梅林秀行さんと歩くシリーズ#2前編 細川忠興とガラシャが結婚式を挙げた勝龍寺城を歩く
『ブラタモリ』などテレビ番組でもおなじみ京都高低差崖会崖長・梅林秀行さんに、長岡京市の魅力を案内してもらう3回シリーズの第2回目。前編は、細川忠興と明智光秀の娘・ガラシャが結婚式を挙げ、さらに新婚時代を過ごしたという勝龍寺城へ潜入します。
【今回のダイジェスト版】
戦国武将!細川藤孝が築いた超トップ・モードなお城・勝龍寺城
梅林 今日はまちを歩く前にまず、勝龍寺城を歩きたいと思います。
この日のために長岡京市在住の歴史家・仁木宏さんのご著書をしっかり読んできました! すごく面白かったです。丁寧に歩くって前知識が非常に重要なんですよ。では早速、入ってみましょう。
― あれ、アプローチが曲がっていますね。
梅林 そう。これが当時、最先端だった桝形という形。織田信長がめちゃめちゃ好きで、この形が爆発的に発達していくんです。
― うーん、当時の人にとっては、この形、「おしゃれな感じ」だったんでしょうか。
梅林 そういうことだったんでしょうね。当時、最先端モードというか。
こういうのを軍事的な要素としてだけ捉えるのは、もったいないですよね。その時代、どこに一番お金をかけたか。ある時期は古墳、ある時は寺、この時は城。
―じゃあ、今はどこにお金を使うのがベストなんだろう?なんて考えると想像が広がって面白いですよね。
梅林 2階に展示室があります。行ってみましょうか。宝物が潜んでますよ~。
これ、見てください。長岡京市には城がめちゃくちゃあるんです。特徴的ですよね。(読者の方は拡大して写真をご覧ください)
―ほんと! ものすごく沢山ありますねー。
梅林 これが何を表わしているかというと、周辺に強力な大名が長岡京市に現れなかったということ。江戸時代でいう庄屋レベルの大きさの領主が沢山、小さな館を構えていた場所だったんですよね。
梅林 そのうちの一つ、勝龍寺城に細川藤孝が乗り込んでいって近世城郭の3点セット「石垣・瓦・礎石」を持つ建物に改造した。それまでの城は掘立柱ですからね。だからこの瓦は非常に貴重。日本の城で初めて瓦が使われたぐらいの時期のものなので。
― そんな貴重なものだったとは!
梅林 まず勝龍寺があって、戦国時代の半ばぐらいに寺の隣に小さな城(勝龍寺城)が作られた。そこへ織田信長の命で細川藤孝が入っていって改修したわけです。
しかも改修した時、近くの神足城と神足村も取り込んじゃうんです。村といっても職人なんかも住んでいる町のような雰囲気の地だったと思います。神足町もあるのですが、それは西国街道沿いにあって城に取り込んでいないんです。
― 神足には村と町の2つの顔があったんですね。
梅林 これも面白い。普通、城の近くに町、いわゆる城下町があって、村は郊外にありますよね。だから城下町という存在が、まだヨチヨチ歩きだった状態をよく表しているように思います。だからムチャクチャ面白いんですよ、勝龍寺城って。
梅林 お、これは磁器ですね。この辺りは全部、輸入品ですね。
― 当時の長岡京市は輸入品が入ってくるような土地だったんですね。
梅林 そうなんですよ。城も最先端だし、アートシーンも最先端だったんです。その城の城主が細川藤孝というわけです。歌を詠み、茶にも通じていて当時、日本で5本の指に入るトップアーティストですよね。
勝龍寺城は歴史上の面白さもあるけれど、文化面から見てもとっても意義深い城ですね。そして面白いのが偶然ではなくて、なるべくしてそうなったということ。
― 瀬戸内海から京都に入る時は、淀川から長岡京市を通りますからね。
梅林 そうなんです。交通の要所ですからね。だから細川藤孝は信長にここを治めろといわれたし、山崎合戦も起きたんです。資料展示を見るだけで、よく分かりますね。続いては庭へ行ってみましょう。
【ミニミニコラム】 この時はまだ磁器の器を作る技術がなく、陶器しかなかったんですって。日本で磁器の器が作られるようになるのは豊臣秀吉以降なんだそうです。
梅林 この敷地は、城にしては狭く感じると思いますが、当時はこの広さで十分だったということですね。
― いわゆる、ここが居住スペースですね。ここで細川忠興・ガラシャ夫妻が新婚時代をすごしたのかぁ。
梅林 居住プラス、茶室や庭を持つ文化スペースですね。当時は文化的に尊敬されないと支配されてくれないので(笑)。だから領主たちは文化面を一生懸命磨くわけです。そして一番、「この人みたいになりたい!」と思われていたのが、忠興の父・細川藤孝。今でいったら「神」ですね(笑)。
― 連歌や茶の湯に長けていたという、明智光秀も仕えた人ですもんね。
西の土塁が高いのは義理の父親が怖かったから?!
