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守・破・離

2025.02.01 13:12

Facebook尾崎 ヒロノリさん投稿記事

おはようございます。日本には 茶道、 華道、 柔道 、剣道 など…。全てに「道」がついている表現世界です。

単に 技量や技術を究めることにとどまらず、そこでは「生きる道」を究めていく意味があります。それぞれの表現世界に飽くことなく弛むことなく 「生きる道」を見出していく。

「道」には、そんな想いが込められている気がします。

さて、如月になりました。今月もよろしくお願いします。


Facebook大覚院 真観さん投稿記事「守・破・離」その先に直感

日本古来の伝統的な武道や茶道、能楽などの習得思想に「守・破・離」という考え方があります。

即ち、まず「守」は、師匠に言われた型を「守る」ところから修行が始まる。

その後、その型を自分流にアレンジすることにより、より自分に合ったと思われる型をつくることで既存の型を「破る」。

そして、最終的には師匠の型、さらに自分が造り出した型も破り、型から完全に「離れ」て自由自在になる、という奥義の極め方・思想です。

例えば、「ああして、こうして」のような決めごと(ルール)に拘りすぎると、頭の中がパンパンになって、変幻自在な変化に迅速かつ柔軟に対応できなくなります。つまり、ここでいう「型から離れる」ことができていない状態です。

そして、ここでいう自由自在になるとは、一瞬の「直感」や「感性」に従うということです。

ただ、これは、繰り返し繰り返し鍛錬し、潜在意識に叩き込んだ “形なきルール ”に無意識に従うということです。

鍛え抜いた人の直感は七割正しい  

人間の感性には、「ひらめき」と「直感」があります。「ひらめき」には理由があり、したがって、それを説明する事ができます。

「直感」には説明できる理由がありません。

例えば、何かを選択するとき、「なぜか分からないけれど失敗しそうな気がする……」という虫の知らせがありますが、これは「ひらめき(インスピレーション)」ではなく「直感(インテューション)」です。

そして大切な事は「直感は意外と正しい」ということです。理由が説明できないにも関わらずです。

将棋の羽生善治名人は「千局以上の公式戦で、直感的に閃いた一手の七割は正しい選択だった」と言っています。

つまり、何か思いついたら、まずは「その理由はなんだろう?」と考えてみる。

しかし、それが思いつかなかったら、意外と「直感」を信用しても大丈夫ということです。

逆に、理由が思いつくときは、意外と信用してはいけないということかもしれません。


FacebookSammaditthi Asakura元気になるページさん投稿記事

この教えは、仏教の精神的修行の中核であり、悟りへの道を指し示す重要な指針です。それぞれの句に深い意味が込められており、心の束縛を解き放つための道を示しています。

1. 「怒りを捨てよ」

• 意味: 怒りは、心を乱し、苦しみの原因となる強い感情の一つです。怒りを抱くことで自分自身が傷つき、他者との関係も壊れます。そのため、怒りを克服し、平穏な心を保つことが重要です。

• 実践: 怒りが生じたとき、それにとらわれず冷静に観察し、怒りの根源を理解すること。たとえば、「なぜ自分は怒っているのか」と自問し、その感情を手放す練習をする。

2. 「慢心を除き去れ」

• 意味: 慢心(プライドや自己過信)は、自我に執着することで生じます。他者と自分を比較して優越感を抱くことは、心の平穏を損ない、人間関係を悪化させる原因となります。

• 実践: 謙虚さを心がけ、自分を過剰に大きく見せようとする心を捨てること。他者と自分を分け隔てず、平等な目で見ることを意識する。

3. 「いかなる束縛をも超越せより 

• 意味: 束縛とは、物質的なもの、人間関係、欲望、執着などのすべてを指します。これらにとらわれると、自由な心を失い、苦しみが生まれます。束縛を超越することで、真の解放が得られます。

• 実践: 「これは私のものだ」という執着や、「これがなければ幸せになれない」という考えを手放し、すべてが無常であることを理解する。

4. 「名称と形態とにこだわらず」

• 意味: 名称(名前や肩書き)や形態(外見や形式)はすべて仮のものであり、本質であありません。これらに執着することは、自分自身を狭い枠に閉じ込めることになります。

