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インドラの網のような

2024.12.17 13:42

https://ihatov.cc/blog/archives/2020/11/post_976.htm 【インドラの網のような共感のネットワーク宇宙】より

華厳経の「インドラの網」と高次元分類ネットワークの関係(挿絵は早田博士作)

We all are connected.(みな、つながっている)

宮沢賢治『インドラの網』より。

インドラの網あみとは、無数の宝珠ほうじゅが結びあい、ひとつひとつがたがいに映しあうという、大乗仏教(華厳経)の宇宙観を表すメタファです。

「ふと私は私の前に三人の天の子供らを見ました。その燃え立った白金のそら、湖の向うの鶯いろの原のはてから熔けたようなもの、なまめかしいもの、古びた黄金、反射炉の中の朱、一きれの光るものが現われました。それは太陽でした。厳そかにそのあやしい円い熔けたような体をゆすり間もなく正しく空に昇った天の世界の太陽でした。光は針や束になってそそぎ、そこら一面かちかち鳴りました。

「ごらん、そら、インドラの網を。」

私は空を見ました。いまはすっかり青ぞらに変わったその天頂から、四方の青白い天末まで一面はられたインドラのスペクトル製の網、その繊維は蜘蛛のより細く、その組織は菌糸より緻密に、透明清澄で黄金でまた青く幾億互いに交錯し光ってふるえて燃えました。

「ごらん、そら、風の太鼓。」

本当に空の所々マイナスの太陽ともいうように暗く、藍や黄金や緑や灰色に光り空からおちこんだようになり誰も叩かないのに力いっぱい鳴っている、百千のその天の太鼓は鳴っていながらそれで少しも鳴っていなかったのです。

「ごらん、蒼孔雀を。」

誠に空のインドラの網のむこう、数しらず鳴りわたる天鼓のかなたに空一ぱいの不思議な大きな蒼い孔雀が宝石製の尾ばねをひろげかすかにクウクウ鳴きました。その孔雀はたしかに空にはおりました。けれども少しも見えなかったのです。たしかに鳴いておりました。けれども少しも聞えなかったのです。そして私は本当にもうその三人の天の子供らを見ませんでした。帰って私は草穂と風の中に白く倒れている私の形をぼんやり思い出しました。」

私たちは、インドラの網のようにつながった「共感の宇宙」に生きています。

夜の大空を見上げるだけで、実感できます。

We are the network.(われらがネットワーク)

出典・参照:宮沢賢治『インドラの網』、三中信宏『宮沢賢治と早田文蔵』、『英プラ』 トレイル3 (93) Look at the sky、以下のエンパレットなど


https://teishoin.net/blog/004971.html 【あなたが輝けば、世界が輝きます】より

仏教の世界観を表すことばに、「インドラの網」というのがあります。

インドラというのは、帝釈天(たいしゃくてん)のことです。帝釈天は「須弥山(しゅみせん)」という山の宮殿に住んでおり、屋根には蜘蛛(くも)の糸よりも細く透明で美しい網がかかっています。

その網目には様々な色に輝く宝石が結ばれていて、その無数の宝石は、それぞれがお互いに照らしあって輝いています。

ひとつひとつの宝石が、かけがえのない存在として、幾重(いくえ)にも関係しあっているのです。

この、ひとつひとつの宝石は、私たち一人ひとりの存在に置き換えられます。

しかし、宝石は、時には曇ってしまい、光が薄れてしまうことがあります。そんな時は、その宝石だけではなく、周りの光も鈍くなってしまいます。

逆に、一点の曇りもない綺麗なこころの宝石は、周囲に明るく光を放ち、宝石たちはお互いにキラキラと照らしあって、よりいっそう輝きを増していきます。そして、その光はまた反射して跳ね返り、再び自分を照らす光になります。

あなたも掛け替えの無い宝石です。

そうです。あなたが輝けば、世界も輝くのです。


http://leonocusto.blog66.fc2.com/blog-entry-3828.html 【見田宗介 『宮沢賢治― 存在の祭りの中へ』 】 より

著者の叙述はやや強引ではありますが、興味深いです。「ヘッケル博士」についての考察もあります。

見田宗介 宮沢賢治

カバーそで文:

