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国宝・妻沼聖天堂の魅力

2024.12.23 07:21

http://www.osenbeiyasanhonpo.jp/history/menuma-shouten1/  【国宝・妻沼聖天堂の魅力】シリーズ1

妻沼の聖天さまとは

 平安時代、武蔵国は公卿や大寺院の荘園として、平清盛が率いる平氏一族が治めていました。

妻沼聖天様のある地域は、当時長井庄と呼ばれ、旧妻沼全域の他に、旧深谷市の東部地域、旧熊谷市の北部地域を含めた広大な荘園でした。

 平安末期の治承3年(1179)、この長井庄を治めていた、長井庄司・斎藤別当実盛という武将が、守り本尊の「大聖歓喜天」を、妻沼郷大我井の杜の古社に奉祀し、聖天宮として開創したのが妻沼聖天様の始まりと伝えられています。

 以来、地域の総鎮守として信仰を集めて来ましたが、明治維新の神仏分離令以降、聖天宮は寺院として存続することになり、今日に至ったのが現在の妻沼・聖天様(歓喜院聖天堂)なのです。

国宝・聖天堂と概略

国宝・聖天山本堂 拝殿画像 大工棟梁・林正清作成の聖天堂絵図 拝殿画像

国宝・聖天山本殿 – 拝殿

大工棟梁・林正清作成の聖天堂絵図– 拝殿

 聖天様には、国宝の本殿・「聖天堂」をはじめとして、秘仏の本尊・「大聖歓喜天」が納められた「御正躰錫杖頭(みしょうたいしゃくじょうとう)」や、聖天山の総門である「貴惣門」などの国・重要文化財の他に、多くの県・市の指定文化財があります。

 中でも、権現造りの国宝・聖天堂(聖天山本殿)は、建物の周囲がすべて華麗な彫刻で覆い尽くされ、江戸中期を代表する装飾建築物といわれています。

 これだけ見事な建物とはいえ、江戸中期の享保期から安永期までの44年にも亘る長期の工期であったため、全容を一度に美しい状態で眼にした人は、歴史的に誰一人として居ませんでした。

 平成の保存・修復工事を経て、新しく甦った本殿は、これを眼にする多くの人々に、再建当時の職人の技術力と、250年以上の風雨に耐え続けた歴史的遺構の重さに、感動すら与えています。

 次回以降、歓喜院聖天堂の個々の見所・特徴等について、ご紹介いたします。(文・写真:阿部修治)


http://www.osenbeiyasanhonpo.jp/history/menuma-shouten2/ 【国宝・妻沼聖天堂の魅力国宝指定の聖天堂】より

権現造りの妻沼聖天山本殿(聖天堂)

 平安末期に創建された聖天宮は、その後、幾多の修復・再建を重ね、830年以上に及ぶ歴史を刻んで来ました。

 寛文10年(1670)の妻沼大火による類焼以来、65年の長きにわたり仮本堂の時代を余儀なくされた結果、地元民の再建に懸ける篤い思いは、江戸中期になって遂に見事な権現造りの聖天宮(堂)として結実したのです。

 全て庶民の手により成された妻沼聖天堂は、250年を経た現在、「装飾建築の到達点」とか、「江戸中期を代表する装飾建築」とまで評されるほどの建物だったのです。

 その結果、平成24年には埼玉県の建築物として、初めて国宝に指定されたのでした。

名人・名工の技が集結した聖天山本殿

典型的な装飾建築の聖天山奥殿

 妻沼聖天宮が再建されたのは、8代将軍・吉宗公の「享保の改革」があった時代でした。

 改革の一環として、幕府財政再建のため、将軍御霊屋の新造営禁止、幕府による寺社修復の制限等が打ち出された頃でした。

 一方で、幕府の許可のもと、民間が自らの勧化活動により、寺社の修復・新造営を行ってもよい、という「御免勧化」が許された時代でした。

 こうしたなか、聖天宮の再建に向けて動き出したのが歓喜院と妻沼12郷の郷民でした。

 地元の宮大工・林正清の「聖天の神告を受ける神夢」により再建を発意した(『聖天宮旧記』)、との逸話からも、その執念の強さが窺えます。

 林正清とは、3代将軍家光公の廟所・日光輪王寺・大猷院造営などを担った、江戸幕府作事方大棟梁・平内大隅守応勝の次男と伝わる名工です。

 正清は、豊富な人脈と確かな技術力をもとに、国家的大事業の減少で、己の技を活かしきれずにいた、当代一流の名人・名工の技を、妻沼聖天宮の再建事業で一つに集結させたのです。

 次回は拝殿向拝の目貫周りについてご説明しましょう。

 妻沼聖天宮が、その後の寺社建築や職人達に与えた影響については、追ってご説明します。(文・写真:阿部修治)

http://www.osenbeiyasanhonpo.jp/history/menuma-shouten3/ 【「国宝・妻沼聖天堂の魅力」シリーズ3】より

「琴棋書画」の彫刻

拝殿向拝を飾る「琴棋書画」と「目貫龍」

 聖天山参拝者にとって、最初に眼を惹くのは拝殿向拝目貫を飾る「琴棋書画」の太鼓羽目彫刻でしょう。

 これは、古来・中国の文化人が好んだ四芸である、「琴」・「囲碁」・「書」・「絵」、を題材にした、大きな「透かし彫り」の羽目彫刻で、厚い板を透かしが出来るまで刳り抜き、立体的に彫ったもので、幅約72cm、長さ約300cm、厚さ約18cmの大きな彫刻です。

