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在る

2025.02.23 13:31

Facebook相田 公弘さん投稿記事  □「あずさからのメッセージ」

※致知2013年2月号 致知随想より 是松いづみさん(福岡市立百道浜小学校特別支援学級教諭)

十数年前、障がいのある子がいじめに遭い、多数の子から殴ったり蹴られたりして亡くなるという痛ましい事件が起きました。

それを知った時、私は障がい児を持った親として、また一人の教員として伝えていかなくては

ならないことがあると強く感じました。そして平成十四年に、担任する小学五年生の学級で

初めて行ったのが「あずさからのメッセージ」という授業です。

梓は私の第三子でダウン症児として生まれました。梓が大きくなっていくまでの過程を

子供たちへの質問も交えながら話していったところ、ぜひ自分たちにも見せてほしいと

保護者から授業参観の要望がありました。

以降、他の学級や学校などにもどんどん広まっていき、現在までに福岡市内六十校以上で

出前授業や講演会をする機会をいただきました。

梓が生まれたのは平成八年のことです。私たち夫婦はもともと障がい児施設でボランティアをしていたことから、我が子がダウン症であるという現実も割に早く受け止めることができました。迷ったのは上の二人の子たちにどう知らせるかということです。

私は梓と息子、娘と四人でお風呂に入りながら「梓はダウン症で、これから先もずっと自分の名前も書けないかもしれない」と伝えました。

息子は黙って梓の顔を見つめていましたが、しばらくしてこんなことを言いました。

さあ、なんと言ったでしょう?という私の質問に、子供たちは

「僕が代わりに書いてあげる」「私が教えてあげるから大丈夫」と口々に答えます。

この問いかけによって、一人ひとりの持つ優しさがグッと引き出されるように感じます。

実際に息子が言ったのは次の言葉でした。

「こんなに可愛いっちゃもん。いてくれるだけでいいやん。なんもできんでいい」。

この言葉を紹介した瞬間、子供たちの障がいに対する認識が少し変化するように思います。

自分が何かをしてあげなくちゃ、と考えていたのが、いやここにいてくれるだけでいいのだと

価値観が揺さぶられるのでしょう。

さて次は上の娘の話です。彼女が「将来はたくさんの子供が欲しい。もしかすると私も障がいのある子を産むかもしれないね」と言ってきたことがありました。私は「もしそうだとしたらどうする?」と尋ねました。ここで再び子供たちに質問です。さて娘はなんと答えたでしょう?「どうしよう……私に育てられるかなぁ。お母さん助けてね」。子供たちの不安はどれも深刻です。しかし当の娘が言ったのは思いも掛けない言葉でした。

「そうだとしたら面白いね。だっていろいろな子がいたほうが楽しいから」。子供たちは一瞬「えっ?」と息を呑むような表情を見せます。

そうか、障がい児って面白いんだ――。いままでマイナスにばかり捉えていたものをプラスの存在として見られるようになるのです。

逆に私自身が子供たちから教わることもたくさんあります。

授業の中で、梓が成長していくことに伴う「親としての喜びと不安」にはどんなものがあるかを挙げてもらうくだりがあります。

黒板を上下半分に分けて横線を引き、上半分に喜びを、下半分に不安に思われることを書き出していきます。

中学生になれば勉強が分からなくなって困るのではないか。やんちゃな子たちからいじめられるのではないか……。

将来に対する不安が次々と挙げられる中、こんなことを口にした子がいました。

「先生、真ん中の線はいらないんじゃない?」。

理由を尋ねると「だって勉強が分からなくても周りの人に教えてもらい、分かるようになればそれが喜びになる。

意地悪をされても、その人の優しい面に触れれば喜びに変わるから」。これまで二つの感情を分けて考えていたことは果たしてよかったのだろうかと自分自身の教育観を大きく揺さぶられた出来事でした。

子供たちのほうでも授業を通して、それぞれに何かを感じてくれているようです。

「もし将来僕に障がいのある子が生まれたら、きょうの授業を思い出してしっかり育てていきます」と言った子。「町で障がいのある人に出会ったら自分にできることはないか考えてみたい」と言う子。「私の妹は実は障がい児学級に通っています。凄くわがままな妹で、喧嘩ばかりしていました。でもきょう家に帰ったら一緒に遊ぼうと思います」と打ち明けてくれた子。

その日の晩、ご家族の方から学校へ電話がありました。

「“お母さん、なんでこの子を産んだの?”と私はいつも責められてばかりでした。でもきょう、“梓ちゃんの授業を聞いて気持ちが変わったけん、ちょっとは優しくできるかもしれんよ”と、あの子が言ってくれたんです……」。