梅林 勝龍寺城でもう一つ面白いのが西側の土塁だけが高いということ。沼田丸から本丸にかけての防御が激しく高い。変な話、西側だけ高い城壁を作っても防御上はあまり関係ないわけです。しかも沼田氏は細川藤孝の義理の父親、つまりお舅(しゅうと)さんですしね。
― お舅さんの屋敷と本丸の間に高い塀を造っちゃったんですね~。お舅さんが怖かったのかなあ。(笑)
梅林 もしくは勝龍寺城を外からどうみてほしいか。どこから見て「すごいー!」って言ってほしいか。
― というと、位置的に街道から見て「すごい!」って言って欲しかったんでしょうか。見栄っ張りだったのかな~。
梅林 そうなりますよねぇ。登って確かめてみましょう。
― この西側の土塁、結構な高さですが、元からここに小山があったのでしょうか。
梅林 これは、堀の土を積み上げて一から作ったみたいですね。高さは4mぐらいでしょうか。うーん、上から見るとやはりメインストリートである西国街道から見上げる感じになるなんでしょうね。城から見る景色、外から城を見る景色を意識して作っている感じがしますね。
梅林 ところで、ちょっと時代が遡りますが、西山に三角形の断面が並んでいるの分かります?
― あ、はい! あります。
梅林 あれね、「三角末端面」っていって断層が横ズレして山の尾根がちぎれてむき出しになって、断面が見えているんです。地理の教科書にも、この辺の写真が出てくるんですよ。有名な断層地形がここから見えたんで、おっ!と思いました。
―細川藤孝・忠興やガラシャ、明智光秀も見た景色なんだなって思うと、ちょっと感動しました。
梅林 ここから北門へ行ってみましょう。
お城の石垣の中に使われているのは、墓地にあるアレ?
梅林 北門前の石垣の一部は当時のものですね。この石垣、ぜひ見ていただきたいです。
― あ!これ?
梅林 そうです。墓石が混じっているんです。これね、小説やマンガだと織田信長や細川藤孝は神仏を敬わないので墓石を使ったとなっていますが、そればかりではないんです。
― 違うんですか?!
梅林 この時代、まだ石垣の作り方が分かっていなかったんです。
― ほー
梅林 石材の供給体制ができていなかったんですね。石垣を積みたくなったら近所から使えそうなものを持ってきて積んでいたんですね。
― 墓石などを使うということは、この辺には手ごろな石がなかったと。
梅林 そうそう。だから墓石を使ったり、西山辺りから使えそうな石を持ってきているので石が揃っていないんです。
徳川家康の時代になると石垣を作るシステムができあがるんで、きれいに揃った石材選びになるんですよ。だからね、勝龍寺城が出来た頃というのは本当に時代の変わり目ですよ。素晴らしいなあ。
【ミニミニコラム】北門前にあるこの小屋には石の仏様がたくさん。これは勝龍寺城を発掘調査した時に出土した石仏たち。これには梅林さんも大興奮。
ちなみにお城の正面入り口「高麗門」周辺にある石垣は新たに造られたもの(写真)。こちらは同じ大きさのきれいに揃った石垣です。
大きさや形がバラバラの戦国時代の石垣がみられる北門とぜひ比較してみてくださいね!
― この辺りが藤孝のお舅さんであった沼田氏のお屋敷ですね(写真)。
梅林 これが沼田屋敷を囲んでいる水堀の跡かなあ。2mぐらいの深さがあったと思いますけれど、埋まっちゃったんですね。
梅林 あ、ここが沼田丸の南端部分ですね。
― 今の街並みの区画とぴったり合いますね!
梅林 まちを歩いて、こういう溝があると要注意で、大体、何かの堀の跡だったりするんです。窪地だと水が溜まってやぶ蚊が出たり、衛生状態が悪化するので古墳や城の堀の跡は必ず水を抜く設備を後世に作るんです。だから歩いていて微妙な高低差があって、こういう溝があると「あ、堀の跡だなって」分かるんですよ。一種の記号ですね。
文化財というのは城があった頃の話も大事ですが、城でなくなった後、どうやって住民に受け入れられていったのか。その痕跡を見ていくと、ぐっと理解が深まる気がするんですよ。それがまち歩きの醍醐味じゃないかなあ。
さあ、今から勝龍寺へ行きましょう!
「#2後編」へ続きます
Information
長岡京市勝竜寺13-1
075-952-1146
11月から3月は午前9時から午後5時、4月から10月は午前9時から午後6時
入園無料
JR長岡京駅から徒歩10分
撮影:岡タカシ