Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

キャンピングカーで日本一周

1月19日 豊見城市→浦添市→那覇市[沖縄県立博物館]→豊見城市(36km)

2019.01.26 04:51


今日は、前日の精神的疲労感で、午前中はゆっくり体を休めたいということで、浦添の湯に立ち寄りリラックスタイム。


昼過ぎに那覇市に移動し、「沖縄県立博物館」へと車を走らす。


一般車両の駐車場は、入り口のひさしに車の頭がぶつかりそうなので、観光バス用の駐車場に移動し、車を停めさせていただく。


エントランスの近くの中庭には、琉球の古民家が再現されており、靴を脱いで自由に中に入ることができるが、琉球村で見学済みなので、あえてここでは立ち入らず。



博物館と美術館は同じ建物で、美術館では新海誠のアニメ作品が展示されていた。

入り口付近で秋葉原のような雰囲気を感じ取ったのは、そのせいだったか。



我々は、博物館の常設展「海と島に生きる」のみを見学する。


ゲートを入ってすぐ、足元には、沖縄の美しい海の様子を再現したジオラマが。



エメラルドブルーの魚(イラブチャー)はスーパーでも売っているのを見たが、まだ勇気がなく食せず。沖縄を離れる前に一度は食べてみよう、と相談する。





△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼



展示室の入り口には「展示室内での写真撮影不可」と書かれていたが、係員に聞いてみると、個別に禁止の表示があるもの以外はOKらしい。


とはいっても、ひと度シャッターを切ると、すぐさま背後がら忍び寄る人影が……。


広い展示室の随所に控えている係員の放つ「反則探しビーム」が半端ない。


こちらは博物館の指示通りに、撮影不可マークの付いていないものを選んで撮影しているので、別に悪いことをしているわけではないのだが、監視の雰囲気が強いせいか、なんとなく気がひける。


これまで訪れた別な県では、決まって館内随所にボランティアガイドを配置させ、見学者を笑顔で待ち構えていて、説明したくてうずうずしている感じがひしひしと伝わってきた。


それはそれでありがたい事だが、ゆっくり自分のペースで展示物の文字を読みながら見学してゆこうとする我々にとっては、ちょっと立ち止まっただけで説明を加えてきて、文字を読む時間すら与えてくれないこともあり、バリヤーを張らざる得ない場面もあったりした。


ちょうど良い匙加減というのは、関係者としてはなかなか難しいところなのだろうけど。



公共施設をサービスの場としてとらえるのか、それとも民衆の行動をコントロールして安全、快適な空間として保てるように管理する場としてとらえるのか。


日本各地、それぞれの行政のカラーが反映するのか、会館の判断に委ねられているものなのかは定かではないが。



そういえば、この感じ。最近、どこかで味わったことがある。

と思ったら、某道の駅のトイレを使用した時がそうだった。


トイレの入り口付近には清掃係控えていて、誰かが使用すると、すぐさまトイレ内へと向かう。

夜間とて例外ではない。トイレを使用すると、駐車場から決まって係員と見られる男性が現れ、入れ替わりにトイレへと向かう。


意外に、この地は監視社会なのではないかと感じてしまうのは私たちだけ? 


たしかに病気療養中は、車を駐車場の隅っこに停めてじっとしていたり、那覇方面へと向かう際には高さ制限で駐車場に入れられないことを想定し、バスに乗って出かけていたので、数日の間は日中でも駐車場に車を停めさせていただいていた。

いくら弁当、ドリンク、お菓子類でお金を落とすとしても、管理者側の立場からすれば招かざる客。迷惑な観光客といわれれば、そうであったのかもしれないが。



ムダな争いをせず、平和的に開かれた社会を築く。

そのためにも、外部からの好ましくない侵入者に対しては、守りを固める必要がある。 


ゆえに、このくらい監視を徹底しないと、やっていけけないのかもしれない。と分析してみる。


まあ、これは管理者サイドの対応の話。

この地で出会った沖縄の方々は、皆一様にフレンドリーで、眼差しは暖かい。



△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼



さて、話は戻って、展示内容について。


展示沖縄には早期に人類が住み始めたので、他県の博物館同様、古代の出土品がいろいろ展示されている。


一方、まとまった統治機構が見られたのは三山時代あたりからなので、歴史関連の展示も12世紀頃からが主になる。


本州における飛鳥・奈良・平安時代が抜けて、鎌倉時代あたりから始まる感じ。



15世紀中頃の尚巴志による三山統一以前、三山時代から、北山・中山・南山の各王国がそれぞれ個別に中国の明王朝と朝貢関係にあったことがわかっている。


「海と島に生きる」という常設展のタイトル通り、海に囲まれた地の利を生かし、周辺諸国との交易により、多くの富を得ていた。



琉球は、かなり早い段階で高度な航海技術を持ち、中国文化をはじめとするアジア諸国との文化交流の成果が見られたことになるが、三山時代以前の史料については必ずしも十分には残っていないということか。


15世紀の琉球王国成立後、江戸幕府の薩摩藩が成立する以前から、島津氏の勢力は徐々に琉球に及んでいた。


そして、江戸幕府が成立してすぐの時期に、薩摩藩は琉球を侵攻する。


江戸時代には、琉球王国は中国の明国・清国に朝貢をしながら、薩摩藩の支配も受けていた。

それでも、明治の琉球処分により沖縄県として日本に編入させられる前は、対外的には一応の独立国として存在していた。


幕末のペリーの琉球来航でも、琉球王国は清国と薩摩の間にはさまれつつ、どのようにアメリカの攻撃を避け、その矛先を日本に向けさせるかについて頭を悩ませる。




そのあたりの琉球王国の苦悩と外交政策については、2011年のテレビドラマ『テンペスト』(原作:池上永一)が、フィクションではありながら、その雰囲気をよく表している。