• 実践: 見た目や名前に惑わされず、物事の本質を見る目を養うこと。たとえば、人の外見や肩書きだけで評価するのではなく、その人の行いや心を観察する。

5. 「無一物となった者は、苦悩に追われることがない」

• 意味: 「無一物」とは、何ものにも執着しない完全な自由な状態を指します。執着がないため、失うことへの恐れや苦しみが生じません。

• 実践: 「持たない」という意味ではなく、所有物や感情に縛られない態度を持つこと。すべてを受け入れ、必要以上に求めない心の状態を目指す。

この教えは、心の中にある怒りや慢心、執着を手放し、執着のない自由な心の状態を目指すよう説いています。そのような心の状態に達した人は、苦しみや悩みに振り回されることがなくなります。

日常生活では、怒りや執着を完全に克服するのは難しいですが、一つひとつ意識しながら少しずつ手放していくことが、心の平穏につながる一歩となるでしょう。


https://note.com/onoshin1209/n/n9be905546204 【守破離(しゅはり)の意味とは?忘れたくない日本の精神】より

「守破離(しゅはり)」という言葉を聞いたことがあるでしょうか?

守破離とは、芸事の文化の発展や進化の過程でベースとなっている思想です。

茶道や武道などの芸道・芸術における師弟関係のあり方や、その道を究めていく過程の成長段階を守・破・離の三段階であらわします。

守破離の語源は?

語源とされるのは、茶人・千利休の教えを和歌にまとめた「利休道歌(りきゅうどうか)」の歌のひとつ

規矩(きく)作法 守り尽くして破るとも 離るるとても 本(もと)を忘るな

この中の3つの漢字「守」「破」「離」を引用したといわれています。

もともとは茶道の精神を詠んだ歌ですが、守破離の精神は仕事やビジネス、またスポーツや子育てにも役立つ考え方ではないでしょうか。

「守」

師の教えを忠実に守り、型や作法、知識の基本を習得する段階。既存の枠の中での「優秀者」

親は子供に「8時に寝なさい」と言って、基本となる就寝時間を教えます。そうすればたっぷり10時間寝ることができ、朝6時にはすっきり起きることができるからです。

「寝る子は育つ」大きく成長してほしいと願っています。

「早起きは三文の徳」学校に遅刻することもありません。

「破」

鍛錬と経験を積み、基本を土台としながらも自分の殻を破って応用する。

既存の枠を打破る「変革者」子供は知らぬ間に成長しているものです。

言われたとおりいつも8時に寝ていると見せかけて、こっそりYouTubeを見たりして夜更かしするようになるでしょう。でも朝はしっかり6時に起きてバレないようにしています。

決してずる賢いのではありません。成長過程においては誰もが経験する、身に覚えがあることではないでしょうか。親の言いつけを破るとき。これが「破」です。

成長していると捉えれば、「子供が言う事をきかない」と悩む必要はないのです。

「離」

教わった知識や型にとらわれず、思うがままに道を極める。新しい枠を創り出す「創造者」

もう自分の体調と明日の予定を考えて、寝る時間と起きる時間を自分で決められるようになっています。

親に何を言われようと、自分のことは自分で決める。自分の人生を歩み始める段階。

これが「親離れ」、まさに「離」です。

ちょっと寂しいけれど、親も「子離れ」しなければいけません。

守破離の精神とは

規矩(規範となる)作法を守り続けていつかそれを打ち破り離れていくことも大切だけれども

基本となる精神は忘れてはならない親の言いつけを守り続けていながらもやがてそれを破り離れて行く子供の頃は気づかなかったけれど、うるさく言うのは自分のために言ってくれていたんだと、親になってはじめて気づくものです。

