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完結させ、次へ

2025.01.10 09:49

facebook岡部明美さん投稿記事【終わりをもたらし、閉じ、完結させ、次へ】

2025年は、数秘で見ると「9」ですね(2➕0➕2➕5=9)

9の重要な役割は、「終わりをもたらし、閉じ、完結させ、次へ」という意味があります。

世界の情勢を見ても文明のサイクルは、終わらせることで始まるという9の流れが起きています。

社会システムの綻びが至るところで起きていることは、理性と感性のバランスが取れている健全な人なら誰でも感じているでしょう。

人類の集合意識の目覚めがいまほど時代から要請されてるいるのは歴史上初めてなのではないかと思います。

9という数字のキーワードは完了、完成、終焉、幕引き、新旧交代、節目、手放す、転換、統合、融合、浄化、解放、慈悲慈愛、共感、目覚め、理想、心の平和、世界の平和、これまでのステージが終わり、新しいステージへ

個人の人生のサイクルにおいても時代の流れと同期している人ほどこれらのキーワードの何かが当てはまる人も多いでしょう。

次のステージへと「未来からの呼び鈴」が鳴っているという自覚がある人は、新しい人生の扉が開きますね。人生の新しい扉は、観音開きの手動ドア。だからこれまで握り締めていたいたものー「執われ・囚われ・捕われ・捉われ」という様々な執着、しがみつき、ベキネバから解放されるほどに軽やかに自由自在に生きていけるようになります。

🌷閑話休題

さてここまで書いてきた私は実は今伊豆のやすらぎの里で4泊5日の半断食中です。

お餅が大好きな私は、毎年のことですが、お正月はきっちり2キロ太るので、お正月明けには断食しようと前から決めていました。

今年は体調管理と身体の鍛錬とボディケアをよりちゃんとやろうと思います。いいお年頃なので。頭と心だけでなく、体も生き方も軽やかでありたいです。

暮れに大掃除して、断捨離して、家を綺麗に調えるように、自分の心身を整えることは同じくらいに大切。頭の中、心の中、お腹の中は、空っぽになればなるほど、スペースが空けばあくほど、力を抜けば抜くほど、実は生命力が溢れてきてイキイキしてくるのです。

その軽やかなエネルギーで好きなこと、ほんとうにやりたいこと、情熱を傾けられることを

利他の心でやり続けていれば周囲に自然にいい影響力を与え、人生は良循環のスパイラルに入っていくでしょう。


facebook玉井 昭彦さん投稿記事

筒井康隆原作・吉田大八監督‼️こりゃ観なければなりませぬ。

プレミアシート)「敵」 老いと、魂のエネルギー

 老いた男の映画である。監督・脚本は吉田大八。1998(平成10)年に発表された筒井康隆の同名小説を原作に、驚くほど現代的かつ豊潤なシネマの愉楽を手に入れた。掛け値なしの傑作だと思う。

 主演の長塚京三が演じる渡辺儀助は、フランス近代演劇史を専門とする77歳の元大学教授だ。描かれるのは彼の独居生活。古い一軒家で料理や食事、原稿の執筆などを淡々と行う日々のディテールが丁寧に綴られていく。描写は原作に沿ったものだが、穏やかな声のトーンをはじめ、演者固有の生の形が映画を有機的に組織する。裸身も晒す長塚の肉体という具体のリアリズムを核にした再構築である。

 悠々自適にも見える渡辺だが、実は自らの死期を決めている。それは預貯金が尽きた時。ルイ・マルの「鬼火」が紡いだのは自死を思い定めた憂鬱な青年像だが、渡辺が示すのは“終活”とも呼ばれる死を見越したうえでの逆算型の思考と行動だ。しかし理性のみで人生が統制できるわけもなく、若者と特段変わらぬ性の煩悶が渡辺を襲う。彼を取り巻く3人の女性(黒沢あすか、瀧内公美、河合優実)は現実と幻覚の境目を突き破って、時に甘美な、時に不安な時間を渡辺にもたらす。全ては彼の想念を反映したイメージの可視化なのか。男の情けなさを赤裸々に湛えた長塚の演技は、「老いは生の滑稽なパロディーだ」というボーボワールの言葉を想起させるほど。

