てなく平等に照らしています。

でもどんなに月の光が照らしていても、月を眺めようとしない人に、月の素晴らしさは決して分かりません。

さて昨日は、届いた車椅子の試乗を兼ねてお咲希さんと本願寺へ♿️

ところが、車椅子の知識もなく購入して大失敗😓

京都のガタガタの道路で使うにはへなちょこすぎて、ちょっとの段差も乗り越えられず、自走しようにも自分で漕ぐのもシンドイし、押してもらうにも押す人も大変💦

これからはなんとか頑張って杖歩行💧当分車椅子の出番は無さそうです😓

この車椅子どないしよ😭そして、親鸞さんに手を合わせていたら、親鸞さんのお師匠さんの和歌が浮かんできました✨さあ空を見上げましょう🌕南無阿弥陀仏😌🙏✨


facebookPrem Sheelさん投稿記事

光明とは何だろう?それは本当のあるがままの自分を見る度量のことだ。

私たちに自我などというものはない。自我というのはたんなる思い込みにすぎない。

私たちがそれをつくりだし、それを投影している。それは私たちの幻想であり、私たちの夢だ。それは実在せず、現実にはないものだ。気づきを深め、内側を見つめれば見つめるほど、

自分というものは消えてゆく。気づけば気づくほど、あなたはいなくなる。

そして覚醒がすみずみにまで行きわたる瞬間、あなたは消え失せる。

もはや水はなく、水面に映る月影もなく、あなたの手はからっぽだ。

それはからっぽであり……ことはすべて片づいている。それが千代能に起こった。

彼女は長いあいだ修行してきた。彼女はありとあらゆる瞑想を行ない、ありとあらゆる

技法を修得してきたが、それでも悟ることができなかった。それを引き起こすことはできない。それはあなたを超えている。あなたに引き起こすことができるなら、それはあなた以下のものだ。

あなたに引き起こせるなら、それはまたもや自我の新しい飾りにすぎないものになる。

それを引き起こすことはできない。それが起こるよう仕向けることはできない。

それが起こるためには、あなたが消えなければならない。だから世界中の経典を学びつくすこともできる。あなたは豊かな学識をそなえた知識人にはなるだろうが、それでも光明を得ないままでいる。実のところ、知識を蓄えれば蓄えるほど自我が膨らんでゆくために、あなたは前よりもっと光明から離れてゆく。

苦行を積めば積むほど、あなたの自我は膨らんでゆく。

「私は これをやっているし、 あれもやっている。 私はずいぶん たくさんのことを やってきた―― 断食をくり返し、 数しれぬほど 礼拝をしてきた」やればやるほど自分に価値があると思い、光明に値すると思うようになる。光明を要求することはできない。

光明が訪れるためには、人は完全に消えなければならない。

神が訪れるためには、マインドがやまなければならない。

それを「神」と呼ぼうが、「光明」と呼ぼうが――それは同じものだ。

千代能は長いあいだ修行をしてきたが、光明を得ることができなかった。

光明は探し求めることによって見いだせるようなものではなく、探求がすべて無益であることが明らかになったときに訪れてくる。

そして、いいかね、私は「探し求めてはいけない」と言っているのではない。

探し求めないかぎり、探求が無益であることはけっしてわからないからだ。

私は「瞑想をしてはいけない」と言っているのではない。瞑想をしなければ、するのではなく

向こうから訪れてくる瞑想があるという理解にはけっして到らない。

瞑想は、たんにあなたの目を洗い清め、もっと見えるようにしてくれるだけだ。

あなたのハートは、もっと敏感に冴え、とぎ澄まされ、愛に満ち、感じやすくなる。

あなたの実存は今まで見たことがないものをとらえはじめる。

あなたはみずからの実存の内にある新しい空間を探求しはじめる。

新しいことが毎日、刻一刻と起こるようになる。あなたの瞑想は風呂のようなものだ――

風呂に入るとすっきりするが、そのさわやかさは悟りではない。それはたんに道を整えるだけだ。あなたが光明に到ることはけっしてない。それはつねに向こうからやって来る――

光明があなたのもとに到る。神があなたのもとにやって来れるよう、神のための道を整えなさい。神を見いだすことはできない。できるのは、神があなたを見つけだしてくれるように、

深く信頼して、待つことだけだ。  Osho - The Secret Of Secrets 


facebook斉藤 一治さん投稿記事

『歎異抄』に「無碍の一道なり」とあります。「碍(げ)」とは、訓読みにすると「碍(さわ)り」と読みます。「さわり」というのはさまたげるもの、邪魔するもののことで、幸せをさまたげ、邪魔するものです。

さわりがなくなったら、さぞ安心だろうと、私たちは毎日、これらの「さわり」をなくそうと

一生懸命です。

一つの問題を解決すれば、次の問題、それを解決すれば、また次の問題と、次から次とやってきます。そして最後にやってくるのは、人生最大のさわりである死です。

そこで仏教では、この死の大問題を解決すれば、不安の根本がなくなって、無碍の一道へ出られると教えられています。

無碍の一道の「無碍」とは、「碍りが無い」と書きますが、さわりがなくなるのではなく、

さわりがそのまま、さわりとならなくなるのです。

人生最大のさわりがきれいさっぱりなくなってしまいますから、他のさわりは何の問題にならなくなります。

何がきても、この幸せを壊すことはできない、絶対の幸福です。それは、死がきてさえも壊れない、大安心の世界です。無碍の一道の「一道」とは、たった一つの世界ということで絶対の世界です。

どんなさわりもさわりとならない絶対の幸福が無碍の一道の世界なのです。生死一如!