自分の心の奥深くにある、親から教えられた基本の精神を忘れずに、次の世代にもしっかり継承しなければならないということかもしれませんね。

千利休の「侘び」の精神

「守破離」や「茶道」といえば、千利休が思い浮かびます。

千利休といえば「侘び」ですね。千利休は戦国時代から安土桃山時代に活躍した茶人です。

質素な茶室や茶道具を使用して客人をもてなす「侘び茶」を発展させ、余計なものをそぎ落とす「侘び」の精神を確立させました。

調べてみると、千利休はとても興味深い人物でした。

戦国時代は茶の湯がトレンド

堺(大阪)の商人の家に生まれ、茶の道に入ったのは17歳のとき。23歳のときには「茶の湯」と呼ばれる茶会を開催するなど、茶人としての修行を積みながら、家業を継いで堺の商人として暮らしていました。

戦国の世は茶の湯ブーム。その中心地が堺でした。

あの織田信長も茶の湯の文化に関心を示し、みずからも茶道に打ち込んでいたそうです。茶の湯は格式が高いものとされ、政治利用されるほど大きな影響を与えるものでした。名物と呼ばれる貴重な茶器は価値が高く、領地や金の代わりに茶器を褒美として与えられるほどです。

信長は「名物狩り」と称して堺で貴重な茶器を買い集め、高価な名物道具を茶会で披露することで富と権力を誇示しました。

信長の茶道の師であり茶器の目利きもできる千利休は、この信長の政策に大きく関わり、茶頭(茶会を仕切る役職)として信長に仕えるようになりました。

千利休が歴史の表舞台に登場するのはここから。50代になってからのことです。

派手な秀吉とシンプルな利休

本能寺の変による織田信長の死後、豊臣秀吉も利休を信頼し、茶頭として重用するようになりました。秀吉も天下人に登り詰めていく過程で活用したのが茶の湯であり、それを任されていたのが利休でした。

秀吉が利休と共に開催した大規模な大茶会「北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)」は、今でいう音楽フェスのようなもの。いわば「茶の湯フェス」です。その一大イベントの演出を任されるほど利休は秀吉に信頼され、ふたりの関係は強固なものとなっていました。

しかし、秀吉と利休の追求するものには決定的な違いがあったのです。

「黄金の茶室」を作るなど、秀吉は絢爛豪華で派手なものを好みます。秀吉にとって茶の湯とは、自身の権威を知らしめるためのものでした。

一方で、利休の追求した茶の湯とは、質素に徹する「侘び茶」でした。

利休がつくり上げた茶室「待庵(たいあん)」は、わずか二畳の狭いスペース。入口は狭く、刀を持ち込めない造りになっています。それは茶室の中では身分の差など関係なく、対等に対話をするのだという利休の意図がありました。窓が少なく、装飾は掛け軸と一輪の花のみ。

不要なものを極限まで削ぎ落としてシンプルにする。

それが利休の追い求めた空間美の完成型だったのです。客人を一対一でもてなすための計算し尽くされた設計は、当時は画期的な茶室でした。

利休の「侘び」とは?

不完全なものこそ美しいとする「不足の美」利休の侘びの精神は現代にまで伝わるものです。

こうした価値観の違いから、徐々に意見も食い違い、秀吉と利休の関係性はしだいに悪くなっていきました。利休は人望も厚く、多くの武将に慕われていたことも秀吉にとっては面白くなかったのかもしれません。そして、ついに秀吉は利休に切腹を命じたのです。

利休はそれを受け入れ、切腹により70歳で生涯を終えることになりました。

なぜ秀吉は利休に切腹を命じたのか?これには諸説あり、理由は定かではありません。

歴史上の謎と言われています。しかし千利休という人物を知るほどに、こんな理由ではないかと想像します。秀吉は利休のセンスと人望に嫉妬していた 天下人である秀吉をも上回る実力と権力を利休が持ちつつあった それを秀吉は怖れていた。だから切腹を命じられたのではないか?そんなふうに思えてきます。千利休はそれほど魅力的な人物だったと考えると、利休の侘びの精神をもっと知りたくなります。茶道にも興味が湧いてきました。