江戸時代の琉球と日本との関係を、支配者と被支配者との関係として見れば、それは事実に違いないが、文化的な側面から見ると、日本が琉球を通じて中国文化を取り入れ、徳川幕府も琉球の文化レベルについて相応のリスペクトを与えている側面もある。


江戸時代には、琉球王朝の皇帝や徳川の将軍が代替わりするたびに、琉球の皇帝が行列を仕立て、江戸まではるばる表敬訪問するならわしになっていた。


独特の琉球音楽を打ち鳴らし、民族衣装をまとって連なる行列は庶民の目を惹き、江戸などでは訪問のたびに一種の「琉球ブーム」が起きたらしい。琉球を知るためのガイドブックのようなものも出版され、よく売れた。


このあたりの展示(当時の書物や行列図など)は充実している。


中国を発祥とする文化、儒教や書や囲碁なども、琉球には高名な学者や専門家が存在して、江戸の有力者との交流が各方面で行われた。新井白石や荻生徂徠もそこに含まれる。


琉球の学者・程順則が清国から持ち帰った書物『六諭衍義』は、日本各地に設立された武士の教育機関・藩校で儒教の教科書として広く用いられたらしい。


また、17世紀に活躍した囲碁の第一人者、本因坊道策が、当時の琉球の第一の打ち手とされた浜比嘉親雲上(ハマヒガペーチン)と対局したことを示す文書も展示されている。ネットで調べると彼らが対局した棋譜が現在も残されていた。


道策が白を持ち、浜比嘉が黒でハンデを4子置いた。4子というと両者の差はまだかなりあるが、それでも立派に打っていると思う。




先日『テンペスト』のDVDを借りて、10話までぶっ通しで観ていた。


琉球王朝の最高神女として強い影響力を持った「聞得大君(キコエオオギミ)」が重要な役割を負っており、高岡早紀が上手く演じていたが、実際に聞得大君が使用していた「黄金のかんざし」が展示されていた。これは目玉の展示の一つ。




国王や聞得大君、地方を治める按司をたたえる古謡の歌謡集「おもろさうし」の展示も。



琉球と日本との関係については、源頼朝の叔父、源為朝が伊豆大島に流されたが、その後琉球に逃れた際に、統治の王族の娘が産んだ為朝の子が初代琉球王、舜天になったという伝説が残されており、関連の展示もある。


19世紀初頭の曲亭馬琴『椿説弓張月』は、その伝説をもとに書かれた小説だ。


当時から浄瑠璃や歌舞伎の題材になり広く知られたが、戦後には三島由紀夫が3幕物の歌舞伎の脚本を書き、音楽や美術、演出も手掛けている。



琉球と日本との交流とは別に、琉球と中国(明国・清国)との交流に関する展示も当然あり、琉球の使節がどのように中国の当時の首都・北京に旅をしたかについての詳しい紹介もある。



福建省の福州・泉州から上陸して杭州や蘇州、南京を経由して北京まではるばる旅するのだが、海路だけでなく陸路に入ってからも、かなり危険な旅だったらしい。


このあたりに興味がある人にとっても、面白い展示になっている。



最後に、沖縄の文化に関するコーナーがあり、「洗骨」について触れている。


「洗骨」に関しては、沖縄出身で映画監督としても知られるゴリさんが、最近映画を撮ったということで興味を持っていた。


DVDで借りようとしたら、ちょうどロードショー上映が始まったばかりであった。


この地の映画館で、沖縄の人に囲まれて一緒に鑑賞するというのも一興かもしれない。



他にも、沖縄の一般家庭の仏壇と床の間の展示もあり、興味がそそられる。


この時代、本土の武家の床の間には刀が飾られていたが、沖縄では「三線(しゃみせん)」が飾られている。

 

琉球王国は、薩摩の支配下となり、薩摩によって武器を取り上げられて以来、250年ほどの長きに渡り、非武装、平和外交を貫いていた。


その平和思想は、現代の沖縄市民のDNAの奥深くに、深く深く擦り込まれているようだ。


そして、さらに第二次大戦下の沖縄戦における多大なる犠牲によって、その平和思想はさらに強固なものとなっている。


これは、外圧による武装解除が生んだ民族性、と捉えられなくもない。


他国から強いられたことは屈辱的なものであるに違いない。 

しかし、それによって戦わない民族、平和を愛する誇り高き民族となっていったとするならば、日本もまたしかり。


敗戦によりアメリカ主導で戦争をしない不戦国家としての憲法が定められ、その後半世紀以上に渡り、戦争をしない、紛争に関わらないことで平和を遵守する国家となって来れたということになる。


そのことに関して間違いはなかった。それで良い。それで良かったはずであった。



しかし、現在の有り様はどうだ。


沖縄の平和。それを掻き乱す日本という国家の現在の有り様は……。


さらなる犠牲を生じさせるやもやしれぬ道へ、突き進もうとする、この現状は。



床の間の一件で、さらにまた、深く考えさせられてしまった。