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ヒヤシンス天神様の帰り道 五島高資

2025.03.16 13:34

Facebook長岡 美妃さん投稿記事

今、近代日本の礎になった人々を勉強している。私は福沢諭吉を担当している。

彼はしばしば言っていた。「怨望の人間に害あるを論ず」と。すなわち、「ジェラシーというものほど嫌らしいものはない」と言う。ジェラシーとは相対比較の上に成り立つ感情である。

この感情が邪魔をして、人と繋がれないという経験は誰もが持っていることだろう。

そう、ジェラシーなど感じたくないのに燃え盛る感情の炎を統制できずに難渋するのが人間の性である。「自分はジェラシーとは無縁である」と嘯いてみても、条件が重なればジェラシーの地獄の炎に焼かれている己をみる。そしてそんな自分に自己嫌悪を感じ、更なる相対比較が起こり・・・こんなループが繰り返される。模様・形がある世界に生きていれば当然のことである。

なぜなら模様・形は相対比較のためにあると言ってもいいのだから、相対比較が起こらないのは寧ろ不自然なことなのだ。

しかしそんなことではいつまでたっても人類は共同体を作れないまま、弱肉強食の世界をルサンチマンのような感情を持ちながらコモコモと小さく生きる生命体で終わる。

人間という究極のポジションを全宇宙から応援されているにも関わらず、その可能性を爆発させることができずに一生を終える・・・勿体なすぎる。

だから人間開発が必要不可欠なのだ。

意識の開発が起こっていけば、「模様・形(色)は無(空)であり、空が色である」ことを知る。更に意識が拡張していけば「色もない、空もない」の境地を知る。

そして「色もない、空もない」絶対境地からどうして「空が生まれ色が生まれる」のか・・・そのロゴスを観る。

その時である。模様・形は相対比較のためにあるのではなく、違いはショックの歓喜!楽しむためにあったのだと悟り知る。

福沢諭吉は怨望とは縁遠い人であった。なぜそうだったのかは、彼の晩年に書いた『福翁百話』を読めば理解できる。

彼は「人生は本来戯れ」であることを知っていたのだ。不二一元の世界を時代の流れの中で一所懸命に生きた人間だったのだ。

日本に彼のような人物はたくさんいたのだろう。それ故に近代日本を築き上げることができたのだ。

そして今、慶應義塾の21世紀バージョン。誰もが意識の拡張を起こしていくBEST BEING塾を広げていくことに福沢諭吉の応援を感じずにはいられない。


Facebook津留晃一の世界投稿記事  嫉妬心

私たちが覚醒するまでに乗り越えなければならないひとつの壁があります。それが嫉妬という感情です。「うらやましい」という最も軽い嫉妬から、人の成功をうらやむ「ねたみ」、そして男女間の「やきもち」という最も強力な嫉妬もあります。この嫉妬心は、人の命さえ奪い取る力を持っています。今世、私の学びはこの強烈な嫉妬心の克服から始まりました。

完全に嫉妬の心から解放されるまでに、私は7回の失恋を体験させられました。

大きな心の傷と引きかえに、私は嫉妬という感情の発生メカニズムを理解することができました。陰の状態にあるとき、ねたみの感情は執拗に上がってきます。

払っても払っても振りほどけるものではありません。

マイナスの世界に入り込んでいるときに思考を使うと、そのマイナスの宇宙は拡大の方向へ流れていくという自然の摂理をまず知って下さい。

そんな時には、外側(他人や環境)に向かっていた自分の意識を、英断を持って切りかえ、

自分の内側深く入っていく必要があります。

「この憂鬱な状態は、いったい私のどんな考え方によって創り出してしまったのだろう」

という問いかけを持って・・・。どんな感情であれ、あなたはあなたの内側のモノサシ(価値観)を使い、判断を下した結果として感情が起きます。

感情というものはあなたの無意識の領域において下された、判断に基づいて引っ張り込んだエネルギーなのです。感情はあなたの本質ではありません。あなたという魂が、記憶した情報を使いジャッジした結果、感情が発生してくるだけです。ですから情報を書きかえてしまえば、

あなたに起きる感情の質も変わってしまいます。

起きてくる出来事に、良い出来事と、悪い出来事があるわけではありません。

私たちが「悪いと判断する」出来事が起きただけです。例えば75歳の人が死んだとしましょう。ある人は、「どうして私を置いて先に死んでしまったの」と怒るかもしれません。

