シャボン玉
月曜日はまだ平気だ。火曜日は少し気にかかる。水曜日には必ずだめになって、木曜日は少し回復している。金曜日はなんとか保ち、土曜日か日曜日のどちらかで、夢を見るより求めてしまう。今週は土曜がその日だった。
換気扇の紐を引き、回転し始めた空気の下で煙草の先に火を点ける。最初の一吹きをため息と同じにしながら、足ふきマットに腰を落とした隣で、既に八嶋さんはあぐらをかいていた。
「おつかれさま」
「それ、よしてくれって、こないだ言いました」
疲れている。体が重い。どこかが痛い。頭も重い。どこかがわからない。それでも生きている。生きているから何かが溜まる。淀みのようなものを抱えるのは誰だって嫌なのだから、それを讃えるような言葉はかけられたくないと、先日説明したはずだった。水曜日か、この前の週末か忘れてしまったが。
いたわりの言葉に対する屈しきった屁理屈に、八嶋さんは軽く笑って応えた。どうでもいいらしい。体全体がうすら白く、向こうに食器棚を透かしているくらいだから、俺の無礼など細かいことなのかもしれない。
「いや、一段とつらそうに見えたから」
「まあ」
「それ一本終わったらベッドに行きな」
優しい形をした文章が、なるべく遠くへ流れるように、煙を細長く吹きかけた。最近煙草のタール数を落とした。今まで持っていた重さが少し辛くなったから。抵抗の少なくなった煙は呼吸を早めて、一本にかける時間も少なくなった。すりつぶして直ぐ、箱に手をかけると「おい」と声が聴こえると同時に右手が冷水にくぐらせたように冷たくなった。
「つめて」
「言うこと聞かないと祟っちまうぞ」
霊体ジョークは面白くないからやめてほしいと、これはまだ言えていない。ともあれ一息にかじかんだ手の震えでは、ライターを握ることもできそうにないので、仕方なく立ち上がりのろのろとベッドに向かった。
半分めくれた掛け布団の上に、倒れ込む。枕を引き寄せて顔を擦り付けるように頭を乗せると、遅れて寝室に入ってきた八嶋さんがベッドの端に腰掛けた。
「今夜の子守唄は」
「シャボン玉がいい」
「はいよ。シャボン玉とんだ、屋根までとんだ、屋根まで飛んで、壊れて」
八嶋さんは歌う。物理的な器官を持たない彼の歌は、隣の部屋の住人に迷惑ならない程度の音量で部屋に溶け広がる。ふと途切れた声に目を開けると、頭がベッドにつくほど体を屈めた八嶋さんがじっとこっちを見ていた。
「堂々くん、俺のこと好きなの」
「なんでですか」
「だって、屋根まで飛んで、壊れて消えたって、俺のことじゃん。それを歌ってって」
「全然まったく考えてなかったんでやめてもらえますか」
「無意識なの。本当に好きなんじゃないの」
面倒くさくなって顔をそむけた。八嶋さんのことはそもそもよく知らない。仕事の関係で一度だけ会ったことがあるとの談を疑いながら、名刺手帳をめくると、確かに八嶋九郎と書かれた名刺が入っていて、ようやくどうやら会ったらしいと得心した。その程度の接点だ。八嶋さんもよく覚えていたものだと感心する。
死後こうして関わっているのも偶然で、たまたま彼が飛び降り自殺に選んだ場所が俺の在住マンションだっただけのこと。その節は現場検証などで出入りのご迷惑となり大変申し訳ございませんでした。と、幽霊として初めて会った夜に言われたが、体と同じくらい薄っぺらな言い方だった。
枕に顔面を押し付けてしばらく、背中をそっと撫でる気配がした。実際触れられている訳でないので、なんとなくそんな気がするだけ。でもきっと、八嶋さんが俺の背を手のひらでなぞっている。そして俺は、悔しくも息を深く吐いて、全身の力を抜いてしまう。
「俺がいなくても、眠れるようになってきた?」
答えることができなかった。答えたくなかった。バツが悪くなる理由なんてないのに。
月曜はまだ平気だ。火曜は少し気にかかる。木曜日は少し回復していて、金曜日はなんとか保ち、土曜か日曜のどちらかは耐えられる。水曜日と、土日のどちらか、俺は八嶋さんが出てくるまで、眠れない。
前は、一週間のどの曜日もろくに寝付けなかった。昼間のあらゆることが頭の中でバラバラに飛び回って、休める時間になっても安心することができなかった。ひたすらに息を詰めて耐え続けるのが俺にとっての夜だった。
八嶋さんが自室に「出る」ようになり、一日、また一日、眠れる日が増えていった。俺が唯一ほどける方法、背中をなぞるやさしい手を、この人が持っているから。
それでも、もって三日。三日より多くあけることができずに、俺は八嶋さんに助けを求めている。出て来るというのは、そういうことだ。
「八嶋さん、明日俺、休みなんで」
「うん」
「もう、寝そうなんで、寝言だと思って」
「うん」
「いつもみたいに、聞き流してほしいんですけど」
「なに」
「成仏、しないで」
俺は八嶋さんのことをよく知らない。なぜ俺のところへ飽きずに来てくれるのか。なぜ俺の安らぐ方法を知っているのか。なぜ死んだのか。いつか聞いたことがある。教えてもらったような、気もする。だけど覚えていない。自分が抱える事情だけで脳は全部消費されて、優しい、優しいこの人のこと、何も覚えることができない。今夜の一言で、もし嫌気が差して離れていってしまったら、そう考えることすら、ひどく難しかった。
「地縛霊の執念ってね、消したくても消えないの」
まぶたの裏の暗闇がゆらいで、思考が拡散する。どうしようもなく安らいでいく。
「堂々くんが何言おうと関係ないよ」
だから、おやすみ。八嶋さんのおまじないを最後の後押しに、俺は意識をふっと沈めた。いつか。このさき。向こう側のことを想像する力は一つも残っていない。ただ今夜が、他人の手によって締めくくられたことで、幸福を感じてしまった。きっと、俺はいい死に方をしない。