心の欲する所に従って矩を踰えず(從心所欲)
今から2500年前、紀元前552年頃に生きた孔子が遺した一節に「從心所欲」という言葉がある。
(人は元来自由な存在であり)心のままに生きても矩からは逸れることはないという。
今日はそのことについて考えてみたい。
まず、矩とは道理のことを指す。
この道理というものは、世界に三つの種類が存在する。
宇宙の法則としての道理、人間が社会を営む上で定めたルールとしての道理、そして、個々人が自分で持っている実存として道理である。
欲望のままに生き、なおもこれらの道理から外れることがないとはどういった生き方を言うのだろうか。
人間には様々な欲望がある。
生命維持と生殖に関わる欲や社会生活上で生じる欲。これらの欲を無制限に求めた場合、人間は道理を越えてしまうのだろうか。
道理の一つ、宇宙の法則というものを一茎の葦である人間が越えることはない。
人間が何をしようがその道理の内にある。
二つ目の道理である社会の法やルールについてはどうであろうか。
人間が定めたルールを、人間が破ることは容易(たやす)いことであるように思える。
それでも孔子は「矩を踰えない」生き方がある、と言っている。
これを理解するには、三つ目の道理である「私」としての欲が鍵となる。
こんにち我々が日常で抱く欲望というのは、我々が「私個人」として心から望むことではないことが多い。
対象からの刺激や外界から与えられた情報に基づいて欲望しているからだ。
およそ10万年前に人類が意識を持って暮らしていたとき、その人間はおそらく毎日笑って過ごしたいと思っていただろう。(死者の埋葬の仕方や貝塚跡などから判断できるが本質ではないので詳しくは述べない)
そしてこんにちの我々も、人間が本質に抱く欲望というレベルでは10万年の人類とそれほど大差はないのである。
それが、たった数十年生きて得た情報や、たまたま現代に生きた経験で、今という時代の欲望にかられ、今を不安に過ごしたり、自身の本質とは関係ない欲望を抱き、道理から遠く外れてしまう。
人間は本来どんな生き方をしても良いので、道理から外れても悪いことはないが、そんな生き方は生きづらく、もったいないとも思う。
先人が定めたルールを破れば、それなりのペナルティーも負う。
抱いている欲望は本当に自身から生まれた欲望なのか。
己の本当の欲望を自覚することで、人は己の道理を知ることができる。
自己の道理を人間の道理、そして世界の道理に重ねたとき、人は「從心所欲」として生きることが可能になる。
そしてその先に自己はいないと気づくのだが、その話はまた後日にしたい。