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北条氏規

2025.01.08 15:00

ほうじょう うじのり

相模北条家一門。

北条氏康の四男。


北条家と今川家と武田家が同盟を結んだ甲相駿三国同盟で、今川氏真と婚約した早川殿がまだ幼かったので、代わりに人質として今川家へ出されたのが氏規だった。

このとき、同じ境遇だった徳川家康とは家が隣同士だったといい、親交を深めたという。


今川義元の没後、北条家へ戻った。

相模の三浦半島を領し、北条家の水軍を指揮して主に里見家と戦った。

また北条家と武田家の同盟が手切れとなると、氏規は伊豆韮山へ移り武田家との戦いに従軍している。

武田家が滅亡すると、駿河を領した徳川家と争うようになる。

だがこの抗争は織田家の仲介で和睦することになり、氏規が外交役として徳川家に赴き家康と再会した。


やがて織田信長は本能寺で横死し、豊臣秀吉が台頭する。

北条家は関白となった秀吉から、再三に渡る上洛要請を受けるようになった。

そうして当主の北条氏政に代わり、氏規が名代として上洛する。

北条氏政は所領安堵が保障されるまで、臣従しない思惑であったとされる。

しかし諸大名を従える豊臣政権を目の当たりにした氏規としては、一刻も早く臣従を果たすべきと感じたという。


それでも北条氏政は容易に首を縦に振らなかった。

上野沼田領の裁定には応じたものの、臣従に関しては良い条件を得る為に引き延ばした。

そうしているうちに惣無事令に反する事件が起きる。

誠意のない弁明に秀吉は激怒し、結局は小田原征伐を招くことになった。


氏規は伊豆韮山城に籠城して豊臣勢を迎え撃った。

韮山城は包囲されたが、数ヶ月におよぶ籠城を続けた。

しかし最終的には旧知の家康から

「他の城はほとんどが落城した」

「貴殿もここで抗戦するより、小田原の宗家を救うべき」

との説得を受け開城した。


だが結局は氏規の尽力むなしく、北条家は滅亡した。

氏規は兄の氏政と氏照の介錯を務めたあと、自害しようとしたが井伊直政に取り押さえられたという逸話がある。


その後、氏規は当主の北条氏直に従って高野山に入った。

のち秀吉に赦され、河内狭山に所領を得る。

肥前名護屋城にも在陣している。

肥前名護屋城陣営

北条氏規は北側(城右下)近く



なお、北条氏直も許されて大名に復帰しているが、まもなく病没している。

氏直には男児がいなかったので、氏規の子である氏盛が養子となっていた。

氏盛が北条家を継ぎ、北条家は河内狭山藩として明治まで存続した。