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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

ショパン、お互いに説得す

2019.01.25 09:55

ショパン、パリに来て3か月が経とうとしていた、ショパンはパリの喧騒に慣れるどころか、

ティトゥスとウィーンで戦争のことを論議した日々をアパートの5階(6階のこと)の部屋

で思い出していた。

ショパンは自分も自由を求めてパリに来たひとりだというのに、息が詰まりそうな気分にな

っていた。人々は好き勝手に生きているというのにショパンにはその空気が馴染めずにい

た。このまま安易でいれば、いずれはもっと嘆かなくてはならない日が来ると、ショパンは

予見した。

パリという所は、楽しむのも自由、退屈するのも自由、笑うのも自由、泣くのも自由、すべ

てが自由である、しかし、結局人々は全く同じことをしているのだ。それでいて、お互いを

全く干渉し合わないで、それぞれが思うがままにやっているのだ。それがパリというもの

だ、ショパンの鋭い感性は光った。

更に、パリにはたくさんのピアニストがいて名人が一握りいる。そして、これほどまでに下

手くそがたくさん集まっている国も他にないであろう。

ショパンはいつでも冷静に世の中を観ていた。

そういうパリの音楽界の中で、自分はどうこれから生きて行けばいいのか、ショパンは考え

ていた。

ウィーンで親しく交流したマルファッティの計らいで、ショパンはパリに来てから宮廷指揮

者のフェルディナンド・パエールに会った。パエールはショパンをロッシーニ、ケルビー

ニ、バイヨー、そしてカルクブレンナーを紹介してくれた。

更に、ショパンは興味があったピアニスト、アンリ・エルツ、超絶技巧の持ち主の

フランツ・リスト、ドイツのユダヤ系作曲家で超絶技巧で知られるフェルディナント・ヒラ

ーを聴いたのだ。

その中で、ショパンはカルクブレンナーが一番気に入ったのであった。

そのため、父ニコラやエルスナー先生からの心配の手紙をよそに、ショパンはカルクブレンナ

ーと毎日のように会っていたのだ。

そして、エルスナー先生に、どれだけカルクブレンナーが素晴らしいかを説得する手紙をシ

ョパンは長々と書いたのであった。

ショパンはカルクブレンナーは3年間はやはり長すぎると考えを改めてくれそうだから、や

はりカルクブレンナーは自分に嫉妬などしない大物で素晴らしい人だと、ショパンはエルス

ナー先生を説得しようとした。けれど、実はそれは、エルスナー先生とショパンの父ニコラ

からカルクブレンナーへの強い助言があったからだということに、全く気が付いていないシ

ョパンであった。

ショパンはまだ父からお金を更に毎月のように送金してもらっていた。


ジョアキーノ・アントーニオ・ロッシーニ(1792年2月29日 - 1868年11月13日)イタリアの作曲家

代表作「セビリアの理髪師」「チェネレントラ」「タンクレーディ」「セミラーミデ」

グランド・オペラ「ウィリアム・テル」

美食家で有名