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暗合と創造 -子規に学ぶこと -

2025.02.10 07:09

https://www.asahi-net.or.jp/~cf9b-ako/kindai/ango.htm 【暗合と創造

- 子規に学ぶこと - 秋 尾 敏】より  『俳壇』1992年2月号掲載 

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 子規が俳句の危機について公に述べたのは、明治二十五年、新聞「日本」に連載した「獺祭書屋俳話」でのことである。

 數學を脩めたる今時の學者は云う。日本の和歌俳句の如きは一首の字音僅かに二三十に過ぎざれば之を錯列法(パーミユテーシヨン)に由て算するも其数に限りあるを知るべきなり。

このように数学的根拠から俳句の有限性を指摘した子規は、ついに「よし未だ盡きずとするも明治年間に盡きんこと期して待つべきなり」と予言するにいたる。勝田龍夫によれば、これに先立つ明治二十年、既に子規はこうした問題意識を持っていたという。

 明治二十年の夏休みに、父も子規も松山 に帰省した。この時、子規は頻りに俳句の 話をして、「代数の序次配合を十七文字に応用して、俳句は何句以上出来ぬ故に、暗合の場合が屡々ある」などといっていた。(「学生時代の父勝田主計と子規」)

 ここで「父」というのは勝田主計。子規に大原其戎を紹介した人物であり、当時もっとも子規に近かった一人であるから、この話の信憑性は高いといえよう。

またその日記が、松山の子規博物館に寄贈されたことでもあり、いずれその辺りの事情は明らかになろうが、もし勝田龍夫の言う通りだとすれば、子規の俳句革新への思いは、既に明治二十年に芽ぶき始めていたことになる。とするならば、明治二十五年の子規の小説への挫折の意味も、少し変わってくるだろうと思われるのである。

 子規は小説「月の都」を、幸田露伴のもとに持参し、その評価によって小説家となることをあきらめて、俳句に専念するようになった、などといわれる。しかしそれは俳句への転向ということではなかったのである。

 子規はおそらく、日本の文芸全体の革新を考えていたのである。だが、小説という分野で、自分に先行する才能を発見し、詩に向かった、というのが真相であろう。露伴と会った子規の衝撃は、「月の都」の評価などにはなかったのだ。そんなことよりも、自分に先行して新しい小説の在り方を模索し、実践する才能の存在が衝撃だったのである。事実、残された露伴の評も、酷評というものではなく、子規と露伴の交流はその後も続くのである。また後に子規は、「月の都」を自ら編集する新聞「小日本」に連載さえする。状況証拠でしかないが、これらを

考えれば、子規は露伴を認め、かつ「月の都」もそれなりの作品と自認していたことになる。

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さて、子規のいう「今時の學者」は、どのような計算をしたのであろうか。子規のいう「字音」とは、いわゆる音節のことであろう。すると現代の日本語では、おおよそ百程度の種類があることになる。

 一方俳句の方は、いうまでもなく十七音であるから、百のうちの十七個をとりだして、繰り返しを許して組合わせるということになる。これは百の十七乗ということになり、計算すれば、1000000000000000000000000000000000種類(千兆の千兆倍のさらに十倍)という数となる。これは日本人一億2千万人が毎日千句ずつ作句したとしても、およそ二千三百京年分ということになる。しかもここには字あまりや字足らずの句は含まれていない。

 むろんこの中には「け」を十七回繰り返すとか、「ぎゃぎゃぎゃぎゅぎゅ」などという、まあ通常ではどのような前衛作家でも作品とすることを回避するであろう句が含まれているわけであるから、この数字をもってそのまま作品数とするわけにはいかない。いかないけれども、どうもこれはどうも予想よりは多いのではないかという気もしてくる。

 もうすこし現実的に、意味の通る句がどの位作れるかを考えるならば、これは少し難しい問題となる。実際に存在する言葉を考えてみなければならないからだ。

例えば十七音を単語に分ける場合の数を計算し、それぞれの場所に入る可能性を持つ語彙数を積算していけば、ある程度の数ははじきだされよう。あるいはまた、ある語の次に続く語と続かない語を区別して計算すれば、かなり正確な数が出てこよう。しかしそれらは既に素人の趣味を越える作業である。その道の方にお任せするしかない。

