自然と人間は、一体化している
facebook竹元 久了さん投稿記事
🌏アインシュタインの警告❗
時は戦前。来日したアインシュタインを感動させた神秘の国ニッポン
●アインシュタインの見た日本 ●「神秘のベールに包まれている国」 ●熱狂的な歓迎
●「6時間におよぶ講演に聴衆が酔った」 ●「外国の学者に対する尊敬の念」
-上記項目の内容は省略しています=
🔵「微笑みの背後に隠されている感情」
日本は明治以降、ヨーロッパに多くの留学生を送り、西洋近代科学を学び取ろうとしていた。アインシュタインは来日前から日本からの多くの留学生と出会い、ある印象を抱いていた。
***われわれは、静かに生活をし、熱心に学び、親しげに微笑んでいる多くの日本人を目にします。だれもが己を出さず、その微笑みの背後に隠されている感情を見抜くことはできません。そして、われわれとは違った心が、その背後にあることがわかります。***
(同上)
日本滞在中、講演と観光の合間を縫って、アインシュタインは多くの日本人と会った。長岡半太郎や北里柴三郎ら日本を代表する科学者、学生、ジャーナリスト、そして一般家庭の訪問まで。そして「微笑みの背後に隠されている感情」が何かに気がついた。
***もっとも気がついたことは、日本人は欧米人に対してとくに遠慮深いということです。我がドイツでは、教育というものはすべて、個人間の生存競争が至極とうぜんのことと思う方向にみごとに向けられています。とくに都会では、すさまじい個人主義、向こう見ずな競争、獲得しうる多くのぜいたくや喜びをつかみとるための熾烈な闘いがあるのです。***
(同上)
全世界の植民地化、そして1,900万人もの死者を出したと言われる第一次大戦は、この「熾烈な闘い」の結果であろう。
●「日本人の微笑みの深い意味が私には見えました」
それに対して、日本人はどうか?
***日本には、われわれの国よりも、人と人とがもっと容易に親しくなれるひとつの理由があります。それは、みずからの感情や憎悪をあらわにしないで、どんな状況下でも落ち着いて、ことをそのままに保とうとするといった日本特有の伝統があるのです。
ですから、性格上おたがいに合わないような人たちであっても、一つ屋根の下に住んでも、厄介な軋轢や争いにならないで同居していることができるのです。この点で、ヨーロッパ人がひじょうに不思議に思っていた日本人の微笑みの深い意味が私には見えました。
個人の表情を抑えてしまうこのやり方が、心の内にある個人みずからを抑えてしまうことになるのでしょうか? 私にはそうは思えません。この伝統が発達してきたのは、この国の人に特有のやさしさや、ヨーロッパ人よりもずっと優っていると思われる、同情心の強さゆえでありましょう。***
(同上)
「不思議な微笑み」の背後にあるもの、それは「和をもって貴し」とする世界であった。
●「自然と人間は、一体化している」
日本人の「個人の表情を抑えてしまうこのやり方」のために、アインシュタインは日本滞在中も、その心の奥底に入り込むことはできなかった。
***けれども、人間同士の直接の体験が欠けたことを、芸術の印象が補ってくれました。日本では、他のどの国よりも豊潤に、また多様に印象づけてくれるのです。私がここで「芸術」と言うのは、芸術的な意向、またはそれに準じ、人間の手で絶えず創作しているありとあらゆるものを意味します。
この点、私はとうてい、驚きを隠せません。日本では、自然と人間は、一体化しているように見えます。…
この国に由来するすべてのものは、愛らしく、朗らかであり、自然を通じてあたえられたものと密接に結びついています。
かわいらしいのは、小さな緑の島々や、丘陵の景色、樹木、入念に分けられた小さな一区画、そしてもっとも入念に耕された田畑、とくにそのそばに建っている小さな家屋、そして最後に日本人みずからの言葉、その動作、その衣服、そして人びとが使用しているあらゆる家具等々。
…どの小さな個々の物にも、そこには意味と役割とがあります。そのうえ、礼儀正しい人びとの絵のように美しい笑顔、お辞儀、座っている姿にはただただ驚くばかりです。しかし、真似することはきません。***
(同上)
「和をもって貴し」とする世界で、人びとは自然とも和して生きてきたのである。
●アインシュタインの警告
明治日本が目指した富国強兵は、西洋社会の闘争的世界に、日本が参戦することを意味していた。国家の自由と独立を維持するためには、それ以外の選択肢はなかった。しかし、闘争的な世界観は「和をもって貴し」とする日本古来の世界観とは相容れないものであった。
また富国強兵を実現するために、明治日本は西洋の科学技術を学んだ。しかし、近代科学の根底には、自然を征服の対象として、分析し、利用しようとする姿勢があった。それは自然と 一体化しようとする日本人の生き方とは異なるものであった。
西洋近代科学を尊敬し、アインシュタインを熱狂的に歓迎した日本国民の姿勢は、彼が賛嘆した日本人の伝統的な生き方とはまた別のものであった。両者の矛盾対立について、アインシュタインはこう警告している。
***たしかに日本人は、西洋の知的業績に感嘆し、成功と大きな理想主義を掲げて、科学に飛び込んでいます。けれどもそういう場合に、西洋と出会う以前に日本人が本来もっていて、つまり生活の芸術化、個人に必要な謙虚さと質素さ、日本人の純粋で静かな心、それらのすべてを純粋に保って忘れずにいて欲しいものです。***
(同上)
科学技術の進展から、人類は核兵器を持ち、地球環境を危機に陥れてきた。アインシュタインが賛嘆した人間どうしの和、自然との和を大切にする日本人の伝統的な生き方は、いまや全世界が必要としているものである。
🔵日本語で育てられると「自然の声」を聞くことができる!
