出会いと別れの季節
一匹狼 Lonely Wolf@lonelywolf0008
寒い寒いと 口癖のように言う そんな季節 夏は夏で 1日に何十回も 暑いという言葉 繰り返す 人は四季を何度も繰り返し 生きている 春は春の 夏は夏の 秋は秋の
冬は冬の それぞれ良さがある 今年の冬はどんな いい事あるのかな?
あぁそれにしても寒い冬ですね 今年ももう終わりは近い
facebook新田 修功さん投稿記事 「だって、春だったんだも〜ん」……⁉️🌸💕🌈✨
読書セラピー「賢者の一言」 心屋仁之助
同じ場所にいると同じ風景しか見えない。勇気を出してそこから離れよう。
………………………………✨✨✨
春です🌸 別れと出会いの季節であり、異動の季節でもあります。
「置かれた場所で咲きなさい」という、渡辺和子先生のお言葉もありますが、思い切って離れてみるという選択肢も有りだと思います😊
だって、鬱になって死んでしまったら元も子もないからね😭
本当の自分を抑えて、やりたいことを我慢して、ずっと良い子ちゃんだった人こそ、季節を言い訳にして、飛んでしまったらどうでしょう👍✨
「だって春だったんだもん」……なんてね😊🌈🌸今日も読んでくれてありがとう🙏😊💕
facebookいい言葉は人生を変える投稿記事
出会いを求めて 別れに涙する季節は 古い自分と決別して 新しい自分に出会える
イイ季節
-----.------.------
新学期が始まるね。別れもあるけど新しい出会いに期待できるこの季節は古い自分とバイバイして新しい自分を発見できるイイ機会だと思うな。
この世におさらばする時に「やっときゃよかった」ってならないように...
やりたかったアレを始めてみようってスタートする4月最初の朝だよ〜♪
facebook北條 毅さん投稿記事
さようなら、お母さん。
先日、友人と話していてとっても重要なことに気づいたんだ。それは僕が、「生きるためには、頑張らなければいけない」と思っている、ということ。
言葉にするとなんでもないように聞こえるよね。でもこれ、僕にとってはすごく大きな盲点だったんです。もうね、気付いた瞬間、雷に打たれたような衝撃。
僕ってこんなに「頑張る」の呪縛に囚われてたんだ。そしてその呪縛に囚われていたことに、これまでまったく気づいていなかったんだ、って。
なんでこの「頑張らないと」の呪縛に囚われていたのか。そして、そもそも囚われていたことにまったく気づかないぐらい、当たり前のこととして深く深く刷り込まれていたのか。その答えにはすぐに気づきました。母親です。
「頑張れ」「頑張りなさい」ㅤ
この言葉を口にする母親の声は、47歳の今でもとても簡単に思い出すことができます。それほどに、僕は母が発したこの言葉を数え切れないぐらい聞いてきた。ㅤ
僕が実家にいた高校生までの18年間、家族の中で母親の話を最も聞いていたのは僕だと思っています。会話したんじゃないんですよ、話を聞いていただけです。
うちの母親は話し好きでね、ほっとくとずっと喋ってる。ずーーーっとしゃべってる。こちらの返事なんて待ってない、ただ喋りたいって人なんですよね。それを「うん、うん」とひたすら聞いていた。
実家にいた間はずっとそうだったし、今だって電話で話したり、帰省したりするとそうなる。母の傍にいると言葉のマシンガンを浴び続けているような気持ちになるぐらい、ひたすら話し続けてるのがうちの母なんです。
そんな人だったから、一緒に暮らしていた高校卒業までの18年間で、僕はどれだけ母の言葉を浴びてきたかわからない。そしてその膨大な言葉の中で、何度も「頑張れ」「頑張りなさい」と繰り返していた。
それを聞いてきた僕には、無意識のうちに「頑張らなければいけない」というメッセージを刷り込まれてきたんですよね。そりゃそれだけ繰り返されてきたら当然のことで。
