美も才も
Aさんは私の知っている限り、いちばん美しい創作者だ。
高名な学者の方がおっしゃっていた「その人が美意識や芸術的感性が高いと、美人や整った容姿になりやすいです」
かくして、これほど美しくて、才能がキラキラしている芸術家が誕生する。
正直言って、前の晩はよく眠れなかった私である。せめて肌だけでも整えておこうと思い、早めに床についたのが仇になったようだ。ウトウトしたのが明け方で、すっかり寝坊してしまった。家中どたどたと、メイクだ、ピアスだと駆けまわる。
なんとか私もそれなりに頭をひねり、なんとか細くしようとウエストもひねったりしていると次第に約束の時間が近づく。胸が自分でもわかるほど、大きく音をたて始める。度胸だけはあると思っていたが、名をなす美人には別らしい。
覚悟をきめて、Aさんのご自宅へ向かう。Aさんは都内に古い家を買ったのだが、全面的に改装された。リビングに一歩足を踏み入れた私は、思わずうわあーっと声をあげた。その素敵なことといったらない。世界中でみつけた骨董品を見せるための、さながら小さな美術館のようなのだ。そこには、鍛え抜かれたセンスと広範囲にわたる好奇心がある。
しかし、この空間の魅力的なことといったらどうだろう。
「どうということもないものばかりよ」とAさんは力説するけれども、圧倒されるほど見せ方がうまい。白い壁に浮かび上がる照明の効果を、ちゃんと計算しているのだ。飾り方もセンスがいい。さすが創作する人間はどこか違うと私は感心してしまった。生活を楽しむことにかけても名人なのだ。
その日のAさんは流行を意識したまん丸眼鏡をかけているのだが、その美しいこと。肌なんか雪のようにさえざえと白く透きとおるようで、レンズごしの目は澄みきった冬空に光り輝く凍星のようであった。古着のTシャツにハイウエストデニムのカジュアルスタイル。こういう人は歩き方まで美しい。デニムの裾にあしらわれたスリットが、長い脚をすっすっと前に出すと東風で軽やかに揺らめく。
私は講師として少しでも知的に見せたい、品よく見せたいというイヤらしい心がいつも働いてしまう。だけどそういうことを全く考えない彼女って、本当に創作者にふさわしい自由な心を持っているのだろうと思う。
どぎまぎしながら美しい横顔を持つAさんを見つめる私に、“転機”について話してくれた。各界の一流の人々は、実にさまざまなことに出あって、それによって自分の人生を決めている。
彼女はやさしい口調ながらもまなざしは鋭く、男性的であった。近代的というとかなりやわな感じになるのであるが、とにかく知に充ちているのだ。
親切でやさしく、皆に好かれているというプロフィールはもちろん嘘ではあるまい。が、女性がひとり世の中に出て生きていくことのしんどさを、たんと味わった人であった。
人を恨んだり、憎んだりしたこともあっただろう。それを彼女はやがて「表現」というものに変えたのだ。その場で抗議したり、怒ったりするのは誰でもできる。しかし牙を密かにとぐように、体の中にさまざまなものを積もらせていく。しかも陰湿でなくやるというのは才能がいることだ。
Aさんはこの隠れ技の天才であった。まことに働く女性の手本である。それもフェミニストの権利を主張する女性、というものではない。
私は彼女に対して気が合うとか、親愛を寄せると気持ちではなく、それはまさしく“好き”なのである。彼女が動物を抱きかかえたり、植物を手にとったりする表情が私は大好きだ。子供が珍しいものを手にしたときと全く同じように、つっと背を伸ばし、唇をやや開く。
これほど純粋に好奇心をあらわに出す人を私は他に知らない。虫一匹にも彼女の目には通りすぎていかないはずだ。これが才能でなくてなんだろうか。こんなにみずみずしい感性をもつことがクリエイティビティでなくて何だろう。
正真正銘の美人のうえに、こういうふうに普通の人には手の届かない武器を目の当たりにしたら、本当に困ってしまうではないか。普通の女性は、いったいどうしたらいいのであろうか。
ほどほどに幸せだが、そう才能もなければ個性もない。このまま平凡な人生コースに突入するのかもしれない苛立ちは、多くの女性、いや多くの人間が抱える問題だ。
やはり並みじゃない女性は、並みじゃない人生をおくるものなのだと私は思い知ったのだ。
が、私は諦めません。でも頑張り過ぎません。
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