日盛りのバスはかなしい気持ちで支配されていった
日盛りの午後のバス停に、親子であろう女性2人がいらした。
母親とおぼしき女性に連れ立つ、20歳を越えているかどうかといった女性は
おそらく知的障害をお持ちのようだった。
どうしてそういえるのかというと、私の身内にも知的障害をもつ者がいるので
何とはなしにわかるものがある。
やがて停車場にバスがやってきて、乗車を済ませた私たちは最後尾の座席にともに腰かけた。
やや経って、女性が唐突に奇声をあげた。
声からして楽しい雰囲気というか、高揚感の感じられるケースの声色に聞こえた。
これもまた、身内の者と接しているうえでの考察である。
それなので私は、前の方の座席から容赦なく声のした主を突き止めようとする眼に遭遇したとき
胸がしめつけられるような感覚がし、おかしなことだが傷ついた心持ちがした。
女性はその後も何度か嬌声に近い声を張り上げた。
そのたびに数人が、もうすでに声が誰から発せられているかを知っているうえで糾弾するようなまなざしを向けていつまでも見つめていた。
きっと、その人たちは『ふつうでないこと』に対する驚きと不安を感じているのだろうと思った。
自分に危害を加えるのではないかという不安。
知的障害をもつ者と常に一緒にいる私の身内が、何年経ってもその視線に慣れることはないという。
自分は身内の存在があるために、『危害を加えられる不安』を持たない。
奇声は、そういう意図ではないからだ。
けれど、たまたま身内の存在故に私には多少の知識があったから、
あのようなまなざしで凝視したり、不安を覚えたりしないだけであり
果たして状況が違ったらどういう思いやふるまいをするのだろうと考えた。
とにかく自分の身内のことを思うと、こういうときに怒りすら感じてしまうのが正直なところだったりする。たとえ不躾ともいえるほどにじろじろと見つめてくる人に、なんの悪気がなかったとしても、保護者の心情を思うとき、実にそれはやるせない思いに満たされていくのだった。