とはいえ、母だって悪意があってやってたわけじゃない。「頑張れ」「頑張りなさい」、母がなぜそんなに繰り返していたのかは、今となってはよくわかる。それは、他ならぬ母親自身が頑張ってきた人だからなんだ。
僕が大きくなってから聞かせてもらった。もう半世紀ほど前、母が最初の結婚をして妊娠、身重の最中のある日突然、ご主人が交通事故で他界した。失意の中、実家に出戻って娘を出産ㅤ
親の手を借りて育児の傍ら働きに出るも、当時はまだまだ女性の社会進出なんて遠い時代。女性は結婚したら退職、仕事はそれまでの腰掛けが当たり前の頃。しかも秋田の地方都市という土地柄。
なんとかつてを辿ってパートで働きに出て、様々な事情でいくつかの職場を転々として、とある職場で出会った相手と再婚。そこで生まれたのが僕。出産に前後して夫(父)の実家で義母と同居するも、まぁこの義母(僕からしたら祖母)がきつい人で、嫁姑問題でかなり苦労したらしい。ㅤ
その後も長きに渡って色々あったけど、僕から見ていても祖母との関係は大変そうだった。やがて祖母の痴呆が進むと、さらに負担に拍車がかかったのは想像に難くないことで。当時、何度も泣きながら祖母の部屋から出てきた母の姿を覚えている。それでも自宅で介護し、やがて病院に入院してからも世話をし続け、最期を看取っていた。
祖母だけじゃない、高齢化していく親族の関係者が終末期で入院すると、足繁く病院に通っていた。僕から見ても、なんでそんなにと思うぐらい親戚の世話をし続けていて、結局、祖母から数えて今まで7人の親族の最期を看取ってきている。
こうして振り返ると、本当にすごいよね。僕には同じことはできない。最初のご主人を亡くした後も、嫁姑問題も、何人もの介護も、そしてきっとそれ以外の細々した日常のいろんなことも、ぜんぶ全部「頑張ってきた人」なんだと思う。
そういう人なんだよね。だから僕に言っていたんだ、「頑張れ」「頑張りなさい」って。母親もそうだったから、頑張ることが母にとっての生き方だったから。辛いことや苦しいことがあっても、必死で頑張らなければいけない人生だったから。
その教えを受けて、僕も僕なりに頑張ってきたんだ。学校でいい成績を取ろうと頑張った。いい大学に入って、いい会社に入って、安定した生活に進むために、優等生を頑張ってみた。頑張ろうとしてきた。ㅤ
でもね、結局はできなかったんだよね。ある時までは頑張れたんだ。でも頑張り続けないとって、そう歯を食いしばり、自分に鞭打ってでも必死に前に進むやり方を、僕はいつまでも続けることができなかった。
大学で親元を離れて、頑張れなくなった。何もする気が起きなくなって、学校で授業を受けることができなくなって、4回も留年した。頑張れないダメな自分に絶望した。頑張れない自分が嫌いだった。
なんとか大学を卒業して社会に出てからも、もう一度やり直そうとした。もう一度頑張ろうとした。頑張るやり方しか知らなかったから。子どもの頃のようにもう上手くはできなかったけど、その時なりに頑張ろうとしてきたんだ。
社会に出てからも頑張ってきた。独立してからも頑張らなきゃと思ってやってきた。アトピーになって地獄のような苦しみの日々だって、頑張って耐えてきた。
頑張らなきゃうまくいかない、頑張らなきゃ前に進まない、頑張らなきゃ生きていけない。そう思って肩に力を入れて生きてきた。頑張ることを頑張って生きてきたんだ。
日差しも暖かさを増してきた3月のある日、友人と話していたある瞬間に、そんな自分の思い込みに突然気づいた。自分がどんなに肩に力を入れて生きてきたかに、ようやく気づいた。
僕にとってはまさに雷に打たれたような瞬間。そうか、僕は頑張ってたんだ。頑張ろうとしてきた、頑張らなきゃと思ってきたんだ、って。