涙ながらに話してくださるお母さんの声を聞きながら私も思わず胸がいっぱいになりました。

授業の最後に、私は決まって次の自作の詩を朗読します。

「あなたの息子は あなたの娘は、あなたの子どもになりたくて生まれてきました。

生意気な僕をしっかり叱ってくれるから 無視した私を諭してくれるから 泣いている僕を

じっと待っていてくれるから 怒っている私の話を 最後まで聞いてくれるから 失敗したって 平気、平気と笑ってくれるから そして一緒に泣いてくれるから 一緒に笑ってくれるから おかあさん ぼくのおかあさんになる準備をしてくれていたんだね 私のおかあさんになることがきまっていたんだね だから、ぼくは、私は、あなたの子どもになりたくて生まれてきました。」

上の娘から夫との馴初めを尋ねられ、お互いに学生時代、障がい児施設でボランティアをしていたからと答えたところ「あぁ、お母さんはずっと梓のお母さんになる準備をしていたんだね」と言ってくれたことがきっかけで生まれた詩でした。

昨年より私は特別支援学級の担任となりましたが、梓を育ててくる中で得た多くの学びが、

いままさにここで生かされているように思います。

「お母さん、準備をしていたんだね」という娘の言葉が、より深く私の心に響いてきます。


Facebook 津留晃一の世界投稿記事 在る

「働かざるもの食うべからず」という価値観があります。「何もしない人間には価値がない」という考え方です。「その通りだ」と思われる方が多いことでしょう。

「人の役に立たなかったら生きている価値がない」という考え方が現代の道徳律の骨格にあるようです。

しかしこの考え方の裏側の作用として、役に立たない人間を裁いてしまうという結果を生みだしていることも事実です。

「今、自分は充分に人の役には立っていないのではないか」とその裏面に意識が向いたとき、

「このままではいけない」という思いがわいてきます。

「自分にはもっと人のために何か出来るのではないか」と思考がまわり始める事でしょう。

そして、そんな風に考えている自分をなんだか嬉しく感じていることに気付いて下さい。

これは思考を使って自己を満たしている想念作業なのです。

自我はこれで満たされるわけです。三次元の人間意識の中にある人は、こうして自己を満たすという思考ゲームを続けています。これが地球人類のこれまでのゲームでした。

特定の価値観を握ると、そこに満たされた思いと、満たされなかった思いの二極を体験することが出来ます。満たされなかった思いを満たしてやるというゲームです。

全ての価値観に表と裏という二面性があるのだということを知って下さい。

どんな考え方であれ、それを受け入れると、そこから二極の世界へ入っていくのです。

もちろん二極性の世界が悪いと言っているわけではありません。

二極的思考になれきっている我々は、「これこれはこうです」という話を納得すると、その瞬間からそうでないものを間違っている、正しくない、異質のものとして認識し始めます。

ニュートラルな世界へ入っていくためには、数学でいう「逆は必ずしも真ならず」という発想方法を身につけて下さい。その反対は間違ったものでも、正しいものでもありません。

ただそうであるだけです。「あの人はこんなことを言っていたからおかしい」という考えが浮かんだ瞬間に「あ、これは二極思考だ」と気付いていて下さい。

あなたの正しさに反するものが、間違っているというわけではないのです。

であるならば「人の役に立っていない」という状態も別に問題ではありません。

「人の価値はその存在にある」と伝えられました。

これまで人類はこの存在の価値をあまり認めようとはしませんでした。

それは存在を当たり前と受け止め続けてきたからです。

あって当たり前と思えるものに価値を見いだせなかったのは、当然といえば当然でしょう。

健康な人が健康であることに喜びを発見できないのと同じです。

病気の人が健康にフォーカスし始めると、健康であること事態に喜びを見い出すようになるように、我々は単に「在ること」事態にフォーカスし始めると、ただ「在ること」に至福を体験できるようになります。

そしてこの「在ること」に意識を向け続けると、その悦びの大きさに、人はだんだん圧倒されてくるようになってきます。

あまりに偉大すぎるその「存在」に強烈なエクスタシーを体験することでしょう。

自分が存在することの至福を体験し始めた人は、これまで自分の抱いていた「無価値感」という概念がいつの間にか消滅してしまっていることに気付くでしょう。

「自分はもっと人の役に立つべきだ」とお思っている方は、何か行動を始める前に、役に立ちたいという思いはどこからやって来ているのか、その源に意識を向けてみて下さい。

「この思いはいったいどこからやって来るのか」と内側に問いかけてみて下さい。

この尊い考え方も、ひょっとして、エゴの欲望を満たそうとする、自己満足的活動で

あったかもしれないと・・・。自我が「良いこと」と判断して取る行動は、あくまでも純粋動機に基づく行動ではありません。

全ての「良い」、「悪い」の価値観を手放して委ねていると、あなたの肉体を通して

存在の源から純粋な動機がわき上がってきます。

あなたの価値判断を使うことなくそれはやって来ます。それが「大いなる一つ」の活動欲求です。その「大いなる一つ」の欲求に従って行動していくとき、あなたは世界一役立つ人間そのものになっていることでしょう。

