生活保障と自己責任論
先日、SEALDs主催のS4LON vol.4に参加してきました。
S4LONの中で、宮本太郎先生が「子ども1人当たり生活保障なしで育てるならば生活費・学費・諸費すべて含めると2億5千万円も必要と言われている」「すべて公立の学校に行かせたとしても2900万円の学費がかかるとも言われている」とおっしゃっていた。
ただでさえ、働きながら子育てをすることが難しいのに、保育所に子供を入れることも容易でない。統計的には、勉学においても仕事の場においても、男性よりも女性の方が良い成績を収めているらしい。しかし、女性は子育てがあるため将来的に辞めざるを得ない人が多いため、その前提で採用されたり、仕事をその分任されなかったりなどする。
一方で、よく比較されるのが社会福祉国家である北欧の事例である。パネルディスカッションのときに学生から「北欧の事例は僕から見たらユートピアのようだ」という意見が上がった。
それが世間の大多数の正直な意見だろう。どうせ日本は変わらない。スウェーデンはスウェーデン、日本は日本。まさにこの世論が増税含めて今の状況による政治家へのプレッシャーを軽くしている要因でもあるのだ。
本当なら、諦めずに北欧のような子供がかわいそうと思わないでも働ける社会システムが必要だし、構築していかなければならないというのに。
それらも今の日本では【自己責任】という都合のいい言葉で片付けられているのだ。
最近、その【自己責任】や【責任】についてずっと考えている。
なんて都合のいい言葉なんだ。物質的に存在しえないのにまるで人に受け渡しが可能なもののようで、世間では利用されまくっている。
例えば、
①無免許運転で交通事故が起こりました。
②無免許の運転手が重傷を負いました。
③無免許で運転を強要した同乗者が「自分が責任をとります」と言った。
責任の所在ははっきりして、すっきりしそうな気がする。実際はそんな気がするだけで、すっきりするわけない。なぜなら責任の所在がはっきりしても、事故が起きたことには変わりない。重傷を負った運転手が元気になるわけではない。
それはまるで、ちょっと言葉が上手く話せなかったり、人とうまく分かり合えないような子供を持つ親が、自分の育て方が悪かったんじゃないかとか苦しむ中で、病院で病名が告げられ病気だったと分かった時の安堵感と似ているような気がする。
ある意味で誰かにとっては責任逃れ、物質的に存在しえないモノへの逃げというか。でも、それをすることで心的には丸く収まったような気になったり、社会に受け入れられたりする。摩訶不思議だ。
じゃあ、物質的に存在しないのに【責任】って何から生まれてくるの?【責任】とりますって何?
ある人は、こう言う。
選択肢があったのなら責任は生じるのかもしれないが、選択肢が無かったのなら責任は生じないのかもしれない。
周りの圧力や、世論の流れ、宗教、経済状況、環境などなど...構造的な暴力でいくらでも潜在的選択肢は阻害されうる。あまりにも、いろいろなことを【自己責任】という都合のいい言葉に頼りすぎているのではないか。
国の統治者が何を取り決めても彼らの責任は実質問われない。統治者がメディアでめちゃめちゃに責め立てられたとしても、その人がわたしの責任ですって辞任すれば終わり。辞任したって自殺したって、その取決めの影響を被る国民には現状は何も変わらない。その状況下の中でどう生きるかは自己責任。それが今の日本だ!!
うふふ、まとまらないから編集中ということでとりあえず投稿。