頑張るのが悪いわけじゃない。ただ「生きるためには、頑張らなきゃいけない」「頑張らなきゃ生きていけない」、それはフェアじゃないよね。必要以上に肩に力が入りすぎるよね。
しかもこの道を選んできたわけじゃない。この道しか知らなかっただけなんだ。他の道なんて見えてないし知りもしなかった。選ぶことすらできなかった。母に教えられた、「頑張る道」以外の選択肢なんか、ずっと持ってこなかったんだよね。
そんな自分に気付いた瞬間、そんなこれまでの人生にようやく気づけた瞬間、その時にふと、眼の前に現れたんだ。「頑張らなくてもいい道」が。そして気づいたんだ。そっちの道を選んでもいいいんだってことに。ㅤ
だから、僕は選んでみることにした。「頑張らなくてもいい道」を。47歳になって、初めて目の前に現れた新たな道を。
それから1ヶ月。なんだかとっても幸せなんだよね。
自分でも明らかに肩の力が抜けたのがわかる。まるで憑き物が落ちたかのよう。穏やかで幸せで、満ち足りたものが胸の中にずっと在る。穏やかで確かな幸せとともに過ごしている。ㅤ
もちろん仕事もしてるけど、それも以前よりずっとリラックスして取り組めている。なのに、それでもちゃんと仕事は進んでいく。いやむしろ、前よりもっと楽しく創造的に取り組めるようになった。毎日の楽しさや充実感は、以前よりもはるかに大きく深くなった。
これでよかったんだなと思う。そして面白いな、たまらないなと思う。どんなに成長したつもりでも、どこまで進んだつもりでも、まだ見落としている自分の姿があって、進んでみたからこそ見えてくるものがあって、そしてまだ見ぬ新たな未来がある。ㅤ
自分だけじゃ気付けず、進めなくても、だからこそ教え助けてくれる誰かがいて、そうして一緒に気づき、成長し、歩み続けるんだ。「頑張らなくてもいい道」、その新しい道を、僕はまだ歩き出したばかりだから。
さようなら、「頑張りなさい」と声をかけつづけてくれていた、僕の中のお母さん。「頑張る道」は、もう十分に歩いてきたんだ。
だから、僕はこれから僕の道を歩く。自分で選んだ道を歩いていく。それが僕にとっての幸せの道なんだと思うから。僕は僕の幸せの道を選んでいくよ。
https://hokuohkurashi.com/note/138151 【【新連載|プロローグ】エッセイ「ケの日のこと」がはじまります。】より
“ハレ” と “ケ” という言葉があります。
友達のお祝いをしたり、家族と旅行に行ったり。携帯電話のカメラロールをひらけば、そんな「ハレの日のわたし」がニッコリ笑って並んでいるけれど、「ケの日のわたし」は、自分自身しか知らない。
6時半に起きて、会社に行って、18時半に家に着いたら、お風呂に入ってご飯を食べて、23時前には寝てしまう。ハンを押したように過ぎ去るわたしの日常。
でも、目の前で笑う友人にも、毎朝すれ違うおばあちゃんにも、決して見ることのできない「ケの日」がある。誰の目にも触れないところで、ただ淡々と刻まれているであろうその日々の連なりに、ほっとすることがあります。
そして、誰にも記録されず、明日には上書きされてしまうような毎日だからこそ、わたしだけはこの日々を愛おしみたい。そう思うようになったのは、本日から始まる新連載を綴る、ある方の一言がきっかけでした。
編集長であり、そして母である、一人の女性が綴ります。
この連載を書いてくれるのは、当店の読みものや、リトルプレスにもご登場いただいている、中村 暁野(なかむら あきの)さん。
ひとつの家族を一年間に渡り取材し、一冊にまとめる、「家族と一年誌『家族』」の編集長を務める中村さんは、プライベートで7歳の娘と0歳の息子を育てる母でもあります。