そんな人が「何かしないといけない」と、不安を感じることはありません。そんな人は、たとえ今何もしていなくても「このままではいけない」というエゴの脅迫にたじろぐこともありません。存在の至福を理解できる人であるからです。

そして自我を超越し、ハイヤーセルフに委ねて生活している人が、忙しさを体験することもありません。全ては完全なゆとりの中で、穏やかな環境の中で生活が出来るようになってきます。もしあなたが忙しいと感じているとしたら、それは時間を焦っているということです。

もう一度全てを手放し委ねきりましょう。あなたは存在している事に価値があります。

あなた一人がもし欠けたとしたら、この宇宙はその瞬間消滅すると伝えられました。

あなたの存在がこの宇宙を支えています。たとえそれが寝たきりの障害者であったとしてもです。あなたはそんなかけがえのない一人です。何かすることがあなたの役割ということでは

ありません。寝たきりの人は寝たきりでいる事がその人の役割です。

看病をしたいというその人のために自らその身を横たえ奉仕しているわけです。

地球を救いたいと活動している方はそれが役割です。そんな方々に奉仕するため、地球は病んだふりをして人に奉仕される事を許しています。感ずるままに地球救済活動をなさって下さい。私は地球人類を五次元世界へ誘うのだと、途方もなく楽しいゲームに夢中です。

感じるままにこのゲームを堪能しています。「自分は果たして役に立っているのだろうか」

という疑問を持つこともありません。そんなことは5%しか機能していない脳で考えても

解りっこないと悟っているからです。人の思考は全て表面意識に属しています。

表面意識は自我の領域です。すなわち自分の思考とは、全て自我の思考であるわけです。

真に人の役に立ちたいのであれば、もう自分の思考を使わないことです。

この時あなたは超人となります。どうぞ自分の存在について意識を向けてみて下さい。

積極的に、そのことに時間を割いて下さい。

「何をすべきか」と問いかける前に・・・。存在とは何であるのか、自分とは何であるのか、

人間とは何であるのか、生きるとはどういうことなのか、そしてあなたの頭で絶対に考えないで下さい。答えを頭で探さないで下さい。答えは単なる結果です。

答えが来ると人は満足を覚えますが、そうするともう問いかけることを止めてしまいます。

答えを求めるという活動を通して人は神へと帰っていきます。

答えそのものに意味があるわけではありません。答えとは三次元的結果にすぎません。

 問いかけて、 問いかけて、  問いかけて、  問いかけて、  問いかけます。

それこそが積極的覚醒行為であるからです。

問いかけるというあなたの積極的なエネルギー操作によって、あなたは一歩一歩ハイヤーセルフに接近していきます。しかし私がこの事をどんなに強調してみたところで、あなたは決してこのことを実行しようとはしないでしょう。

そのことにそれほど必要性を感じないからです。そこであなたのハイヤーセルフは考えます。

あなたの最も強く望んでいるものがうまくいかないという結果を創ってみます。

これはうまくいきます。必ず「あれ、どうしたのだろう。どうしてこんなことになってしまったのだろう?」と、自然に意識が内側へ向いてきます。

これこそが純粋な内側への問いかけ作業です。それがあなたの葛藤です。葛藤があなたの意識を高めることになるゆえんです。あなたは「存在」です。あなたの為す行為によって産み出される付加価値は、あなたの存在に付け足されたほんの些細な価値にすぎません。

あなたの存在の価値の大きさをたとえていうなら、それは地球大かもしれません。

もしあなたの存在価値が地球の大きさだと仮定してみるならば、あなたが生涯頑張って築き上げた功績という付加価値の大きさは、ちょうどあなたの住んでいる家一軒分にすぎないでしょう。「何かすべきだ」と思うその前に、あなたがするべき事があります。

それはあなたの内に初めから眠っている自分の存在価値に目覚める事です。

とても簡単なことです。それは初めからあるのですから。ただ「何かしなければ価値がない」と信じている人に、この内なる存在価値は発見できないでしょう。

ないと思っているモノは見えないからです。それはあります。間違いなくあります。

あなたがこれまで永い永い間、外に向けていたあなたの意識を、内側に向けることによって

それは簡単に見えてきます。

初めからあった自分の膨大な存在価値の大きさに、あなたは目が眩んでしまうかもしれません