評論
facebook斉藤 一治·さん投稿記事
対立があるから存在します。対立とは「対になっている」陽と陰 プラスとマイナス
表と裏 天と地 男と女
違うものが溶け合って新たなものが生まれます。
美しくカラフルに着飾り、甘い香りの女性に誘われて、男性が接近して、ふたりは合体します。新しい生命の誕生は、将来の希望の星となります。
facebook斉藤 一治さん投稿記事
偽善者の烙印がイヤなら、鬼となれ。自分に「 責め心のない厳しさ 」を貫き通せ。
鬼になったら佛になれ。「 なれあいではない優しさ 」に燃えて、部下とお客様を助ける佛になれ。鬼は佛だ、佛は鬼だ。( 山口健次 )
facebook髙橋 眞人さん投稿記事
こんばんは。【今日の名言】王 陽明(中国明代の儒学者)
君子は自身の考えを行動で示す。小人はただ口で言うだけに過ぎない。
知識と行動を二つに分けることはできない。まず知ることが大事で知って初めて行うことができるという考えは、間違いである。知と行はもともと一つのものだからだ。
知るは難く、行うは易し。
他人を論難しようと思った時は、一つの大きな私的感情だとみなして克服しなさい。その人がどういうものを好むかで、人を判断しなさい。
学問は自分の心の中に刻まれるのが第一義である。もし自分の心に照らし合せて、誤りだと思ったら、たとえ孔子の言葉であろうとも、それを正しいとしてはいけない。
聖人を信じて教えに素直に従うのもいいことだが、本来持っている善心に従うほうがよい。
仕事が上手くいかないことを心配するのは名誉欲や損得の欲にひきつけられて、本来持っている善心を発揮できないからである。大事なのは結果を求めるのではなく、欲に克ち本来持っている善心を発揮することだけだ。
敵に勝つのは易しいが、己に勝つのは難しい。
人は皆、聖人である。しかし、時間が経つにつれて私欲が生じ、物欲が生まれ、他人と自分とを一体のものだと考えられなくなる。だから本来最も重要な点は、ただ日に私欲を減らすことを求めるにある。増やすのを求めることにあるのではない。一分でも私欲が減らせたら、それはその一分だけ天理を回復できたということだ。なんと軽快で簡単なことではあるまいか。
もともと持っている聖人の心に戻るため、私欲に打ち克たなければならない。
「良知」は人間だれにでもあるのであって、たとえ君たちがどうしようと、なくすことはできない。盗賊とて盗みをしてはいけないとはわかっているから、賊徒といわれると彼も大いに恥じ入るのだ。
実行の中にのみ学問がある。行動しなければ、学問ではない。
ただ静かに心を養おうとしても、事が起これば、心は外の力で圧倒される。人は常に実際に起こる物事の上で、自己を磨くべきだ。そうすることで心が確立する。
反省は病を治す薬だが、大事なのは過ちを改めるということだ。もし悔いにとらわれているだけなら、その薬が元で別の病がおこる。
古今の聖賢のあらゆる議論の端々に至るまですべて、思いに邪なし、の一言で要約できる。これ以上、何を言うことがあろう。これこそ、一を知って百に通じる功夫なのだ。
人生最大の病患は傲慢の一事に尽きる。子でありながら傲慢であると不孝をしでかし、臣でありながら傲慢であると不忠をしでかし、父でありながら傲慢であると不慈をしでかし、友でありながら傲慢であると不信をしでかす。
人に良知が真に発現するようにしさえすれば、受験勉強をしても、心の煩いとはならない。たとえ、煩わされても、容易に気がつき克服できる。たとえば、書を読んでいるときに、無理やり暗記しようとするのは正しくないと良知が判断したなら、すぐさまそれを克服する。速成の効果をあげようとする正しくないことがおこれば、すぐさま克服する。博識を鼻にかけ華やかさを競うという正しくないことが起こったら、すぐさま克服する。こんなふうに一日中、聖人賢者と対照するのは、主体者が天理のままになることに他ならない。書を読むにせよ、それとて主体を調え保つことに他ならないから、なんの煩いもないのだよ。
ともかく理解するようにしなさい。どうして記憶する必要があろうか。理解しようとすることさえ、すでに第二義に堕ちてしまっている。ともかく自己の本体を発現しようとすることだ。もし、むやみに記憶しようとすれば、理解できないし、もしも、むやみに理解しようとすれば、自己の本体を発現することができないものだ。
※1月9日は王陽明の命日(1529年)です。
facebook相田 公弘さん投稿記事 【感謝の心】
昔、仲の悪い嫁と姑がいました。姑は、病気がちでいつも機嫌が悪く、事あるごとに嫁をいびります。「うちの嫁は、要領が悪くて、怠け者で……」と本人に聞こえるように言うだけでなく、近所や親戚にも言いふらします。
