羽柴秀吉
はしば ひでよし
1573年、織田家は浅井家を滅ぼすと、秀吉はその功績によって近江長浜の城主となった。
その頃に名を木下から「羽柴」へと改名する。
同じ織田家の重臣である丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつ拝領した。
長篠の戦いにも参陣する。
長篠の戦い
羽柴秀吉は先陣左翼
将軍の足利義昭が京を追放されると、義昭は毛利家へ亡命する。
これによって、織田家と毛利家は全面戦争に入った。
秀吉は中国地方を征伐する総大将に抜擢され、播磨に出陣する。
播磨は赤松家、別所家、小寺家などの国人衆がすでに織田家に臣従していた。
秀吉は小寺家に仕える黒田官兵衛の居城・姫路城を献上され、ここを拠城とする。
そして播磨の残る敵対勢力を服属、または駆逐し播磨を平定した。
西播磨の上月城には尼子勝久と山中鹿介を城代に命じ守らせる。
また弟の羽柴秀長を但馬へと侵攻させた。
毛利家の反撃が開始されると、上月城は毛利・宇喜多勢の大軍に包囲される。
秀吉は上月城の救援に向かったが、ここで別所長治が反旗を翻し三木城に籠城した。
本国からは織田信忠を総大将とする援軍が播磨に来ていたものの、信長は三木城の攻略を優先させる。
こうして上月城は見捨てられ、城は降伏し尼子勝久は自害、山中鹿介は謀殺されている。
一方で秀吉は三木城を包囲し、2年をかけて干し殺した。
この間にも摂津の荒木村重が反旗を翻し有岡城に籠城、村重は敗れて毛利家へ亡命する。
また御着城の小寺政職も反旗を翻し、敗れて毛利家の足利義昭のもとへ逃亡する。
宇喜多直家は秀吉の調略により毛利家と決別し、織田家の傘下に降り臣従した。
このころ石山本願寺が講和に応じ、10年に渡る石山合戦が終結する。
秀吉も播磨を再び平定し、羽柴秀長も但馬を平定した。
続いて美作の侵攻を開始し、また因幡の鳥取城を攻め始める。
因幡の山名豊国は降伏しようとしたが、家臣らがそれに反対した。
山名豊国は追放され、毛利家の吉川経家が城主として入り籠城する。
しかし秀吉は事前に因幡、および鳥取城内の兵糧も高値で買い占めていた。
また近隣の住民らを城内に追いやるなど徹底し、鳥取城は飢えに苦しむことになる。
こうして半年で鳥取城を飢え殺した。
秀吉は次に伯耆へ進軍したが、吉川元春が背水の陣で立ちはだかった。
ここでは決戦を避け、秀吉は撤退している。
一方で備前の宇喜多家は毛利家に攻められ、大敗していた。
秀吉は宇喜多家への救援に向かい、備中高松城を水攻めで包囲する。
毛利本陣の軍勢が高松城の救援に襲来する報せを聞くと、秀吉は決戦を決意。
中国攻めの総仕上げとして、信長に出陣を要請した。
毛利勢は高松城を前に、羽柴勢と対陣におよぶ。
秀吉は信長の援軍を待ちながらも、一方で毛利家に領土割譲を迫る和睦の交渉を始めていた。
しかしこのとき秀吉のもとに突如、明智光秀の謀反によって信長が本能寺で横死したという知らせが届く。
秀吉は信長の死を秘して毛利家との和睦をまとめ、急いで撤退を開始した。
秀吉が信長の横死を知ってから京へと帰還し、山崎の戦いで明智光秀を破るまでわずか10日で成し遂げている。
本能寺の変が起こったのが6月2日。
6月3日
羽柴秀吉は翌日の夜に、本能寺の変を知ったとされる。
秀吉は急ぎ毛利家との和睦交渉を再開した。
一方で明智光秀は、与力大名の細川藤孝や筒井順慶らに協力を求める書状を送りつつ、織田領の近江を平定すべく兵を出陣させていた。
6月4日
秀吉は朝に毛利家との和睦をまとめ、高松城主の清水宗治は切腹した。
午後から水攻めの堤防を破壊し、撤退開始の準備を始める。
一説では秀吉自身は先発隊としてこの日に撤退を開始したとされる。
一方、光秀は自ら近江に出陣していた。
6月5日
この日は毛利勢の動向を見守る為、羽柴勢はまだ高松城に留まっていた。
このとき秀吉の元には、中川清秀からも本能寺の変を報せる密書が届いている。
秀吉は
「上様(信長)も殿様(信忠)も難を逃れ生きていると聞いた、自分もすぐに京へ戻る」
という嘘の内容で安心させようとする返書を送っている。