古田織部に感じる「守破離」

利休の弟子・古田織部(ふるたおりべ)もまた、興味深い人物です。

信長、秀吉の家臣として仕えた武将でありながら、戦よりも茶の湯に夢中になったという人物

利休の死後、天下の茶人として後世に名を残すことになります。

利休の精神を守りながらも、それを崩して自分好みに変化させ、「織部好み」と呼ばれる斬新な形の陶器をつくりました。独特なゆがみを持つ織部スタイルの陶器は「織部焼」と呼ばれます。

自由と個性を尊重し新たな価値観をもたらす「オリベイズム」は、現代の芸術にも引き継がれる思想としてリスペクトされています。

織部の茶室は利休よりも広いスペースをとり、窓を増やして明るい茶室にアレンジしています。ストイックな利休の茶の湯を改変し、織部独自の流儀を確立しました。

そして茶の湯がさらに広まり、茶道として現代にまで伝わるものになったというわけです。

古田織部は、織部焼や歴史漫画「へうげもの」の主人公に描かれたことでも広く知られ、天才芸術家と呼ばれる人物です。

その織部が持つ独特のセンスの背景には、師である利休の「人と違うことをせよ」との教えがあったといいます。これは弟子のなかでも織部だけにかけられた言葉であり、利休も織部の才能を認めていたことがうかがえます。

師の教えを継承しながらも、変革をもたらし、独自なものをつくる創造者となった。

まさに「守破離」の精神を感じます。

松尾芭蕉の「寂び」

「寂び」と聞くと「寂びしさの中にある美しさ」のようなイメージでしょうか。

思い浮かぶのは松尾芭蕉です。松尾芭蕉は江戸時代の俳人。俳句を読みながら旅をした紀行文「おくのほそ道」が有名です。

代表的な芭蕉の句一度は聞いたことがあるでしょう。

「古池や 蛙飛び込む 水の音」「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」「夏草や 兵どもが 夢の跡」

静寂の中の静かな心の揺れ動き。これが「寂び」ですね。

松尾芭蕉は旅と俳句に生きた人物。「人生は旅である」といえば松尾芭蕉です。

「おくのほそ道」とは?

東北から北陸地方を巡って岐阜に至る2400kmの旅のこと。もちろん徒歩です。45歳の年齢でこの困難な旅を成功させました。行く先々で俳句を詠みながら、旅先で出会う人たちと一緒に俳句をつくり、俳句を教えて回りました。そのため、全国には多くの芭蕉の弟子がいます。

「おくのほそ道」が完成したのは旅に出てから5年後のこと。芭蕉が亡くなる半年前でした。

「おくのほそ道」を完成させた後、再び旅に出た先の大阪で、病気により芭蕉は50歳で生涯を終えました。

最後まで旅と俳句に生きた人です。松尾芭蕉の最後の句 旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る

旅の途中で病に倒れてしまったけれども、夢の中ではまだどこかの枯野を駆けまわっている。

「まだまだ旅をしたかった」そんな想いが伝わってきます。

儚く無常に滅んでいくものを悲観するのではなく、美しいと捉えること

それが「寂び」なのかもしれません。

千利休や松尾芭蕉が伝えた「侘び寂び(わびさび)」は、日本独自の美意識です。

日本古来から伝わる教えや文化は日本独自のものであるからこそ美しく、魅力を感じるのではないかと思います。

日本独自の美意識「侘び寂び」

「侘び」とはつつましく、質素なものにこそ趣(おもむき)があると感じる心

「寂び」とは時間の経過によって表れる美しさ

とはいえ、侘び寂びを言葉にするのは難しく、心で「感じるもの」ではないかと思います。日本人が持っている心情と言えるでしょう。

侘び寂びを美しいと思う感覚は、きっと誰もが持っているのではないでしょうか。

質素で足りないもの

欠けていて不完全なもの

時が経つにつれ汚れたり劣化していくもの

それらを否定的に捉えず「美しい」と感じる日本の美意識は、大切にしたい古き良き日本の精神です。

断捨離、ミニマリスト、シンプルライフ

これらの現代のトレンドも、「侘び寂び」の概念に通ずるものがある気がします。

「守破離」の精神

「侘び寂び」を美しいと感じる心 美しき日本の精神を忘れたくありません。