「自立」の対義語とは?
こんばんは。
雪と青空のコラボレーションは、雪国に住んでる得さTOP3に入るぐらいステキな景色だと感じている阿賀町公営塾 黎明学舎です。
自立するということ
僕は阿賀町出身でもなければ、新潟県に何の関わりもなくこの町に身を置きました。
もうすぐ3年目。
するとどうでしょう?
僕の人生にとって阿賀町という町は外せないぐらいの存在になってきました。
これはこの町自体がどうこうではなく、この町の人たちとの関わりが濃くなるにつれてこの町を想う気持ちも濃くなってきたということなのかなと感じます。
これは今の地方の高校生にも転用できるのではないでしょうか。
自然がもうビビるぐらいに壮大で、美味しいものがそこら中にある町だけれど、町民との関わりがない、友達がいない町だったら、たぶん「愛」や「情」というものは生まれず、ただの「お盆と正月に帰る場所」になり下がるのではないでしょうか。
実際、今応援してくれている卒業生や出身者との関係性を思い返すと、「阿賀町のために!」というより「あの子の役に立つなら!」「黎明学舎のみなさんのお願いなら!」「黎明高校の後輩たちのためなら!」というように、具体的にも抽象的にも必ず「ヒト」が理由になっていました。
僕も同じです。
阿賀町のために、なんて大それた事を言うと何が出来るか?で迷走して結局何もせず、何の感情も湧かないけれど「あの人のために」という個人にフォーカスすると、具体的な行動となり接点が生まれ感情が伴う。
そんな感じで、僕は本気で阿賀町の自立にどう貢献出来るかを仕事で実現しようと奮闘しています。
けれど、、、
本当の意味での地方創生とは、その地域の人たちの意識や行動を幹にして、ソト者が枝葉を付けていく、そんな順番だと思うんです。
例えば、最初から周囲の自治体でよく聞くクラウドファウンデングで不特定多数の人に呼びかけることありきで考えるのではなく、まずは地元の人で自立運営する方法を考える、そんな順番です。
でないと、外の資金や労働力でうまくいくという事例に慣れてしまうと、もう地元の問題がジブンゴトにならない。この感覚は国からの補助金の他人事感と同じ感覚かもしれません。
「あ、私がやらなくても外の人たちのチカラを借りたら出来るじゃない」
これは違うと思います。
「自立」することとは、必ずどこかで誰かに頼っているだろうし、依存しているだろう。そうやって誰しもが生きていると思う。
けれど、頼りきったり、依存し続けることとは違う。
自分でやれることはちゃんとやってから、誰かに頼り依存する順番じゃないだろうか。
これは仕事だけでなく、恋人や夫婦、友人関係でも当てはまるのかもしれませんね。
つまり、こういうことだと思います。
「自立」の対義語は「依存」ではなく「甘え」である!
と。
偉そうにすいませんでした。
PS 今日も生徒たちは自立し、一生懸命勉強しています。
challenge change chance