「雪が往き 雲が展けてつちが呼吸し幹や芽のなかに燐光や樹液がながれ

存在という新鮮な奇蹟は、なにごとの不思議もない日々のできごとにやどる。その驚きを賢治はうたう。誰にも歌いえなかった、みずみずしい歓喜の形で。詩も童話も芝居も、教師時代の授業も、〈羅須地人協会〉での生活も思想も、その日々の軌跡だ。

ひとは、いくたびか生まれる。死後50年、詩のかなたの詩を生きた、人間・賢治を現代の思想としてよみがえらせる。」

◆本書より◆

「序章」より:

「二六歳のときになされた「オホーツク挽歌」の旅とならんで、もうひとつの象徴的な旅であるその前年の『小岩井農場』の歩行のおわりでは、賢治はこのように書いている。

きみたちとけふあふことができたので  わたくしはこの巨きな旅のなかの一つづりから

血みどろになつて遁(に)げなくてもいいのです「きみたち」とはユリアとペムペルである。

ユリア ペムペル わたくしの遠いともだちよ  わたくしはずゐぶんしばらくぶりで

きみたちの巨きなまつ白なすあしを見た どんなにわたくしはきみたちの昔の足あとを

白堊系の頁岩(けつがん)古い海岸にもとめただらう

このユリアとペムペルがはじめてあらわれるところから引用すれば、こうである。

(天の微光にさだめなく うかべる石をわがふめば おゝユリア しづくはいとど降りまさり

カシオペーアはめぐり行く) ユリアがわたくしの左を行く 大きな紺(こん)いろの瞳(ひとみ)をりんと張(は)つて ユリアがわたくしの左を行く ペムペルがわたくしの右にゐる

 賢治はこのあとに〈みんな透明なたましひだ〉と書いて消している。

 ユリアはジュラ紀からくるのだろうし、ペムペルは小野隆祥のいうように、ペルム紀(二畳紀)からくるのかもしれない。人類が他の動物からわかれる以前の生命たちである。天の微光にさだめなくうかんだ石をふみすすむときに、詩人はこれらの〈遠いともだち〉と出会うのである。このことはまた、この詩をふくむ詩集『春と修羅』への序の中の、ふしぎな地質学を思い起こさせる。

  おそらくこれから二千年もたつたころは それ相当のちがつた地質学が流用され

  相当した証拠もまた次次過去から現出し みんなは二千年ぐらゐ前には

  青ぞらいつぱいの無色な孔雀(くじゃく)が居たとおもひ

  新進の大学士たちは気圏(きけん)のいちばんの上層

  きらびやかな氷窒素のあたりから すてきな化石を発堀したり

  あるひは白堊紀砂岩の層面に 透明な人類の巨大な足跡を 発見するかもしれません

 このいわば天空の地質学(引用者注: 「天空の地質学」に傍点)では、わたしたちには風も水もないがらんとした空にしか思われないような〈気圏のいちばんの上層〉に、過去(引用者注: 「過去」に傍点)が発掘されるのである。

 銀河の河原の〈プリオシン海岸〉のあの長靴をはいた学者は、ボスという牛の祖先を発掘しながらつぎのようにいう。

  「証明するに要るんだ。ぼくらからみると、ここは厚い立派な地層で、百二十万年ぐらゐ前にできたといふ証拠もいろいろあがるけれども、ぼくらとちがったやつからみてもやっぱりこんな地層にみえるかどうか、あるひは風か水やがらんとした空かに見えやしないかといふことなのだ。」

 プリオシンとは第三紀の最も新しい層、鮮新世のことであり、人類が他の動物から分かれた時点である。」

「ミンコフスキー空間では時間も空間のひとつの次元なのであるから、過去(引用者注: 「過去」に傍点)に存在したものも未来(引用者注: 「未来」に傍点)に存在するはずのものも、この四次元世界の内部に存在している(引用者注: 「存在している」に傍点)ものである。たとえば「過去」というものは、上下、左右、前後とならぶもうひとつの(第四の)〈方角〉の名称であって、過去に存在したものが現在「ない」と感じられるのは、わたしたちの感じ方の習慣の問題にすぎない。詩集『春と修羅』の難解な『序詩』は、このような考え方につらぬかれている。(〈過去とかんずる方角から〉、〈明るい時間の集積のなかで〉等々)