今年の8月に公開した「あなたのホームは、どこですか?」では、そんな中村さんが母になってから抱えていた葛藤、それを一歩ずつ乗り越える姿をお伝えしました。
「なんてことない」日も、悪くない。
新連載「ケの日のこと」は、そんな中村さんの「ケの日だって悪くない」という一言から始まっています。
「家族」ってなんだろう。ずっとその疑問と向き合ってきた中村さんは、家族とは時に人様にお見せできないような普段の食卓をともに囲み、食べることのできる存在ではないかと話します。
ときにはていねいさや頑張りからかけ離れている、そんな日常だからこそ、その人らしさがより色濃く映し出されるのだと思う。人生はハレとケの両方あってこそ、だと。
この連載では、中村さんに、ご自身の「ケの日」の一瞬一瞬を切り取り、綴っていただきます。第1話目は、ふたりの子どもと共に、慌ただしく過ぎ去るいつもの朝の風景から。
誰にでもある、なんでもない日常に、ふと目を向けるきっかけになればうれしいです。
https://hokuohkurashi.com/note/174108?srsltid=AfmBOooHikWy5j-YFFY2D3TBFfTDkr-SAHgwRNvj3ppJLb9TNUQ9YAtA 【【ケの日のこと】春、出会いと別れを繰り返して。】より
「家族と一年誌『家族』」編集長 中村暁野
第35話:出会いと別れを繰り返し
先日娘が「ママ、バターってりんちゃんの生まれ変わりだと思う」と言い出しました。
バターとは我が家で飼っているうさぎなのですが、りんちゃんって……?と困惑していると「忘れたの? バターの背中の模様、カブトムシに似てるところあるでしょ!」と娘。りんちゃんとは、去年の夏、ホームセンターでもらってきて、そして一夏が過ぎ命を終えたカブトムシのことでした。薄情な母に怒る娘。
カブトムシがうさぎに生まれ変わったという説にはいまいち納得出来なかったわたしですが、ことの真偽はさておき、そのように愛情を向けたものたちが、姿形を変えて自分のそばにいる、と娘は信じているんだなと思うとなんだか安心したのです。
春は出会いと別れの季節。この春、いくつかの別れがありました。
1つは娘のクラスのお友達が海外に行ってしまったこと。娘の学校は少人数で、クラスメイトは家族のように感じる存在なので、しばらくの間、娘の日記はさみしい、かなしい、の文字ばかり。それでも日本に帰国した時はまた会える、そして自分達もみんなで会いに行く、と「離れても友達」と言う子供達の姿に大人も涙しました。
そしてもう1つ、93歳だったわたしの祖母との別れがありました。ひ孫の成長を楽しみに、そしていつも心配してくれていたおばあちゃん。家族にたくさんの愛情を注いでくれたおばあちゃん。春なのに雪が舞った寒い朝、みんなでおばあちゃんを見送りました。
「ひいばあ、お空で休んで次はママの赤ちゃんになってやってくるんじゃない?」と娘。そう言ったあと慌てて「あ! でもしばらくはゆっくりしたいと思うから、まだまだ空でゆっくりしてたほうがいいよ!」と、きょうだいは弟一人で十分とばかりに言い直している姿に笑ってしまいました。でも、その言葉に力ももらえたのです。
この先には、今はまだ見知らぬ大切な人がいて、新しい出会いが待っているのかもしれません。そして、たくさんの大切な人とのお別れも、いずれ必ず訪れる。でもきっと大切なものは、形はなくなったとしても、いつもそばにいてくれるのだと思います。空や花、道端の石ころを目にしたときに、そんな存在を感じるかもしれないし、時には隣にいる子供達の中に感じるかもしれない。
つながっていくものの中に、今日もわたしの「ケの日」はあるんだな。そんな当たり前だけど大切なことを思う春なのです。