1月の会~教育者のファンタジー③~
久しぶりに入間さんの本に戻ってきました。
今回読んだ段落は「勇気を灯す、ファンタジー」。
そう。やっと章のテーマである「ファンタジー」が出てきました。
少しずつゆっくりと進んでいます。
参加者は8名。
皆やはり「ファンタジー」という言葉が気になるようで、
「シュタイナーの言うファンタジーとは何か」
「ファンタジーの力が、大人あるいは子供にとって実生活でどうあらわれるか」
「今の子どもたちの遊び方、遊ぶおもちゃはファンタジーを育てるか」
などについて話す時間が自然と多く取られました。
そこから話は発展して、私たちの親世代、私たち子育て世代、子供世代の環境の違いや、それぞれの世代が向き合う課題なども話題にのぼりました。
その話し合いの中で出た、印象に残った言葉たちをここに並べていきます。
どれも素晴らしい気付きだと思います。
「自己のために行っていることが、結果的に地球のためになることがある。自分自身を生きようとする努力が、気付いたら環境に優しい暮らしになっていたという経験をしている。」
「“母親はこうでなければ”と固定観念に縛られるのではなく、“〇〇な時もあれば△△な時もあるよね”と自由に心身を泳がせる力がファンタジーでは?」
「ファンタジーとは“可能性を考える力”じゃないかな?子供にとっては一本の枝をどのように見立てるか?という可能性を考えることになるし、大人になると“相手はこう思うかもな?”などと想像する力になる。」
「ファンタジーの世界だけでは生きていけない。社会では自分の役割・義務があり、その中で思い通りにいかない状況が出てくる。しかし、その外的環境の中で自分の内なる想いに沿って生きて行こうとするとき、ファンタジーの力はその実践を後押ししてくれるのでは?」
「子供の時は身の回りの物でどう遊ぶかがファンタジーの対象で、大人になるにつれ対象が物から人や環境に変化していくということ。」
(これからの時代がもつ人類共通のテーマについて話している時…)
「これからは一人一人の生命を輝かす時代だと思う。」
続けて、7年周期説で説かれる「歩く力」「ことばの力」「考える力」へのメディテーションについて読んでいき、シュタイナーにとっての神や天使、キリストといった概念についても学んでいきました。
シュタイナーはキリストについて沢山論じていますし、クリスマスをとても大切にしているので、シュタイナー教育はキリスト教かと聞かれることがたまにあります。
私はいつもそうではないが、キリストはシュタイナーにとって重要な概念のようだと回答しています。
入間さんもこの本の中で、キリストや神が所謂宗教的な崇拝の対象としての存在ではないと書いています。
自分に内在する見えない力をイメージしやすいよう具現化したものが天使やキリストであり、それは、シュタイナーがキリスト教圏の人であるからそうなっただけで、私たち日本人にとってもっとしっくり来る対象があれば(毘沙門天とか韋駄天とか?)それでも構わないのだと思います。
いずれにしろ「歩く力」に瞑想しろと言われてもピンときませんが、天使をその力の象徴として思い描くことはできますよね。
その方が瞑想しやすい。
そこで「歩く力」は天使だと、そうゆうことなのだと思います。
もちろん、「歩く力」を大天使ラファエルではなく可愛い天使にしているのはシュタイナーなりの考えがあってのことでしょうが、その理由までは勉強不足ゆえ分かりませぬ。
キリストも一緒で、「内なる光」と言われても感じにくいけれど、「私の中のキリスト」と言われれば、それを神聖なものとして感じやすい。
私が自分のエゴイスティックな野心を消し去り、「私ではなく、私のなかのキリスト」ということばが真実のものとなりますように。
私が天使(歩く力)、大天使(ことばの力)、時代霊(考える力)と結びつき、真実の仕事を遂行することができますように。
今回も良き語り合いの時間でした。
下の写真は会の風景と、お部屋の大きな窓から見える景色。
日本人は昔からおてんとさんに祈っていたそうですが、お日様が持つ暖かさと、このような語り合いの時間を過ごした後の心に残る暖かさは一緒ですね。
どちらも熱のエレメント。
おてんとさんに祈るのは、太陽が私たち生命の源であると同時に、その熱のエレメントを自分の心に移す行為なのでは。
心、熱、愛。
そのような時間をたくさん過ごしていきたいものです。