ある人は、「このあいだの約束を果たしてくれなくては困るじゃないか」と、 困惑するかもしれません。もう逢えなくなったことを嘆く人もいるでしょう。

はたまた大往生であったと祝杯をあげる人もいることでしょう。

人々の感情と出来事は全くリンクしていないのだということをしっかり意識して下さい。

ですから私たちは起きてくる感情によって、どんな判断基準を持っているのか、出来事によって知らされているのだともいえるわけです。

すなわち感情によって、あなたがずっと昔にしまい込んだ、見ることの出来ない想念(モノサシ)を見せられているのだ、と考えればいいでしょう。

嫉妬の感情がもう欲しくないのであれば、自分が信じ込んでしまって、無意識下に沈めてしまった「思いこみ」を手放すことによって解決が図られます。

では「嫉み」の感情とはどんな思い込みからやってくるのでしょう。

「嫉み」の感情はまずあなたの興味のないものには発生しないということに気付いて下さい。

「うらやましい」という思いは「自分にはない」という思いの裏返しです。

創造主であるあなたが、うらやましい、うらやましい、という思いを出すたびに、自分にはない、自分にはない、という想念を宇宙に発信し続けているということに気付いて下さい。

こうしてあなたは相変わらず自分の欲するものが手に入らないという現実をまねき続けます。

我々はこれまで一貫して「そのままではいけない」と教えられ続けました。

「そのままではいけない」という妄想を信じ込んでしまった人たちは、何かしなければなりません。これが全ての根本です。「何かしないといけない」と信じている自我は、「何をしようか」と考えます。何をすべきかを決めるとき、人は当然まだ手に入れてないものを手に入れようとするでしょう。ですから自我は、常に足りているものではなく、自分に足りないものを探しています。あなたの自我はいつも自分にはないものを見つけだそうと働きます。

このままではいけないと信じているからです。

自分のいたらなさを、自分が持っていないものを、自分には出来ないことを、自分の駄目なところを、自分の醜さを、いつもいつもあなたが眠っているときでさえあなたの無意識の世界で

欠点探しは続けられています。ですからあなたには突然ある思いがやってきます。

「あれが欲しい」「これがやってみたい」「あそこへ行ってみたい」「あんな風になりたい」と。あなたに足りないものを満たそうとして次々に欲求が起きます。

そして貪欲なのが自我であると、人々は純粋に信じ込んでしまいます。

あなたは元々「無」であり、欲深き存在ではありませんでした。あなたの内深くから上がってくる欲望は、単にあなたが「このままではいけない」という考え方を受け入れたからに他なりません。あなたの中で「このままではいけない」という考え方が「このままで良いのだ」という考え方に100%入れ替わった時、あなたは自分の欲がぴたりと止まっていることに気付きます。「それでは無気力になってしまう」と感じる人もいるかもしれません。

「このままではいけない」という、あなたが長い間育て上げた想念時空間があなたに働きかけてくるからです。

しかし実際はそうなりません。あなたは自分が大自然の中に溶け込んだ、気力溢れる創造主であることを発見するでしょう。何かをやらなければいけない人から、創造するものへと変わります。

あなたは生き生きと輝いている人を見て、「私もあんな風になりたい」と思うかもしれません。そしてその瞬間のあなたがどんなに輝いているのか、そのことに気付いていますか。

本当はあなたはその瞬間、その人ではなく、自分の内にある輝きを発見しているにすぎないのです。しかし多くの人はそのことには気づけません。あなたの目は確かに外にあるその人に向いているからです。あなたの目はその人が素晴らしいのだと誤解します。

そんなとき、あなたは外ではなく、内側で確かに感じている自分、素晴らしいものを素晴らしいと認識しているその主体に意識をフォーカスし続けていると、自然にいつの間にか「自分はこのままで良いのだ」という感覚が、自我の壁をやぶってあなたの表面意識へと浮上を始めることでしょう。しかしこれまで通り、あなたがあなたの目にごまかされ、外にいる生き生きと

輝いている人に意識をフォーカスさせ続けていると、あなたの内なるエネルギーがどんどんその人に流れ出していき、あなたとその人のエネルギー量がバランスを失っていきます。

素晴らしい人だと気付いた瞬間は等しかったエネルギー量が、あなたがその人に意識を向け続けることによってあなたのエネルギーは枯れ、その人のエネルギーばかりが増え続けます。

そうなれば、あなたはあの人は素晴らしいがそれに引きかえ自分は駄目であるという実感を

得る事になってきます。

それはあなたが使ったエネルギー操作によるものだとは露ほども知らずに・・・。

枯れてきたエネルギーによって、あなたはいつの間にかあの人が「うらやましい」と思える程にみすぼらしくなってしまうのです。

嫉妬心は、あなたの「自分は不完全である」という思い込みによって起きてきます。

自分は駄目かもしれない、自分には魅力が足りない、自分には力がない、こんな思い込みがある限り「ねたみ」の思いが消えることはありません。

あなたは初めから完全であり、本当は今この瞬間も完璧です。

「思い込み」さえ取り払ってしまえばそれだけで元の完全に戻ります。

あなたが駄目なのは、単にあなたが「自分は駄目だ」という思いを持っているからにすぎません。創造主であるあなたが「自分は駄目だ」という思いを出せば、宇宙はその通り、あなたの思う通りの現実を提供してくれるというわけです。