 だがいずれにしても、どうも国語辞典に数万語の語彙が掲載されている事実からして、答はやはり天文学的な数値にならざるをえないと思われるのである。とても子規のいうように、「明治年間に盡きん」などという状況にはない。今となっては、子規がどのような計算をしたかは不明である。だが、たとえ五十音の中から十七音を順列によって選び出したとしても、答は天文学的数字となる。

 おそらく子規の言いたかったことは、このような可能性のことではなかったのであろう。逆にこうした可能性があるにもかかわらず、使用する語彙や言回しを限定し、固定化してしまうことによって、その可能性を狭めてしまう俳句の有り様が問題だったのである。

 試みに見よ古往今来吟詠せし所の幾萬の 和歌俳句は一見其面目を異にするが如しといへども細かに之を觀廣く之を比ぶれば其 類似せるもの眞に幾何ぞや。弟子は師より脱化し來たり後輩は先哲より剽竊し去りて作為せる者此々皆是れなり。その中に就きて石を化して玉と為すの工夫ある者は之を巧とし糞土の中よりうぢ蟲を掴み来るものはこれを拙としるのみ。終に一箇の新観念を提起するものなし

 冒頭の引用に続いて、子規はこのように語っている。「脱化・剽竊」を繰り返し、再生産に終始するようであれば、俳句そのもののが存在しなくなるというのである。

そこで「其実和歌も俳句も正に其死期に近づきつゝある者なり」ということになり、結論としては「概言すれば俳句は已に盡きたりと思ふなり。よし未だ盡きずとするも明治年間に盡きんこと期して待つべきなり。」ということになるのである。

 ここで子規が、明治の終わりを何年ごろと考えていたかは不明だが、結果的に子規の予言は当たらなかったといってよい。というよりも、子規の俳句の革新がそうした滅亡から俳句を救ったのである。

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昨年の暮、千葉県で行われた国民文化祭の俳句大会における入賞句が、他の句の暗合であるということで、某新聞に取り上げられるという事態となった。しかも、さらにその後欄外記事にも採録されるなど、どうもこのことに対する社会的関心の強さには驚くばかりである。それだけ俳句人口が増え、またそちこちで暗合の問題がとりざたされていたということなのであろう。 しかし、こうした暗合の問題は、今に始まったことではない。手元の資料を繰っただけでも、類似句の問題はいくらでも出てくる。

 滝の上に水あらはれて落ちにけり  夜半  坂の上に坂あらはれし年迎う    秋を

 わがいのち菊に向ひて静かなる  秋桜子  わがいのち菊に向かひて静かなる  一鳴

 木枯やある夜ひそかに松の雪    菊伍  五月雨やある夜ひそかに松の月   蓼太

 というようなわけで、世に知られた作家の句にも似た句はある。そこで、やはり俳句は短詩型であるから、暗合は避けられないという論になる訳であるが、しかしその前にもう少し類似の状況について考えてみよう。

 1もとの句をまったく知らない場合

 2もとの句について覚えてはいないが、潜在意識に残っている場合

 3もとの句を知っていて、読者も知っていることを前提にわざともじっている場合

 4もとの句を知っていて、読者は知らないだろうという予想のもとに活用する場合

 5もとの句を知っていて、表層の語彙を変え、その深層の構造を活用する場合

 例えばこのように分けてみよう。むろん盗作とは4のことであり、暗合は1、本歌取りは3ということになる。問題は2と4である。

 2については、本人にも自覚がないのであるから、始末に困る訳であるが、これは作者御自身によくよく内省して頂くしかない。

 4については少し問題がある。例えば 山鳩よみればまはりに雪がふる  窓秋

 という句がある。この句の韻律や響きが気にいったとき、この句から「□□□□よ□□ば□□□に□□が□る」という構造をもらうのである。そこに他の語彙を持ってくれば、「妹よ呼べば向こうに虹がある」などという句が、比較的安易に出来上がることになる。

 こうした類似については、盗作とも暗合とも言わないのが普通である。だが、これがはたして創造なのであろうか。さらに2と5が重なったケースについては、夥しい句が該当することになる。無意識なのであるから、作者に罪はなかろう。だが自分の言葉を見つめる目の甘さを指摘されれば反論の余地はあるいまい。今まで誰もそうは見なかったような見方で世界を切り取って見せるということだけが、俳人の手柄というべきものであろうから。

