新世界紀行 エジプトの旅29 ダンスパーティ 2025.04.12 04:10 ナイルの風は、夜になってもまだ熱を帯びていて、どこか砂の匂いがした。ソアとミリーの泊まるホテルへ、ぼくは立ち寄った。宿へ向かう途中だった。彼女たちのホテルは、どう見ても一流。エントランスのドアを抜けると、目の前に広がったのは、まるで夢の中のような空間だった。高い天井からは巨大なシャンデリアがぶら下がり、光がゆっくりと回っている。 その光が、ふたりの頬を淡く照らしていた。女子二人旅――とはいえ、彼女たちは明らかに、ぼくとは違う世界を歩いている。 ぼくは汗まみれのバックパッカーで、彼女たちは、軽やかな旅人だった。 ぼくの宿は、ほとんどゲストハウス。 人によっては「ほとんど雑居ビル」と言うかもしれない。 実際には、古びた雑居ビルの一角を改装したようなもので、年越しの「パーティ」など、言葉ばかりが先走っていた。それでも、パーティをやるんだ、と言ってしまったのは、なんだか取り繕いたかったのかもしれない。 でも――。 期待外れだったらどうしよう、とぼくの胸に不安が差した。 年越しという、特別な夜に。 せめて、ガッカリさせたくはない。 そして何より、彼女たちは、ぼくを信じて来てくれるという、そのこと自体が、胸に少し重かった。「ぼくはバックパッカーだからね、宿もゲストハウスみたいなところで、オーナーの奥さんが日本人らしいんだ。今夜は日本人が多いって聞いたよ」 そう前置きすると、ソアが笑った。 「そういうのも楽しそうじゃない」 フロントの床では、オーナーの犬が2匹、眠っていた。 ひとりは大きな犬、もうひとりはミニチュアダックス。 「Cute!」 ソアとミリーは声を上げて、犬たちに手を伸ばす。 犬たちは、まるでこの世界には何の不安もないような無垢な目で彼女たちを見つめ返していた。 宿の印象は、その2匹の犬のおかげでどうやら保たれたようだった。「屋上はこっちだよ」 上の階から、重たいビートが床を揺らしていた。 その音を追いかけて、ぼくらは階段を上った。屋上では、黒人の音楽家たちが、それぞれの楽器を鳴らし、ひとりの女性が、空に向かって歌っている。その声は、夜のナイルを震わせるほど力強く、そして、聴いているだけで陽気にさせてくれるようだった。宿泊者の日本人も数人いる。誰もが、その音楽に身をゆだねていた。ぼくが彼女たちを紹介すると、皆一様にソアとミリーが日本人ではないことに驚いた。 どこからどう見ても同郷の顔つきをしているのだ。音楽が鳴り出すと、地元の人々が踊り始めた。そこに混ざって日本人たちも踊り始めた。ソアは躊躇せず混ざる。音楽に身をまかせ、踊り出した。きっとダンスが得意なのだ。その姿は、まるで風のように自由だった。 ミリーも続いた。 そして、ぼくも。踊るのは、正直、得意じゃない。 でも、誰にも見られていないような気がした。 誰もが、自分の心とだけ踊っていた。 会話は、爆音の中では成立しなかった。 けれど、その代わりに、ぼくらは全身で、なにかを語り合っていた。 その瞬間、時がスローモーションになった気がした。 ぼくは願っていた。この旅が、まだ終わらないでいてほしいと。アフリカ人とアジア人が一緒に踊るこの光景は、どこか詩的で、粋だった。 1時間半ほどいただろうか。 パーティがお開きになる。時計は、深夜1時半を回っていた。「明日、気球に乗って空から遺跡を見るの。早い時間に集合なの」 そう言ったソアとミリーだったが、ふたりとも、最後までその場にいてくれた。 ぼくが送るよと申し出ると、 「歩かせたら悪いから」 と、彼女たちはアプリでタクシーを呼ぼうとしていた。 でも、年越した深夜にうまくは捕まらない。 それを見ていた、オーナーのハッサンが、 「すぐそこだから、車で送ろう」 と言ってくれた。 「お金は……?」と、つい尋ねてしまったぼくに、 「もちろんフリーだ。パーティの仲間だからな」 と、彼は笑った。車は、建物の裏から現れた。 ぼくも乗り込み、4人でホテルへ向かった。 通りは、すっかり人影もまばらになっている。 年が明けた街は、どこか静かで、夢の名残を引きずっていた。 わずか2〜3分ほどで、彼女たちのホテルへ到着した。 そこで、ぼくらは別れる。 きっと、もう2度と会うことはないのだろう。 旅とは、そういうものだと、何度も教えられてきた。ソアがぼくの手を握った。 ミリーも、ぼくに目を合わせた。 「また会おうね」 彼女がそう言った。 それを、ぼくが勝手に訳しすぎただけかもしれない。 宿に戻って、固いベッドに沈みこむ。 静かになった部屋に、まだ心臓の鼓動が残っていた。 ぼくは思った。 これまでの旅の中で、今日という日は、きっと忘れない。 ぼくの海外旅史上、最もエキサイティングなバックパッカーの1日になった気がした。窓を開けて外を見ると、エジプトの風がカーテンをゆらした。 その音さえ、ぼくの胸の中では、まだ、遠くの音楽のようだった。