ショパン、自由の国パリで不自由なショパン
ウィーンではショパンのポーランドの民族性豊かな曲想は受け入れてもらえず、また、ポー
ランド人であるということだけで人種差別的な扱いを受けるなど、ウィーンでポーランドの
音楽のことなどを語ろうものなら狂人扱いされたショパンであった。
ミュンヘンでは、ショパンは協奏曲とロンドを演奏して、高名な演奏家として受け入れられ
たショパンであったが、全ったく別次元の最高に華やかで最高に悪である自由の国パリで
は、ショパンにとって好都合にことが運ぶかにように見えていたことも、次第に
ショパンの置かれた立ち位置は望むと望まざるとにかかわらず、カルクブレンナーに関わっ
たことから始まり、これから訪れる華やかな社交界の名声とは裏腹にショパンは次第に苦し
い立場に追い込まれて行ったのだった。
ショパンはカルクブレンナーに師事しなくてはならない幾つもの理由をエルスネル先生に語
ったが、それは、パリという場では自分自身を納得させるしかなかったからでもあ
った。
ワルシャワ音楽院で4年間勉強したショパンであったが、ショパンはパリの音楽院はどんな
ものかと見学に行った。すると、そこには若者が20人程玄関で腰かけ、ルイージ・ケルビ
ーニとジャン=フランソワ・ル・スュールに教えを乞おうと我こそはといつお出ましになる
かわからない大先生を待っていた。
ショパンはその光景を見て、これではたとえ上手くいったとしてもたいした成果は上げら
れないと思ったのであった。
そして、ジャコモ・マイアベーアはオペラ作曲家としてパリで成功しているかのように見え
るが作品を舞台に乗せるまで3年間自活して、オペラ〈ロベール・ル・ディアブル〉を演出
するのに3年かかり、2万フラン(現在の2236万8千円)の費用を費やしたとショパンは
師と崇め奉っていたカルクブレンナーから聞かされたのであろう。
正直なショパンは真面目に考え、自分はこれからまだ3年もカルクブレンナーに仕えなくて
ならないのだ、そのための出費は当然ワルシャワの父のニコラがお金を工面することになるのだ。
そのため、オペラで大成してほしいという父とエルスネルの期待、そして、それは自分の
夢でもあったショパンにはとてもとてもオペラが遠い夢に思えてしまったのだ。
ショパンは作曲家と演奏家とそしてオペラの両立で名を成すことはよほどの幸運に恵まれな
ければ無理だと思った。
カルクブレンナーの弟子としてのショパンの演奏会は、1月15日から1月25日に延期さ
れ、更に2月26日に延期になった。その内容は、カルクブレンナーとの共演でカルクブレ
ンナーが巨大なパンタレオンでショパンは小さなジラフ(縦型ピアノのような)でベルのよ
うな小さな音しか出ない1弦の楽器で主旋律を奏でるというものだった。
シヨパンの夢はことごとくカルクブレンナーに打ち砕かれたのであった。
19世紀後半頃 パリ オペラ座