 こうした問題は、俳句らしい表現をしようとか、巧いと言われる句を作ろうという意識から引き起こされる。既製の表現に惹かれるのである。しかし、真に新しい創造を目指すならば、時に俳句らしくない俳句、下手と言われる俳句をも創らざるを得ないはずである。

 子規の明治二十年代の句は、当時の月並の宗匠達から見れば、いかにも下手な俳句であったに違いない。おそらく彼等は、子規の論述には恐れをなしながらも、次々に発表される工夫のない(ように見える)無意味な作品を前に、あきれてものも言えないという時期があったはずである。そこには、あるべき風情も風流も、趣向もなかったからである。

 だがそれらの句は、子規にとって下手な俳句ではなかった。当時の宗匠達の、いわゆる上手を避けたところにしか、子規の地平は開かれてはこなかったのである。

 だがしかし、昨今の俳句人口は多い。また毎月出版される句集の数にも夥しいものがある。現代には現代の俳句らしさというものが存在する以上、類句が出てくることもまた仕方のないことでもあろう。そこで最後に、三つの提案をして稿を綴じたいと思う。

 ひとつは、子規のように、新しい表現の可能性を広げていく創造的な試みを発展させなければならない、ということである。これについては今述べた通りである。自分の文体として確立されていく型をしっかりと見つめ、それを壊し、また作り上げていくことの繰り返しが、俳人の誠実というものであろう。

 二つ目は、既製の句を対するチェックできるシステムが必要だということである。

子規は明治二十二年に「俳句分類」の作業を始める。さまざまな俳書の句を分類し、膨大な記録を残した。子規の俳句革新の根底にはこの地道な作業が横たわっている。

 だが、現代はあまりに情報が多すぎる。子規の作業を個人が行える時代ではない。そこで、そのようなことが可能となる俳句データベースが構築されるべきだと考えるのである。

 このことについては、イギリスにおけるテキスト化運動が参考になろう。これは、文科系の文献をとりあえずテキストファイルとしてコンピュータに蓄えておこうとするもので、国家レベルの事業になっているという。

 現在の印刷原稿は、そのほとんどが一度はコンピュータ上を通過する。ということは、手続きさえ決めておけば、いつでもデータは入力できるということである。著作権をはじめ、利害に絡むさまざまな困難が予想されるが、一日も早く、そうしたデータベースの構築が望まれるのである。

 三点目は、再生産の価値について再考する必要があるということである。一部の選ばれた意識、創造的な才能ばかりに存在価値があるわけではない。存在価値というものはすべての人間に等しく与えられるものだ。社会的には言い古された表現であっても、その個人にとっては、新たに切り開いた表現の地平であるという場合もあるだろう。他者との比較ではなく、その個人個人の内面において、じっくりと醸成されていく言葉の水準というものも大切にしなければならない。そうしたもののために結社があり、句誌というものが存在するはずである。

 たしかに作品として世に問えば、既に先行した同様の表現がある場合もあり、暗合と呼ばれ、また盗作とさえいわれる場合もあるかもしれない。たしかにそれは創造ではなく、再生産なのである。

 そうした再生産性は、大衆文学、あるいは芸能の世界のものであり、近代文学の価値観の中では、創造的な芸術の下位に置かれるのが常であった。

 しかし今、そうした常識を再考しようとする論理が表れている。例えばSFなどのように、常に純文学の周辺に置かれてきたパラ文学を再評価しようという論理である。つまりそうした文学には、またリアリズムの純文学にはない別の存在価値があるはずだということなのである。 俳句は子規によってリアリズムを取り込み、そのことによって純文学の隣の席を保持してきた。しかしその下には広大な再生産の裾野が広がっている。

 従来は、その裾野のためにパラ文学とされ、批判されたことも多かった。しかしこれからは、むしろその裾野の広がりが俳句の存在価値を高めることになるだろう。新たな表現を作り出す頂点と、そこに向かって再生産を繰り返しながら表現の水準を高めていく意識群。そうした構図を持っていることが、俳句を、個人の時代の文学にふさわしいものとするだろう。その圧倒的な再生産性の力を、個人を開く力としていかなければなるまい。