 このような考え方は、賢治に親しいものであった仏教哲学の、有(う)部(説一切有部)の説く〈三世実有(さんぜじつう)〉の説と照応する。三世実有とは、過去も未来も現在とともにこの世界の内部に実在するというとらえ方である。」

「あのプリオシン海岸の長靴をはいた学者が〈証明〉しようとしていたことは、このように過去はありつづけるということ、時間のうちに生起する一切のものは、永在(引用者注: 「永在」に傍点)するのだということに他ならなかった。

 けれどももちろんこのような〈天空の地質学〉とは、過去が実在しつづけることの目にみえる比喩(引用者注: 「比喩」に傍点)にすぎない。三次空間の内部にひきもどされた心象のかたちにすぎない。時間がほんとうに第四の次元というかたちで存在するのならば、それはとうぜん、わたしたちがみている三次空間のどこか〈遠方〉などでなく、身近かな空間のすぐ〈裏側〉といったところに、ただ日常の〈感官の遥(はる)かな果(はて)〉にこそあるはずである。」

「わたしたちがこの〈第四の次元〉をゆくということは、たとえば成層圏その他に向う三次空間の内部の移動ではなく(引用者注: 「なく」に傍点)て、たとえば現在あるものが〈すきとおってゆく〉ことをとおして、いれかわりに過去や未来の透明な存在たちがありありとここに(引用者注: 「ここに」に傍点)その姿を現わす、というかたちで、〈感官の(引用者注: 「感官の」に傍点)遥かな果(はて)〉へと移行することに他ならないだろう。

 詩人がユリア、ペムペルと出会うことができるのは、このような感官の地点に歩み入るときである。」

「〈標本〉が現在(nunc)の中に永遠をよびこむ様式であったように、〈模型〉とはこの場所(hic)の中に無限をつつみこむ様式である。銀河の模型であるようなレンズが体現しているものとは、〈手の中の宇宙〉に他ならなかった。

 〈銀河鉄道〉のおわりのところで、世界の存立の秘密を開示する〈黒い帽子をかぶった大人〉がこんなことをいう。

  「この本をごらん、いゝかい、これは地理と歴史の辞典だよ。この本のこの頁はね、紀元前二千二百年の地理と歴史が書いてある。よくごらん紀元前二千二百年のことでないよ、紀元前二千二百年のころにみんなが考へてゐた地理と歴史といふものが書いてある。だからこの頁一つが一冊の地歴の本にあたるんだ。いゝかい、そしてこの中に書いてあることは紀元前二千二百年ころにはたいてい本統だ。さがすと証拠もぞくぞく出てゐる。けれどもそれが少しどうかなと斯う考へだしてごらん、そら、それは次の頁だよ。紀元前一千年 だいぶ、地理も歴史も変ってるだらう。このときには斯(こ)うなのだ。変な顔をしてはいけない。ぼくたちはぼくたちのからだだって考だって天の川だって汽車だって歴史だってたゞさう感じてゐるのなんだから、

 〈天の川だって、汽車だって歴史だって〉という。天の川と汽車がこの童話の中で、わたしたちの外部(引用者注: 「外部」に傍点)にみられるもののひとつでありながら、しかし同時に、わたしたちがすでにその内部におかれているものである、ということを以前にみてきたけれども、〈歴史〉もまたこれらと同じに二つの顔をもつものである。

 そしてこの本は〈歴史の歴史〉の本である。ひとつの〈時〉の内側にすべての過去と未来とがひろがるとすれば、そのような過去や未来のそれぞれの〈時〉の中にも、またそれぞれの過去と未来がひろがるはずであり、そしてまた〈模型〉が象徴するように、ひとつの局所の中に世界の総体が包摂されうるものであるならば、そのような世界の中のひとつひとつの微細な局所にも、またそれぞれの世界が開かれてありうるはずである。それはわたしたちの生きる時間と空間が限られたものであるということに、絶望することには根拠がないということを、開示する世界像である。

   「ごらん、そら、インドラの網を。」

  私は空を見ました。いまはすっかり青ぞらに変ったその天頂から四方の青白い天末までいちめんはられたインドラのスペクトル製の網、その繊維(せんい)は蜘蛛(くも)のより細く、その組織は菌糸より緻密(ちみつ)に、透明清澄(せいちょう)で黄金で又青く幾億互に交錯し光って顫(ふる)えて燃えました。