 語りの構造は現実と夢の相関が肝になる。生の現実が希薄化するにつれ、夢が濃度を増しながら侵攻していく。その隙を突いて現れるのが“敵”という得体の知れぬ概念だ。モノクロームの静謐な映像に、やがて強烈な光と音響が飛来する。無粋な喩えだが、小津や成瀬から塚本晋也に転化するようなダイナミズムが巻き起こるのだ。この映画が不思議に爽やかな後味をもたらすのは、たとえ肉体が衰弱や寂滅に向かっても、謎の激戦に個的な迷宮の中で直面する渡辺を通して、爆裂する内面や小宇宙――魂のエネルギーを溌溂と感じさせるからだろう。(森直人・映画評論家)

 ◇東京、大阪などで17日公開。順次各地で

朝日新聞1月10日


https://toyodasha2.cocolog-nifty.com/blog/2021/07/post-ec0599.html 【100分de名著 ボーヴォワール『老い』 上野千鶴子】より

~「老い」と「介護」をめぐって~

 今から半世紀前に出版された、ボーヴォワールの大著『老い』(1972年、人文書院)が、「100分で名著」で採りあげられた。

 講師の上野千鶴子さんは、『老い』の概要を紹介した上で、彼女なりに問題提起もしている。老いを否認する社会的傾向を批判し、老いを受け容れ、かつ、老いても「生きていていいのです」と高齢者にメッセージを送っている。

 同時に、彼女の年来の主張である「家族がいてこそ幸せという幻想」からの解放を呼びかける。長年フェミニズムの立場から闘ってきた上野さんらしい言だ。

 ★ ★ ★

 ただ、『老い』の読みをめぐって、気になるところも散見される。

 上野さんは、あらかじめこう宣言している、 「『老い』は陰惨な本です。前向きに老いるヒントなどほとんど書いてありません」と。

 しかし、必ずしもそうではない。端的にいえばボーヴォワールは、社会変革の先に、明るい未来をみているからだ。

 下巻の「結論」でそのことを、マニフェスト風にはっきり表明している。

 今日の社会体制(資本主義)のもとで、搾取されてきた人びとは、「目的や価値、生き甲斐を奪われてきた」。そのことが、今日の老いを「生の滑稽なもじり(パロディ-)」にしてしまっている。「搾取され、自己疎外された人びとは、体力がなくなるとき、必然的に『廃品』となり、『屑』 となるのだ」と。この社会で人間は、単なる「資材」とみなされてきたから、働かなくなれば(働けなくなれば)、「廃品」扱いされる。それがこの資本制社会だ、と批判する。

 ゆえに、とボーヴォワールは結論づける。「人間全体を作り直」し、人間関係を「根本的につくり変え」れば、人間は「人生の最後の時期」を「孤独のうちに迎えるべきものではないはず」になる、と。

 「理想的社会では、老いはいわば存在しないだろう、と夢想することができる」とまで書き及んでいる。

 そうしてみると、上野さんが「『老い』は陰惨な本です」との断言は当たっていない。

 もちろん、ボーヴォワールが展望した理想社会(社会体制の変革)についての是非は、別にしての話だ(私は半分は当たっていて、半分は当たっていないと思う)。

 当時、こうした発想はけっして少数ではなかった。社会体制が変われば、この資本制社会の矛盾が解消されると夢想されていた。ボーヴォワールからみれば、「老い」が「スキャンダル」であるのも、この体制の問題点のひとつとして位置づけられていた。

 ボーヴォワール、そしてパートナーだったサルトルは、社会主義的、あるいは「実存主義的ヒューマニズム」による社会変革に希望を託していた。そういう時代だった。

 『老い』は、社会変革に未来を託すことができる、明るい未来を信じうる時代の書であり、「陰惨な本」ではなく、むしろ希望の書としてあった。ただし、サルトル、ボーヴォワールらの主張が、下手をするとスターリニズム的な傾向を擁護してしまう危うさも孕んでいたということだ。