日々私たちが使っている日本語には他の言語にはない不思議な点が多々ある。その中でも一音で複数の意味を持つ「一音多義語」であるという点
例えば「ま」でも「真・間・魔・馬…」と多くの意味を持つ。
何故日本語がこんなにも複雑な意味を持つようになったのか、そしてそれによって得られたものとは何だったのか。
● 第一章 言霊に秘められし霊性を呼び覚ます
日本語が形成する日本人特有の感性
日本語は言語の形態論上の分類において「膠着(こうちゃく)語」のカテゴリーに入る。これは、単語に接頭辞や接尾辞などを膠着(にかわではりつけたように)させて意味を生み出す形態の言語であり、その構造は日本語の成立過程に深くかかわっている。
上代語における最短の単語は一音であり、その一音一音の組み合わせから日本語は生まれてきた。
「そのように一音で意味を成す言葉を『一音語』、その意味を『一音義』といいます。一音語の代表は体の各部を表す単語であり、マ(目)、タ(手)、ハ(歯)などがあります。これが二音になると、ミミ(耳)、イキ(息)、アク(足)などとなります。つまり、日本語では一音にも意味があり、それが二音、三音となり、組み合わされて、次第に言葉が形成されていったのです」
七沢氏によると、上代語は一音語に始まり、二音、三音となり、その三音の組み合わせだけで2500以上の単語が形成されていたという。2500語といえば、人と人との意思疎通において必要十分な単語数であり、複雑な心情を表すこともできたはずだ。
一例として「憧(あこが)れる」という言葉を考えてみよう。
これは古代においては「アクガル」であり、身体語である「アク(足)」と動作語の「カル(駈る)」を膠着させて生まれた単語であった。つまり、足が地から離れて中空を漂っているような精神状態のことを古代の人々は「アクガル」と呼んだのだ。そのように、一音語、あるいは二音語、三音語が結びついていき、数多くの語彙(ごい)が生み出された。
「一音語にも多義があり、一音多義と呼ばれます。そして、その一音語が組み合わさってさまざまな言葉になっているのが、あらゆる現象を語彙にした日本語の特長です」
そのように森羅万象(しんらばんしょう)を語彙にするプロセスにおいて、日本語には擬音語(ぎおんご)や擬態語(ぎたいご)が他の言語と比べて数多く含まれることになった。いわゆる言語学の世界では、そのような擬音語・擬態語は幼稚なものとされるようだが、見方を変えれば、これは天地自然に感応(かんのう)しやすい日本人特有の感性を示すものといえよう。
このことは、元・東京医科歯科大学教授の角田(つのだ)忠信氏による、日本人の脳についての研究にも述べられている。
人が話すときには言語脳とされる左脳でその音を聞き、楽器の音などは音楽脳と呼ばれる右脳で聞いている―と一般にはいわれているが、角田氏によると、虫の声のような自然界の音の場合では、西洋人などが右脳においてノイズ的な「音」として聞く一方で、日本人は左脳で会話のような「声」として聞いているという。
そういわれると心当たりのある人もいるだろう。
鳥のさえずりや動物の鳴き声、風が木の枝を揺らす音や雨音など日常に溢れる自然音をわれわれはある種の「声」として捉え、その自然界からの語りかけに趣きを感じてきた。
ここここと雌鳥(めんどり)呼ぶや下すずみ
鶏(にわとり)の鳴き声をそのまま「ここだここだ」と呼びかける声とみなした、この小林一茶(いっさ)の句は、まさにそのような日本人の天地自然への感応性が最大限に生きたものとなっている。
角田氏によると、自然音を左脳で「声」として聞く日本人の特性は人種的なものではなく、あくまで日本語に由来するという。つまり、外国人であったとしても、日本語で育てられると「自然の声」を聞くことができるのだ。 表示を縮小