ショパン、ケルビーニからロッシーニへ渡り歩く
パリは「大志を抱く大量生産の工場」と嫌みで呼ばれ、「下手くそがこれほどまでに多い国
は他にない」とショパンの目には映っていた。
大都市、パリに来てもお金のないショパンは偉大な作曲家を目指すには余りにも自分が貧乏
すぎることを父ニコラに言えなかった。
父はニコラも経済的に苦しい中で家族全員で犠牲を払って息子ショパンに仕送りをしていた
のだ。ショパンは、エルスネル先生の期待に応えたいと思いながらも、偉大な作曲家になる
には時間もお金も足りないと感じていた。
そのため、オペラの作曲を先延ばしにし作曲家としてではなくパリの演奏家の宣伝塔のひと
りとしてとして世に出ざる得なくなってきていた。それはカルクブレンナーの安易な罠でも
あった。それをショパンはわかっていたため、パリで他の作曲家と知り合いになれないか考
えていた。
ショパンはパリ音楽院の現状を垣間見て、有名な音楽家の先生はどんな人物であろうか興
味があった。ショパンはお金がないこともあったがワルシャワ音楽院で勉強したことに不足
は感じていなかった。そのため、改めてパリの学校へ入りなおす必要もなかったショパンで
あったが、カルクブレンナーを不信に思うよになり他の高名な音楽家に会ってみようと
思った。
当時、パリ音楽院の教授だった音楽家の中に、アントニーン・レイハがいた。
レイハはその時、61歳であった。ショパンはレイハの評判を数人の弟子に訊ねてみた。
すると、その評判はショパンの期待外れであった、レイハの弟子が言うには
レイハは音楽を愛しているのは表向きだけで実は音楽を憎んでいるというのだ。
授業は全く不誠実で時計しか見ていない、音楽院の演奏会にも顔を出さない、などなど、こ
れはどう理解していいかショパンは困った。パリという自由な国の空気がそうさせるのか、
レイハだけが不誠実なのか、パリという所は教授が授業をしないのも自由なのか。
その他、有名なケルビーニが当時71歳で音楽院で作曲を教えていた。しかし、
ケルビーニの授業も惨憺たるもので、彼はコレラと革命の話をだらだらとするばかりで音楽
の内容は全くなにもないとのことだった。
ショパンはこのふたりのことを遠くから眺めて、「ひからびたでくのぼう」と思った。
もうひとり、フランソワ=ジョゼフ・フェティス、当時 47歳、音楽専門雑誌「ルヴュ・ミ
ュジカル」を発刊した作曲家、彼にもショパンは会いに行った。作曲家としてはショパンは彼からたくさん学ぶことがありそうだと感じた。
しかし、フェティスはパリの郊外に住んでいるので滅多に会えない、しかも、その理由は、
借金の負債から逃れるためだと言う。パリでは債務者を逮捕できるのは居住地だけなため、
フェティスは法律の手の届かない郊外に逃げているというのだ。
ショパンはカルクブレンナーを辞めたくて師を探してみたが、音楽院にも尊敬に値する師は
いなかったショパンであった。
それで、ショパンは結局オペラを諦めきれず、アカデミーのイタリアオペラやフェド街のオペラを観に行っていた。
そこでショパンが見たのは、ロッシーニが自分のオペラを指揮する姿だった。
ヨーロッパで一番お金が掛かる最高の舞台演出をしていのだった。勿論、観客は社交界のお
金持ちであった。
ショパンは本場の歌と最高の舞台演出に感動しながらも、またもオペラにお金を使っ
てしまうのであった。
パリでお金も居場所もないショパンだった。
ルイージ・ケルビーニ(1760年9月14日フィレンツェ - 1842年3月15日パリ)
イタリア出身 作曲家・音楽教師。本名はマリア・ルイージ・カルロ・ゼノービオ・サルヴァトーレ・ケルビーニ
ルイ16世の処刑を悼んで作曲された「レクイエム ハ短調」(1816年)ベートーヴェン、シューマン、ブラームスに絶賛される。ケルビーニはハイドン、モーツァルトの支持者であった。1835年に高弟ジャック・アレヴィの補佐で『対位法とフーガ講座』を出版
アントニーン・レイハ(1770年2月26日 - 1836年5月28日)チェコ出身の作曲家 音楽理論家1770年プラハ生まれ。
10歳の時、孤児になったレイハは、ニュルンベルク近郊に住むドイツのチェロ奏者で作曲家の叔父ヨーゼフ・ライヒャに引き取られた。
ピアノ曲の代表作は,「ピアノのためのフーガ作品36」全36曲、「変奏の技法作品57」は、
1時間10分余りの演奏時間を要しピアニストから「演奏不可能な曲」と言われた。ベートーヴェンと友人でもあった。