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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

ショパン、パリのポーランドの人々と

2019.02.01 07:49

ショパンはパリのアパルトマンでうつ状態であった。ショパンの心の内は、不安と憧れと無関心、そして生への衝動と死へのあこがれが伴い様々な記憶に苦しめられる。ショパンはあらゆる予感に苛まれていた。

ショパンはポーランドからパリに逃れて来た難民を見て戦わなかった自分を責め苦しんでいた。パリで自分が堕落したと友人ティトゥスに許しを請うショパンであった。

それでも、ショパンはポーランドの人々のために生きなくてはならなかった。

ある晩、ショパンはブオナローティとポーランドの将校のための集会でポーランドから逃れて来たポーランド人の貴族の集まりの晩餐会に行った。集まったのは百人程で、そこに、ヴォドジンスキ家族とブリクスチンスキも来ていた。ショパンはティトゥスにパリに来たら長い髪にバラを付けたマリアを訪ねるようにそれとなくショパンは伝えティトゥスにパリに来るよう説得した。

1831年12月、ショパンは1月に予定されていたカルクブレンナーと共演する演奏会が更に延期になっていた頃、カルクブレンナーのレッスンには相変わらず通っいた。

ショパンは自前の馬車に馬の面倒をみる使用人を雇い、貧乏なはずのショパンはレッスン代金と交通費で容赦なく出費が嵩んだのだ。

時は1832年に移り、ショパンはデビュー演奏会(といってもカルクブレンナーとの共演や多数の出演者による演奏会)の準備にあちらことらと走り回り休む暇もなかった。

そのことを父ニコラはカルクブレンナーはどうなっているだと不信感を抱き、息子ショパンをただただ心配した。ショパンにとって上流階級の知り合いは役に立つ場合もあれば運に恵まれなければ悪影響を及ぼすことになることをニコラは危惧していた。

姉の「ルドヴィカは弟フレデリックにお金が足りない時はお父さんに黙って私に知らせなさい」とショパンを気遣った。

ショパンの1832年2月26日のデビュー演奏会は成功したかのように表面は見えた。ショパンには収入どころか支出が嵩んだ。それでもショパンは演奏会を成功させようとした。

演奏会は、ポーランドの難民貴族で占め、ポーランドの首相だったチャルトリスキ(記録では2月25日にイギリスに亡命)が来ていた。

そして、フランツ・リストが来ていた。リストはショパンの〈協奏曲ヘ短調〉と〈ラ・チ・ダレム変奏曲〉を「革新的な作曲形式と詩的な感情表現の芸術」と称賛した。

ショパンの名は知られるようになったが、この時ショパンの弟子の申し込みは全くなかったのだった。

翌月の3月、ショパンはパリ音楽院の演奏協会に一度、出演をさせてほしいとの嘆願書を出した、しかしパリ音楽院の演奏協会の対応は冷たい返答であった。

ショパンのワルシャワの音楽院で友人だったアント二・オルウォスキもパリに来ていた。

友人オルウォスキはショパンは楽しそうなふりをしているがショパンは完全にうつ状態であることをショパンの家族にそれとなく報告した。

そして、パリでコレラが発生せしお金持ちだけがパリから田舎へ脱出したことを報告した。

(1831年ドイツの哲学者ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルはコレラでベルリンで死去、1832年パリではカジミール・ピエール・ペリエ(フランス首相)がコレラで死亡。パリでは1,000人を越える患者や1日で800人もの人が命を失うこともあった、主に貧民街での発生が多かった。)

友人オルウォスキは、パリでは偽芸術家が犬の数ほど多すぎて半分くらいになればショパも楽になるのにと自分やショパンが置かれた立場がたいへんであることをショパンの家族に漏らしたのであった。

アダム・イエジィ・チャルトリスキ(1770年1月14日 - 1861年7月15日)ポーランドの貴族 政治家、文筆家 アダム・カジミェシュ・チャルトリスキ公爵の長男、母はイザベラ・フレミング。1804年から1806年までロシア大臣委員会議長(事実上の帝国宰相)を務めた後、1830年のロシアからの独立を目指した。十一月蜂起後成立したポーランド国民政府の首班、十一月蜂起の敗北後、1万人のポーランド人とパリに亡命、1832年2月25日イギリスに亡命し「ポーランド自由友の会」を設立。