一方で光秀は安土城を落とし、家臣に財宝を分配していた。
6月6日
秀吉は全軍の撤退を開始し、この日の内に備前の沼城まで到着している。
光秀は長浜城や佐和山城などの主要な城をおさえ、近江をほぼ平定した。
日野城の蒲生氏郷だけが残り籠城している。
6月7日
秀吉は姫路城に到着した。
光秀は安土城で、朝廷から祝賀の使者に対応している。
なお毛利家が本能寺の変を知ったのは、秀吉が撤退した翌日とされる。
吉川元春は追撃を主張したが、小早川隆景と安国寺恵瓊が反対した。
6月8日
羽柴勢は強行軍だった為、この日は1日兵を休ませている。
また秀吉は城内の金銀糧米をすべて蔵から出し家臣に分配した。
光秀は坂本城に帰城する。
光秀はこのとき羽柴勢が京へ戻って来るとの報せを知ったとされる。
6月9日
秀吉は朝に姫路城を出発し、この日は明石まで到着する。
光秀は上洛して朝廷に参内し献金するなど、新たな統治者として振舞った。
また細川藤孝に味方に付くよう再び書状を送っている。
筒井順慶が光秀の誘いに応じず、大和郡山城に籠城した。
6月10日
秀吉は兵庫に到着する。
光秀は筒井順慶の参陣を促すため、洞ヶ峠に出陣した。
6月11日
秀吉は尼崎城に到着する。
秀吉が帰還したことで、他の諸将も秀吉のもとへ急いだ。
光秀は筒井順慶に使者を送るも、順慶は動じずやむなく撤退する。
6月12日
秀吉のもとに諸将が終結し、富田に着陣する。
軍議を開き、秀吉が全軍の指揮をとるよう推薦された。
(名目上の総大将は織田信孝)
光秀は山崎に布陣し羽柴勢を待ち構える。
6月13日
山崎の戦い
羽柴勢4万に対し、明智勢1万6千だったと伝わる。
明智光秀は細川藤孝や筒井順慶らの協力を得られず劣勢となった。
中国から大軍を率いて帰還した羽柴秀吉の元に諸将は集結し、光秀は惨敗した。
尾張清須城で織田家の重臣が集まり、織田家の後継者と遺領配分を決める会議が開かれる。
この清須会議は秀吉と柴田勝家の派閥争いでもあった。
会議に参加したのは秀吉、池田恒興、丹羽長秀、柴田勝家の4人。
重臣のひとりで柴田派でもあった滝川一益は、関東からの撤退で間に合わなかった。
明智光秀を破り信長の仇を討った秀吉は、終始会議の主導権を握る。
柴田勝家は信長の三男・織田信孝を織田家の後継者に推したが、秀吉は織田信忠の遺児・三法師を後継者に指名した。
池田恒興と丹羽長秀も秀吉を支持したので、幼い三法師が後継者となり秀吉はその後見人となった。
秀吉は信長の葬儀を自身が執り行い、また織田家の当主を織田信雄に変える画策をするなど専横を始めた。
柴田勝家の対立はますます顕著となり、やがて両陣営は対決に至る。
秀吉方には丹羽長秀、池田恒興、織田信雄が与する。
柴田勝家方には滝川一益、織田信孝が与し、紀伊の雑賀衆とも手を結んだ。
秀吉は賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り、勝家は越前北ノ庄で自害する。
滝川一益は降伏し、織田信孝も自害させられた。
対立勢力を討ち果たした秀吉の権勢は増し専横を極める。
織田家の正式な当主は織田信雄であったが、もはや事実上の支配者は秀吉であった。
快く思わない織田信雄は秀吉との手切れを決意し、徳川家康と手を結んで秀吉に対抗する。
こうして小牧・長久手の戦いが始まった。
羽柴軍と織田・徳川連合軍は小牧で長期に渡る対陣におよんだ。
状況を打開すべく、羽柴勢は留守となっている三河徳川領への侵攻を画策する。
しかしこの三河中入りの奇襲は看破され、織田・徳川勢に追撃・殲滅されて池田恒興は討死した。
一方で織田信雄の所領である伊勢は羽柴勢によって蹂躙されており、最終的に織田信雄は秀吉との和睦に応じて戦役は終結する。
こうして織田家は羽柴家に臣従する一大名となり、秀吉は天下人となった。
秀吉はその後も、紀州征伐、四国征伐を成し遂げる。
その間にも官位は権大納言、内大臣と昇進し、ついには関白となった。
秀吉は朝廷から豊臣の姓を与えられ、豊臣秀吉となる。
一介の農民から位人臣を極めた、日本史上無二の存在となったのである。