1月18日 糸満市[平和祈念公園]→豊見城市(28km)
ここ2日ほど雨がちだったが、今日は気持ちの良い快晴。
久々に、ソーラー充電が期待できそうだ。
今日は、なかなかマスクの取れないYであるが、体調は万全ということで、前回駐車場まで行って引き返してしまった、糸満市にある「平和祈念公園」に行くことに。
昨晩車を停めていた道の駅「いとまん」から平和祈念公園へ向かう途中、先日訪問した「ひめゆりの塔」のそばを通り過ぎる。
糸満市を中心とする沖縄南部には、他にも「白梅の塔(白梅学徒隊/沖縄第二高等女学校)」や「健児の塔(沖縄師範学校男子部など/鉄血勤皇隊)」をはじめとする数多くの慰霊碑(塔)が存在する。
若者が命を散らした沖縄の各学徒隊だけでなく、日本各地からの沖縄戦の犠牲者の慰霊碑も多く、車を走らせていると、そうした慰霊碑を示す標識を、そこかしこで目にすることになる。
青空の下、眼前に広がるなだらかで緑豊かな丘陵地帯は、視界に入る全てが、まるで一つの広大な墓地であるような錯覚さえ覚えてしまう。
平和祈念公園は、沖縄本島の南端・喜屋武岬から、やや北東に位置する「摩文仁の丘」を中心としたエリアにある。
「摩文仁の丘」は、日本軍の主力である第32軍の司令部が最後に置かれた場所。
6月23日に牛島司令官が自決し、日本軍の組織的な抵抗は終結する。
しかし、この時から、「投降」という選択肢もあることを教えられずに残された人たち、とりわけ自決用の手榴弾以外に武器を持たない学徒たち非戦闘員は、陸・海・空から容赦なく攻撃をくわえてくる米軍から、只々逃げ惑わなければならないという、生き地獄となった。
アメリカ兵は、南端のこの地からガマの一つ一つに火炎放射器や弾薬を投げ込み、鼠一匹残さない掃討作戦を展開したのだ。
その「摩文仁の丘」も、今では静かな公園になっている。
駐車場には、大きなガジュマルの木が適度な木陰をつくるように立っている。
ガジュマルというのは不思議な木で、気根という細い血管のようなものが上から垂れ下がり地上に達し、それが次第に太く丈夫になって、終いには元の幹を締め付けて枯らしてしまうらしい。
太くなった気根が岩をも突き破るという生命力の塊のような樹木だが、この太いガジュマルの木は、砲弾が飛び交った1945年6月にはすでにここに生えており、戦禍に遭いながらも、こうして生き残ってきたのだろう。
駐車場に車を停め、最初に「沖縄県平和祈念資料館」へと向かう。
明治初期、琉球が日本に併合されて沖縄県となった以降の、沖縄の近現代史を扱った資料館だ。
日本は第一次大戦に、日英同盟を根拠に連合国側として参戦し、その戦果として南洋諸島を委任統治領とした。
その後の金融恐慌とサトウキビ価格の暴落で沖縄経済は破綻し、沖縄からも多くの移民が日本領となった南洋諸島に移り住んだ。
そして、第二次大戦で、南洋諸島の日本軍は次々と玉砕し、パラオやサイパンなどに移住した沖縄出身者も、その多くが犠牲となる。
南洋諸島を陥し制空権を奪った連合国軍は、その翌年、攻撃の矛先を沖縄へと向けることになる。
沖縄本島は、第二次大戦における最大の激戦地の一つとなった。
沖縄戦での死者・行方不明者は約20万人という。
そのうち、連合国側(米兵・英兵が中心)は約2万人、残りは日本側(日本人、及び動員された朝鮮・台湾人)だ。日本側の内訳は、県外出身者が6万6千人、残りは沖縄出身者で12万2千人。
そして、沖縄出身者のうち9万4千人が民間人である。
双方の兵力差は圧倒的だった。
日本軍は11万6千人、対する連合国軍は54万8千人。ざっと5倍の差がある。
しかも、日本軍のうちの約3万人は沖縄での現地招集だった。
そこには、学徒隊のような充分な訓練を受けない若者が含まれている。
日本軍は沖縄の硬い岩の地形や洞窟を生かし守備陣地とする持久戦を選んだ。
日本軍が単発的に行った夜襲などの積極策は失敗し、貴重な兵力を失うこととなったが、方針を持久戦に徹底してからは、連合国軍を相当程度苦しめた。
本土からの特攻隊による艦隊への攻撃も、若い命を犠牲にして、多くの戦果を挙げたという。