★ ★ ★

 ボーヴォワールの 『老い』では、古今東西のさまざまな書、文献、研究が紹介されていて、今日の「老い」をめぐる課題にも参考になるフレーズがたくさん採りあげられている。

 作家や詩人、作曲家、政治家など、多くの作品、人生が紹介されている。

 老年ゲーテのエピソードにも触れている。

 「ある日、講演をしている途中で、彼の記憶力が喪失した。二〇分以上ものあいだ、彼は黙ったまま聴衆を見つめていた」(第二部、朝吹三吉訳)。

 このフレーズを読んでいて、私はボサノヴァの神と呼ばれるジョアン・ジルベルト(1931~2019年)の東京公演を想いだした。今世紀に入ってからのこと。

 ジルベルトのギターと声だけの公演は、東京国際フォーラムで行われた。たしか初めての来日のときか。

 何曲かを終えた後だった。椅子に座ったまま演奏せずにじっとし、動かなくなってしまった。時間が止まったよう。およそ20分ほど、そんな時が経過した。居眠りを始めたのか、沈思黙考しているのか……。聴衆の誰もが黙ってその時を共有し、その時空を邪魔せず、次の音が奏でられるのをずうっと待っていた。ときに、こんなことが起こるものだ。

 ジョアン・ジルベルトとゲーテ――

 しかし、ボーヴォワールの考察は著名人にとどまらない。市井の労働者のありようも対象とされている。たとえば男性サラリーマンが雇用された企業で定年を迎えたあと、現役時代との断絶が生まれ、それがさまざまな悲惨を招く事態。男性が定年を迎えたあとの家庭での摩擦についても触れている。

 では、どうすればよいのか。これについても、ボーヴォワールなりに示している。

 このあたりは、今日巷に流布される定年後の人生論書とあまり変わらない。いや、今日に引き継がれている、というべきか。

 だから、上野さんが「前向きに老いるヒントなどほとんど書いてありません」と評しているのも妥当とは言いがたい。

 ★ ★ ★

 上野さんが今回強調しているのは、「老いの肯定」である。

 「生きていていいのです。役に立たないからと厄介者扱いするのではなく、役に立てないと絶望するのでもなく、わたしたちは老いを老いとして引き受ければいい」と。「老いという新しい冒険」に乗りだそうと呼びかけている。

 たしかに、「老い」がスキャンダル(訳書では「言語道断的事実」)だなんて、言わせたくないし、言ってはならない。

 「老い」は、たんなる自然過程にすぎない。そして、これは誰も免れることができないのだから。

 もっと言えば、 「生きていていいのです」のメッセージは、どんな世代に対しても適用されなくてはならない。

 たまたま「老い」の世代は、今日の社会で重視される「有用性」や「役立ち」の度合が全体として薄れてくるという特殊性を抱えているだけなのだから。

 ★ ★ ★

 ただし、こうしたメッセージを上野さんが発信するとき、あるいは私たちが発信したり、受けとめるとき、別の角度からの視線もあわせもつほうがよい。

 それは、「老いた人」たちがわきまえなければならないことでもある。

 2000年に介護保険制度が施行された。「高齢者の扶養や介護に社会が責任を持つことを意味する」(上野)この「社会保障」制度の意義は、たしかにじつに大きい。制度が抱える問題は多々あるにせよ、「介護の社会化」に大きく踏み出した。

 こういう歴史的経緯をしっかり踏まえた上でのことだが、上野さんの姿勢には、介護する側への視線がやや希薄にみえる。

 介護とは、介護を受ける人(高齢者)と、介護労働(サーヴィス)の提供者が向きあう場である。老老介護もあるだろうが、おもに介護する側は若い世代が担うことになる。それが介護の現場だ。