   「ごらん、そら、風の太鼓(たいこ)。」も一人がぶっつかってあはてゝ遁(に)げながら斯(こ)う云ひました。ほんたうに空のところどころマイナスの太陽ともいふやうに暗く藍(あい)や黄金や緑や灰いろに光り空から陥(お)ちこんだやうになり誰も敲(たた)かないのにちからいっぱい鳴ってゐる、百千のその天の太鼓は鳴ってゐながらそれで少しも鳴ってゐなかったのです。私はそれをあんまり永く見て眼も眩(まぶし)くなりよろよろしました。

   「ごらん、蒼孔雀(あおくじゃく)を。」さっきの右はじの子供が私と行きすぎるときしづかに斯う云ひました。まことに空のインドラの網のむかふ、数しらず鳴りわたる天鼓のかなたに空一ぱいの不思議な大きな蒼い孔雀が宝石製の尾ばねをひろげかすかにクウクウ鳴きました。その孔雀はたしかに空には居りました。けれども少しも見えなかったのです。たしかに鳴いて居りました。けれども少しも聞えなかったのです。

  そして私は本統にもうその三人の天の子供らを見ませんでした。

  却(かえ)って私は草穂と風の中に白く倒れてゐる私のかたちをぼんやり思ひ出しました。

 『インドラの網』という短篇の結末である。インドラの網(因陀羅網)は、帝釈天(たいしゃくてん)(インドラ)の宮殿をおおうといわれる網である。この網の無数の結び目のひとつひとつに宝の珠(たま)があり、これらの珠(たま)のひとつひとつが他のすべての珠を表面に映(うつ)し、そこに映っている珠のひとつひとつがまたそれぞれに、他のすべての珠とそれらの表面に映っているすべての珠とを明らかに映す。このようにしてすべての珠は、重々無尽(むじん)に相映している。

 それは空間(引用者注: 「空間」に傍点)のかたちとしては、それぞれの〈場所〉がすべての世界を相互に包摂(ほうせつ)し映発し合う様式の模型でもあり、それは時間(引用者注: 「時間」に傍点)のかたちとしては、それぞれの〈時〉がすべての過去と未来とを、つまり永遠をその内に包む様式の模型でもあり、そして主体(引用者注: 「主体」に傍点)のかたちとしては、それぞれの〈私〉がすべての他者たちを、相互に包摂し映発し合う、そのような世界のあり方の模型でもある。

 それは詩人が、〈標本〉と〈模型〉という想像力のメディアをとおして構築しようとこころみていた世界のかたち――ありうる(引用者注: 「ありうる」に傍点)世界の構造の、それじたい色彩あざやかな模型のひとつに他ならなかった。」

「第3章」より:

  「⦅幻想が向ふから迫つてくるときは もうにんげんの壊(こわ)れるときだ⦆

 『小岩井農場』のパート九のなかにこういう二行がみられる。もちろんこのときの幻想は、にんげんの自我という幻想にとって幻想としてあらわれるもののことである。

 それはさしあたり、詩人がこのときにその自我の解体(引用者注: 「自我の解体」に傍点)という危険な場所に立っていたことを示す。「幻想」はいつも賢治の自我にみずからはコントロールできない力で、〈向うから〉迫ってくるのだ。

 それではこの〈とき〉はどのようなときだったのか?」

「すなわち詩人が、まさしくこの旅で求めてきたもの、〈遠いともだち〉と出会う場所である。人間が他の生き物とわかれる以前の合流点(引用者注: 「合流点」に傍点)、〈万象同帰〉のその場所である。

 このことは詩人にとってこの〈危険な場所〉が、同時にひとつの〈出口〉でもあるのだということを示唆する。

 さきの『青森挽歌』の中には、 ⦅ヘッケル博士!  わたくしがそのありがたい証明の

  任にあたつてもよろしうございます⦆という奇妙な一節がある。

 この三行は、詩人が汽車の中で、妹の死のことをかんがえているときに突然のように挿入されている。

 小野隆祥の考証によれば賢治は中学五年のころに、丘浅次郎の『進化論講話』とともにヘッケルの『生命の不可思議』をおそらく読んで衝撃を受け、島地大等と生命の起源やゆくえの問題で問答している。