夫は、嫁の前では、「お母さんは言い過ぎじゃないか」とは言うものの、病気の母親の前に出ると口答えのできない人です。嫁は姑にいびられるたびに、いい嫁になろうと努力します。
しかし、いくら努力しても、陰湿ないじめをやめない姑に次第に憎しみを募らせていきます。
遂には、いっそ姑が消えていなくなればよいと思うほどになりました。そんな暗い思いをもつ自分に、嫁はまた苦しみました。
そこで、あるとき、信頼できる僧に自分の悩みを打ち明けます。するとその僧は、こう言いました。「そうか、ではお前の望みをかなえてやろう。簡単なことだ。この薬を姑の食事に少しずつ混ぜるのだ。すると、姑の体はだんだん弱まっていき、一月もすると消えてなくなるじゃろう」嫁は驚きました。「……つまり、一月で死ぬということですか?」僧は平然としていました。「人は皆、死に向かっておる。誰でも老衰する。ただそれを早めるだけのことじゃ」
「でも……」「ただし、この薬を使うにあたって一つ条件がある。この薬を入れた食事は多少味が悪くなる。姑に気持ちよく食べてもらうためには、食事を出すごとに、何でもいいから感謝の言葉を述べるのだ」「感謝の言葉、でございますか?」 嫁は食事に薬を混ぜるよりも、姑に感謝の言葉を口にする方がずっと難しいような気がしました。
家に帰ると、姑のいつもの突き刺すような目が待っていました。「どこで油を売っておったのか、お前はいつも帰りが遅い、グズで要領が悪い」などと姑から罵詈雑言を浴びせられました。「申し訳ありません」嫁は頭を畳につけて謝ると、台所に駆け込み、涙ながらに、食事の支度にとりかかりました。
そして、良心の呵責を覚えながらも、僧からもらった薬を少しだけ混ぜて姑の前に出しました。僧から言われたとおり、何か感謝の言葉を口にしなければなりません。「お母さん……」
「ふん、なんだい、また同じようなおかずか。お前は料理が一向に上達せんの」「はい、ありがとうございます」「何?なんだって……」「ありがとうございます」「どういうことだ」
「私は、本当に料理が下手です。ですから、お母さんが私の下手な料理でも食べてくださるだけで、ありがたく思うんです」姑はちょっと不思議そうな顔をしましたが、黙って料理に箸をつけました。そして、黙々と食べると箸を置く前に一言つぶやきました。「今日の料理、ちっとはうまかったぞ」嫁は驚きました。なぜなら、初めて姑に誉められたからです。
そんなことがあっても、これまで積もりに積もった姑に対する憎しみが消えるはずはありません。嫁は僧が言ったとおり、料理に少しずつ薬を混ぜ、姑に毎回必ず感謝の言葉を言うようにしました。お母さんに、味噌汁の作り方を教えてもらったこと。お母さんに、掃除の仕方を教えてもらったこと。お母さんに、裁縫のコツを教えてもらったこと。自分はまだ十分にできないが感謝していると繰り返し伝えました。
お母さんから言われてきた数々の叱責の言葉も、自分の励ましにしていきたいと感謝しました。嫁は、始めは心にもない言葉を並べているように思えました。しかし、毎日感謝の言葉を口にするたびに、自分の心が次第にほぐれていくのが不思議でした。
そうしているうちに、姑の嫁に対する態度が明らかに変わっていきました。
嫁を見るときの顔が柔和になってきました。それどころか、陰で、嫁のことを誉めることもありました。夫には「お前はいい嫁をもらった」と言い、近所や親戚には「うちの嫁は息子が選んだだけあって、できた女だ」と自慢するようにもなったのです。
それに応じて、嫁は姑に対する憎しみが薄らいでいきます。それどころか、病気がちで立つことも歩くこともできない姑の身になってみると、これまでの自分に細やかな愛情が足りなかったのだと気づかされました。
嫁の心に次第に激しい後悔の念が湧き上がります。私は、あの姑を体よく老衰したように見せかけ、毒殺しようとしている。なんという恐ろしいことだ。なんという罪なことだ。いたたまれなくなった嫁は、僧のところへ駆け込みます。そして、泣きながらに訴えます。
「お坊さま、私の間違いでした。私は、なんと罪深い女でしょう。どうかどうかお許しください。お坊さま、ともかくお母さんを死なせたくありません。どうかあの毒を消す薬をください。お願いいたします。お願いいたします」泣いて頼む嫁に、僧は言いました。
「案じるな。あれはただ海草を粉にしたものだ。毒ではない。毒を消す薬、と申したな。
覚えておきなさい。心の毒は、感謝することで消えるものじゃ。どうやらお前の心にあった毒は、もうすっかり消えてしまったようだな」
出典元:読むだけで「人生がうまくいく」48の物語 中井俊己著