「いやいや私は初めから駄目だった」と言い張る人もいることでしょう。

でも赤ん坊は自分のことを駄目だなどとは思っていません。

母親は親愛の情を込めて、無垢な赤ん坊にこう言います。「いい子になるのよ」と。

素直な子供は全幅の信頼を置いている母親のこの言葉をまともに受け取ります。

「よし絶対にいい子になってみせる」と、希望に胸を膨らませながら。そして無意識のうちに

「いい子になるにはどうすればいいのだろう」と考えが動き始めます。

何をしたらいい子なのか、今のままではいけないということなのかもしれないと、母親の顔色をうかがい始めます。子供には価値観がないからです。

そして母親の顔色によって、いつの間にか母親の価値観が刷り込まれてしまいます。

そしてお父さんがやってきて「人様に誉められるような立派な人間にならなきゃいかんぞ」

と言います。こうしてあなたは「そうか誉められなきゃだめなのか、存在しているだけでは駄目なのか、まだ誉められてないからやっぱり自分はこのままではいけないんだ」と受け取ります。あなたのライバルが成功した時、妬んでしまうのは「自分はあるがままで完全だ」という信念がないからです。「このままではいけない」と信じているからです。

妬みの感情はあなたの覚醒度のとてもいいバロメーターです。

「自分はこのままで完全なのだ」という思いが完全に腑に落ちたとき、あなたはライバルの成功に対して純粋な祝福の思いだけがわいてくる事でしょう。

いいえ、あなたには成功という言葉の意味が消えている事に気付くでしょう。

本当は大金持ちでいる事と、無一文でいる事に違いはありません。

万能でいる事と、無能でいる事に全く違いはないのです。

それが「あるがままで完全である」ということなのです。

今のあなたの、あるがままでは困るところはどこでしょうか。

妬みは、そのことをあなたに教えてくれる神様からの贈り物なのです。


https://www.engakuji.or.jp/blog/29980/ 【信仰の力】より

『武渓集』というような、禅の語録を読んでいて、天神さまを詠った漢詩がいくつも出てきて

不思議に思うかもしれません。昔は神仏習合であった名残でしょうか。神さまも仏さまも一つとして信仰していたのでした。

 天神さまといえば、菅原道真公です。道真公が右大臣までなりながら、讒言にあって太宰府に左遷されて、失意のうちに亡くなります。その後、道真公の左遷に関わった者が次々と亡くなり、とうとう御所にも雷が落ちて死者がでました。人々はみな道真公の祟りと恐れて、道真公を右大臣の位に戻し、天満大自在天神としてお祀りするようになりました。

作家の童門冬二さんは、歴史を動かすのは怨みであると言われていますが、怨念というのは恐ろしいものです。しかし、日本の神さまというのは不思議なもので、この怨念の道真公が神さまと祀られます。そして学問の神さまとして信仰されるようになります。

 日本の臨済禅において大事な白隠禅師も、若い頃にどうしたら地獄の苦しみから脱せられるか悩んで、母親から、あなたは丑年の丑月、丑の日丑の刻に生まれたから、天神さまと縁が深い、天神さまを拝むようにと教えられて、一心に天神さまを信仰されました。

 天神さまは、本地仏が観音さまでありますので、白隠禅師は、天神信仰から観音信仰へて転じてゆきます。観音さまを拝むことから法華経へとつながってゆき、衆生はみな本来仏であるとの目覚めを得られます。そこから、ご自身が観音さまになって、人々に広く『延命十句観音経』を弘められました。道真公の怨念が、天神さまになり、天神さまが観音さまになって、白隠禅師の教えへと繋がっているのです。

 一念の怨みは恐ろしいものですが、これが神にも仏にもなる世界があるのです。

 白隠禅師なども、修行時代に幾度か挫折しそうになるのですが、神仏を信じる信仰の力によって乗り越えておられます。

 この頃は、セルフコンパッションや自慈心などということの大切さが説かれていますが、

昔は、神仏を信仰することによって、神仏が見守ってくれているから大丈夫、きっとよい方向に導いてくださると安心感をもって修行できたのでしょう。

神仏を信じることによって自然と自慈心が養われていたのだと思うのであります。

(横田南嶺老師 『武渓集提唱』より)