 ヘッケルは生物学者で、〈個体発生は系統発生をくりかえす〉ということ、たとえば一人の人間の生は、人類の全発生史を凝縮(ぎょうしゅく)してくりかえすということをとなえた人である。またその門下のドゥリーシュはその実験の中で、「海胆(ウニ)の卵を四細胞、八細胞、十六細胞各期にそれぞれ、四つ、八つ、一六など各個の海胆に成長させえた。逆に多くの卵から一個の海胆を成長させもした。」

 すなわち生物の「個体」というもの、わたしたちが〈自我〉とよぶものの本体として絶対化しているものは、じつはきわめて境界のあいまいなもの、かりそめの形態(ルーパ)にすぎないものだということを、自然科学の方法によって証明した学派である。『春と修羅・序』の詩の中に、〈新鮮な本体論〉をかんがえる主体として海胆(引用者注: 「海胆」に傍点)がとつぜん登場するのは、このためである。

 『青森挽歌』でヘッケル博士が登場するのは、妹の死のときのことを思いおこしているときであった。やはり文脈を正確に引用しておこう。

  わたくしがその耳もとで  遠いところから声をとつてきて そらや愛やりんごや風 

  すべての勢力のたのしい根源  万象同帰のそのいみじい生物の名を

  ちからいつぱいちからいつぱい叫んだとき あいつは二へんうなづくやうに息をした

  白い尖つたあごや頰がゆすれて ちいさいときよくおどけたときにしたやうな

  あんな偶然な顔つきにみえた けれどもたしかにうなづいた⦅ヘツケル博士! わたくし
  がそのありがたい証明の
 任にあたつてもよろしうございます⦆

 〈万象同帰のそのいみじい生物の名〉を、たとえば如来(にょらい)のごときものとして、わたしはこれまで読んでいたと思う。それでまちがいはないのかもしれないけれども、なぜそれが〈生物〉という奇妙なよび名でよばれているのか。」

「ヘッケルの『生命の不可思議』によれば、すべての生命は最初の生物〈モネラ〉から、さまざまな過程に従ってさまざまな生物の種類へと分化してきた。

 そして賢治の時間意識は、序章二節でみてきたように、空間の第四次元のごとくに往復可能な(引用者注: 「往復可能な」に傍点)時間のイメージであったから、この漸移(ぜんい)はまた〈可逆的に〉さかのぼることも可能なはずであった。それは、この個我を絶対視する〈わたくし〉にとってはあまりに恐ろしいことだけれども、同時にそれは、人と人、人間と他の生命たちとの間の障壁が、くずれることのないものではありえぬということの証拠でもあった。」

「個体発生が系統発生をくりかえすならば、わたしたちひとりひとりの生の起源にも〈モネラ〉は存在するはずである。

 この「生物」の名が二人のあいだで、個我とその他の生命たちとの同帰する根源にあるものを指す記号として、語り合われるたびにさまざまな意味を吸収してふくらみながら、〈対(つい)の語彙(ごい)〉――二人だけのあいだで通用することばとして定着していて、賢治は死んでゆく妹の耳に、必ずまた会おうねという暗号のように、ヘッケル博士のこのいみじい生物の名を、力いっぱい叫んだかもしれないと思う。

 『小岩井農場』の詩のなかで〈にんげんのこわれるとき〉ということばが発せられるのは、このように進化の漸移をさかのぼり、人間が他の生命たちとふたたび合流する地点であることをさきにみてきた。〈ちいさな自分を劃ることのできない〉以下の、『小岩井農場』の結語の部分は、このような発生学と時間論とを前提としてはじめて解読することができる。」

「〈にんげんのこわれるとき〉というこの世界像の芯(しん)を形成する体感とは、たとえば晩年の手帳の中に、〈わがうち秘めし/異形の数、//異空間/の断片〉とひそかに記されているような、日常合理の世界と自我との彼方に向ってほとんど無防備に開かれてあることの戦慄(せんりつ)のようなものに他ならなかったはずである。

 また切実な願望とは、〈このからだそらのみぢんにちらばれ〉(『春と修羅』)〈まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう〉(『農民芸術概論綱要』)といったことばを突然の不可抗力のように文脈から躍りあがらせてしまう、分身散体願望(引用者注: 「分身散体願望」に傍点)であり、個我をひとつの牢獄として切実に体感してしまう感受性であったはずである。