 この「琴棋書画」図は、日本でも室町時代から、中国の風物を伝える画題として、狩野派の絵師が主に屏風絵や襖絵に用いてきたものです。

 「琴棋書画」の襖絵については、平成22年10月の新聞報道によると、明治28年から行方不明になっていた、京都・龍安寺の狩野派の襖絵が、アメリカで発見され、115年振りに戻り一般公開されたという話題が記憶に新しいところです。

拝殿向拝の「龍の出世伝説」

 寺社建築によく見られる霊獣の龍は、中国の伝説によると、「鯉」⇒「鯱」⇒「飛龍」へと次第に変身した後、最後に「龍」へと出世・変身するといわれています。

 これは、中国の黄河上流・「龍門」という急流を登りきった鯉が、龍に変身し天空を駆けるという、鯉の出世伝説となり、ここから「登竜門」の諺が生まれたといわれています。

 江戸時代の日本でも武家の間で起ったとされる、「鯉のぼり」の風習も同じです。

 聖天山では、参拝者が拝殿正面で手を合わせ、お祈りをしているその頭上に、まさに「鯉」が「龍」に変身していく過程が、「籠彫り」彫刻によって見事に表現されているという点では、他に類例のない珍しい装飾だと言えます。

①「鯉」の籠彫り彫刻

②鯉が「鯱(シャチ)」に変身

③鯱はさらに「飛龍」に変身

 なお、「籠彫り」彫刻とは、木の固まりを籠のように抉り抜いて彫ったもので、鯉・鯱・飛龍それぞれが波間から顔を覗かせ、最後は「目貫の龍」となって中央の梁間を飾っています。

 次回は拝殿周りについてご説明しましょう。(文・写真:阿部修治)


http://www.osenbeiyasanhonpo.jp/history/menuma-shouten4/ 【国宝・妻沼聖天堂の魅力】より

 代表的な装飾建築である聖天堂は、手前の拝殿から、中殿・奥殿へと次第に奥へ進むに従い、彫刻・彩色などが豪壮・華麗となり、徐々に観る人を高揚させるような造りになっています。

 従って、拝殿では向拝部分だけの彩色に留め、建物両サイドを飾る龍や獅子などは、あえて簡素な木地溜塗り仕上げにすることで、中殿、奥殿との格式の違いがはっきりと表されています。

 とはいえ、拝殿向拝部分にも見所が沢山あり、中でも目立たないのが「手挟み」といわれる屋根下にある大きな籠彫り彫刻です。

 一般的に拝殿向拝部分に「手挟み」彫刻を備えている神社は多いのですが、妻沼聖天堂の「手挟み」は特に大きいのが特徴です。

 聖天堂は、拝殿向拝部分の奥行きを広く取ってあり、雨の日でも参拝が楽になっています。

 向拝屋根の下に広いスペースができることで、大きな手挟みが造れることになったのです。

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長さ約2m、幅・厚み約42cmの大きな「手挟み」彫刻

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 拝殿正面の外拝は、参拝者が大勢乗るため、柱で支えるのが一般的で、豪華な神社建築で知られる日光東照宮や久能山東照宮などの国宝建造物でも、縁束と呼ばれる短い柱で支えています。

 しかし、この聖天堂は斗供と呼ばれる組み物で支えています。

 このような構造は大変重厚な感じを与え、見栄えは良いのですが、費用・工期などの面で採用されることは大変稀で、他ではめったに見られない、聖天堂の特徴の一つといえるでしょう。


http://www.osenbeiyasanhonpo.jp/history/menuma-shouten5/ 【「国宝・妻沼聖天堂の魅力」シリーズ5】より

彩色の保存・復元と豪華な中殿・花頭窓

 聖天堂の中殿は、結界を越えた僧侶のご祈祷の場であります。

 外観では、拝殿と奥殿を視覚的につなげ、彫刻・彩色が次第に増え始め、観る人を徐々に高揚させる、といった権現造りの特性がよく表現された点が、この聖天堂の中殿でしょう。

 軒下小壁には狩野派の絵師による絵画が描かれており、250年以上もの間、直射日光や風雨に曝され続けたため、絵画は色あせ、ほとんど解らなくなっていました。

 今回の保存・修復工事では、元の絵の保存と復元という、全く相反する難題を同時に解決する、わが国初の新しい修復方法が採用されました。

 つまり、この小壁の部分では、元の彩色の上に剥落止めを施した後、新たに別の板に同じ絵を描き、それを上から嵌め込むことで、250年前の彩色を保存し、同時に当時の姿を再現させたという訳です。

元の彩色が新しい彩色の下に隠された小壁 金箔貼りの豪華な花頭窓

元の彩色が新しい彩色の下に隠された小壁

金箔貼りの豪華な花頭窓

 さらに彫刻については、剥落止めを施した元の彫刻に、指の先ほどに引きちぎった和紙を全面に貼り付け、その上から江戸時代と同じ顔料で改めて彩色を施しました。

 ですから、新しく復原された小壁や彫刻には、250年の歴史を刻んだ彩色・顔料が、ひそかに眠っているのです。

 この保存・修復方法は、平成20年の「東アジア世界遺産会議」で文化庁から発表され、各国関係者の間に大きな反響を呼んだ、といわれるものです。

 奥殿に接する位置にある花頭窓は、肉彫彫刻の双龍が互いに尾を絡め、頭を下にして水を吐く迫力溢れる構図です。

 背板の地紋彫りが黒漆仕上げのため、双龍の金箔を浮き上がらせ、彫刻と漆塗り、金箔を活かすと共に、彫刻化された建築部材として代表的なものと言われています。

 惣棟梁・林家に残る絵図面では、普通の花頭窓枠だったものが、歓喜院蔵の絵図では華やかに彩色され、さらに最終施工段階で、現在の豪華な花頭窓に変化したことが解ります。

 次回は、最も豪華な奥殿周りについてお話を進めたいと思います。(文・写真:阿部修治)