「彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する」のような大それたものではありませんが、
今日はリリースメントの後、マラソンをした後のようにへとへとにつかれました。
「彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する」
のような大それたものではありませんが、
霊にのしかかられて苦しんでいる患者さんと対した診療の後、 自分が疲労困憊していると、
何らかのエネルギーの行き来が起こっていたのかな、とすこしうれしくなります。
でも、それもその日のうちにいつも癒され補充されるのです。
ひとつは、アイスクリームでやわらぎます(これを毎日の習慣にするのは体にはよくないかも)、
ミカンや少量の黒酢の水割りも和らげてくれますし、
天然塩を舐めるのも即効性があります。
お風呂やシャワーで流すのも楽になります。
でも、その憑りつかれた重さから、すっかり解放してくれるのは、
多くは夜の祈りで、今日は夜に教会の祈祷会がありましたので、祈祷会で。
今日は、浄霊の3人目4人目の方の時に、光が見え、天界の喜びがうちに湧いてくるのを覚えました。 ご本人は夕べ、祈っても応えられなくて、わーってなってと仰ってましたが、
これはその方の祈った祈りが、今日こうして叶えられたのだと示されました。
まことに、あなたがたにもう一度、告げます。
もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、
天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。
浄霊は、加持祈祷のひとつでもあり、祈りなのだ、と教えられました。
この祈りと惑わしが繰り返されていきながら
(かならず神が勝ちます。悪魔も神の子ですから、
父なる神は、聖も悪も包み込んで平和と安らぎを実現されます)、
一歩一歩罪の縄目からの解き放ちに向かって進んでいくのでしょう。
今日のもう一つの発見は、浄霊される魂の性質によっては詩編の23篇が有効だということでした。
これまではいつも“主の祈り”を唱えていました。
―詩篇 第 23 編― ダビデの詩
主はわが牧者なり、われ乏(とも)しきことあらじ。
主は我をみどりの野にふさせ、いこひの水濱(みぎわ)にともなひたまう。
主はわが霊魂(たましい)をいかし、
名みなのゆゑをもて我をたゞしき路(みち)にみちびき給ふ。
たといわれ死のかげの谷をあゆむとも禍害(わざわい)をおそれじ、
なんぢ我とともに在せばなり。
なんぢの笞(しもと)、なんぢの杖われを慰む。
なんぢわが仇のまへに我がために筵(えん)をまうけ、
わが首(かうべ)にあぶらをそゝぎたまふ。
わが酒杯(さかづき)はあふるゝなり。
わが世にあらん限りは
かならず恩恵(めぐみ)と憐憫(あはれみ)われにそひきたらん。
我はとこしえに主の宮にすまん。
今晩の祈祷会で言われました。
「今日、イエス様がこの言葉をあなたに仰っています。
“私に来る者を私は決して棄てません。”」
どこにも寄る辺がなくて、僅かな希望によりすがっていく私たちに、
直接、イエス様が仰ってくださったのだとこの言葉が強く迫ってきました。
おやすみなさい。