その一方で、本土からの当初予定した兵力補給は、連合国軍の攻撃によりその多くが失敗し、兵力の圧倒的な差は埋まらなかった。
連合国軍は、米軍で足りなければ英軍をという感じで、必要があればいくらでも兵力を補充できた。
そんな絶望的な状況下で、ひめゆり学徒隊をはじめとする女学生たちは、自分たちの専門外である看護教育を、軍医や、時には看護婦からたった3ヶ月程度の短期間で教わり、敵軍の沖縄上陸を間近にして「卒業式」を行い、看護要員として過酷な戦場に送られた。
日本軍の主力・第32軍は首里城が陥落すると南進し、摩文仁の丘に最後となる司令部を置き、最後の持久戦を戦った。
持久戦とは言っても、圧倒的な兵力差の連合国軍に対して勝利する可能性はゼロであることを知っており、来たる本土決戦のための文字通り「時間稼ぎ」として、命を捨てるという持久戦であった。
将来に夢を抱いて学んでいた多くの若者たちは、このような絶望的な状況のなか、戦場に送られ、その多くが帰らぬ人となった。
沖縄戦の生存者の証言を閲覧できるコーナーがある。
日本軍は敗色が濃くなり、身を守る洞窟が軍人と民間人の避難者で入り乱れる状況になると、沖縄の人たちを「やってしまう」ことがあったと証言に残されている。「殺す」という言葉を避けて、このような言い方を証言者はしている。
軍人は民間人を守らないどころか、自分たちが洞窟に入れるよう、戦闘に巻き込まれた民間人に手をかけたのだ‼︎
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平和祈念資料館の5階は、360度の展望台になっており、摩文仁の丘と、美しい沖縄の海を一望することができる。
ここでは、他にも、第二次大戦後の沖縄について、特に占領政策から本土復帰、その後の米軍基地問題に焦点をあてて展示している。
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資料館を出ると、目の前には海に向かって扇状に広がる「平和の礎」がある。
無数に整然と立ち並ぶ黒い石碑には、沖縄戦で犠牲になった、連合国軍を含む全ての人たちの氏名が刻まれている。
なお、沖縄県出身者については、日中戦争を含む15年間の戦争の犠牲者までを含めており、当然、朝鮮出身者(便宜上、朝鮮・韓国と出身地で分けてある)や台湾出身者の氏名もある。
海岸沿いに丘を登っていくと、各県がそれぞれ設置した慰霊塔がある。
その中央部あたりに「国立沖縄戦没者墓苑」があった。
献花をし、黙祷。
さらに高台に登っていくと、第32軍司令部戦没者の慰霊碑「勇魂の碑」が立ち、その隣には、牛島司令官と長参謀長の墓跡がある。
一番奥の頂上には、牛島中将と長勇参謀長を祀る「黎明の塔」がそびえている。
その前で、背広姿の集団が黙祷を捧げていた。
そこから階段を海側に少し降りると、「第32軍司令部終焉の地」とされる洞窟がある。
二重に厳重に柵がかかっており、内部をうかがうことはできない。
さらに、岸壁の下へと続く階段を降りていくと、「沖縄師範 健児の塔」が海に向かって立っている。
沖縄師範学校男子部により編成された「鉄血勤皇師範隊」の犠牲者の慰霊碑である。
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日本国内の各地で空襲があったり、原爆が落とされたりと、多くの犠牲者が出たという事は、誰もがよく知っている。
しかし、この辺り一帯で繰り広げられた悲劇を、沖縄が本土の捨て石となり、虫けらのように一般市民が殺戮されていったことを、本当に理解しているのだろうか。
沖縄は、なぜ、ここまでの犠牲を払わなければならなかったのか。
そのことを、私たち本土の人間は真剣に考え、語り継ごうとしてきたであろうか。
現在も、尚、沖縄に米軍基地を押し付け続けながら、涼しい顔で「日本の防衛の為にはやむ得ない」などと言い続けている。
全体のために犠牲になり続けることを、喜ぶ人間など一人もいない。
沖縄の人々は戦争の犠牲になったのではない。
「日本という国の犠牲になったのだ」ということを、心底思い知らされた一日であった。