 社会保障制度であるから、税の投入や各人の保険料支払いを前提としつつ、その上で、介護という商品の売買がある。

 介護を受ける人は、介護サーヴィスという商品を購入し、消費する立場にある。このとき、消費者は「王様」に傾きがちだ。現に、一般の消費社会でしばしばこうした現象がみられる。介護・福祉の場でも、私自身の少ない見聞に限っても、こうした「王様振る舞い」が再現されることが少なくない。

 もちろん上野さんは、『ケアの社会学』を著し、また、いわゆる「おひとりさま」シリーズを何冊も出してきたからのだから、介護の現場にも知悉しているはずだろうが。

 高齢者の 「自由」の尊重を訴え、「老い」を肯定するメッセージはよいとして、そうした高齢者の「自由」の成立は、介護労働、サーヴィス労働提供者(生きた労働者)を前提としている。高齢者の「自由」は、そうした社会の構造の上で成りたつ。このあたりを丁寧に受けとめないと、商品の売買関係が陥りがちな「王様」と「召使い」的な関係性を幻想しやすくなる。

 今、手元に『在宅ひとり死のススメ』という上野さんの新刊がある。そこでの言葉を引用していえば、かつては、家庭内での「タダ働き」「「不払い労働」「強制労働」(上野)としてあった介護を社会化し、「権利意識」を生んだ介護保険制度を、私自身も改めて評価する。

 そして、この制度の成立には、たしかに「団塊世代の有権者たち」(とくに女性)が果たした役割を上野さんが強調することもわかる。

 ただし、こうした「権利意識」が歪められて発露されてしまう傾向にも、私たちは意識的であるべきだろう。

 そうでないと、無益な世代間対立の問題を誘発させてしまいかねない。

 介護保険制度を改悪させないスローガンの一つとして「介護報酬の切り下げを許さない」(上野千鶴子『在宅ひとり死のススメ』)のは当然の主張だが、一個の人間として介護サーヴィスを受ける現場で、「消費者」が不遜に陥らない姿勢も求められる。

 「老い」の世代だけではなく、どんな世代の「自由」も、それを支える社会的前提があってのことである。介護サーヴィスに関わる労働者・事業者への心配りが、介護の現場ではとりわけ大切ではないか。

 上野さんの著述に接していると、同世代の一人として、ときにこうした想いが生まれるのを抑えがたい 。


facebook玉井 昭彦さん投稿記事

初鴉(はつがらす)「生きるに遠慮が要るものか」  花田春兆

師でありました。

(天声人語)「助けて」と言えますか

 ああ、困ったなあ、と思ったとき、あなたは「助けて」と誰かに言えるだろうか。一人ではもう、どうしようもない、と感じたとき、「手伝って」と声に出せるだろうか。そんな何かを頼む力を表す「受援力」という言葉がある。

「私も、弱みを見せること、弱音をはくというのは、すごく勇気のいることでした」。医師で、神奈川県の県立保健福祉大教授、吉田穂波さん(51)は話す。「プライドとか、自尊心とか、誰でもありますよね」。

6人の子どもの母親として、多くの人に助けてもらってきた。ありがたさは痛感している。でも、だからこそ思う。誰でも困った立場になれば、すぐに救いを求めることができる社会であってほしいと。

衝撃を受けたのは、東日本大震災のときだった。支援に駆けつけた避難所で、妊婦の被災者から申し訳なさそうに言われた。「私なんか、命があっただけましです。どうか他の人を助けてあげてください。私はいいんです」。

人間とは限界近くまで窮すると、かえって誰かに頼れなくなるものなのか。助けてと口にすると、その瞬間、頑張っていた何かがポキリと折れてしまうからだろうか。以来、吉田さんは自著や講演で頼む力の大切さを呼びかけている。「頼ることは相手を信頼し、尊敬する証しです」。

受援力。「私なんか」とつぶやく人の励ましになるなら、そんな言葉も確かにいい。重い障害があった俳人の新年の一句が頭をよぎる。

〈初鴉「生きるに遠慮が要るものか」〉花田春兆。