 『青森挽歌』のなかで詩人が、ここでも自我の危機にさらされているときに、賢治はこのように書いている。

  感ずることのあまり新鮮にすぎるとき

  それをがいねん化することは

  きちがひにならないための

  生物体の一つの自衛作用だけれども

  いつでもまもつてばかりゐてはいけない

 いつでもまもってばかりいてはいけない、と。

 〈がいねん化する〉ということは、自分のしっていることばで説明してしまうということである。たとえば体験することがあまり新鮮にすぎるとき、それは人間の自我の安定をおびやかすので、わたしたちはそれを急いで、自分のおしえられてきたことばで説明してしまうことで、精神の安定をとりもどそうとする。けれどもこのとき、体験はそのいちばんはじめの、身を切るような鮮度を幾分かは脱色して、陳腐(ちんぷ)なものに、「説明のつくもの」になり変わってしまう。

 にんげんの身をつつんでいることばのカプセルは、このように自我のとりでであると同時に、またわたしたちの牢獄でもある。人間は体験することのすべてを、その育てられた社会の説明様式で概念(がいねん)化してしまうことで、じぶんたちの生きる「世界」をつくりあげている。ほんとうの〈世界〉はこの「世界」の外に、真に未知なるものとして無限にひろがっているのに、「世界」に少しでも風穴があくと、わたしたちはそれを必死に〈がいねん化する〉ことによって、今ある「わたし」を自衛するのだ。

 このように、にんげんの身をつつんでいることばのカプセルとしての「わたし」と、その外にひろがる存在の地の部分とを、インディオの神話のことばを借りて〈トナール〉と〈ナワール〉とよぶことにしよう。

 「〈トナール〉は社会的人間(引用者注: 「社会的人間」に傍点)なのだ。」とインディオの知者ドン・ファン・マテオスはいう。「〈トナール〉は世界の組織者さ。その途方もないはたらきを言い表わす仕方はたぶん、世界の渾沌(カオス)に秩序を定めるという課題を、それが背負っているということだ。われわれが人間として(引用者注: 「人間として」に傍点)知っていることもやっていることも、みんな〈トナール〉のしわざなのだ。」「〈トナール〉は世界をつくる。〈トナール〉は話すという仕方で(引用者注: 「話すという仕方」に傍点)でだけ、世界をつくるんだ。それは判断し、評価し、証言することで世界をつくるんだ。いいかえれば、〈トナール〉は世界を理解するルールをつくりあげるんだ。」

 〈トナール〉はもともとわたしたちの守護者(ガーディアン)であるのだけれども、それはいつのまにか、わたしたちをじぶんの「世界」の内にとじこめる看守(ガード)になってしまう。

 〈ナワール〉とは、この〈トナール〉というカプセルをかこむ大海であり、存在の地の部分であり、他者や自然や宇宙と直接に「まじり合う」わたしたち自身の根源であるという。

 「まったくわれわれは、おかしな動物だよ。われわれは心奪われていて、狂気のさなかで自分はまったく正気だと信じているのさ。」このようにドン・ファン・マテオスがいうのは、わたしたちはトナールのつくりあげている〈ひとのせかいのゆめ〉だけを、正気の世界であると信じているからである。

  それらひとのせかいのゆめはうすれ

  あかつきの薔薇(ばら)いろをそらにかんじ

  あたらしくさはやかな感官をかんじ

 賢治はとし子の行ったところを、このような空間としてとらえている。

 〈わがうち秘めし異事の数、異空間の断片〉と書かれた手帳のあとのところで、賢治はこの当時の「唯物論」の限界を批判してこう書いている。

  唯物論要ハ人類ノ感官ニヨリテ立ツ。人類ノ感官ノミヨク実相ヲ得ルト云ヒ得ズ。

 つまり賢治は、人間の感覚器官でとらえられるものだけを信ずる考え方の「明晰さ」というものを批判して、人間の感官がそれじたい限界のあるものであることを指摘している。これはきわめて合理的な批判である。それはみずからの「明晰」を相対化する力(引用者注: 「明晰」「を相対化する力」に傍点)をもった、真の〈明晰〉の立場といえる。」