Okinawa 沖縄 #2 Day 285 (08/04/25) 嘉手納町 (2) Senbaru Hamlet 千原集落
嘉手納町 千原集落 (シンバル、せんばる)
- 野国川
- 千原の合祀所
- 八門ヌ神 (ヤジョウヌカミ)、土帝君 (トゥーテイクン)
- 井戸拝所
- 小港井戸 (クンナトカー)
- 金城前井戸 (カナグスクヌメーヌカー)
- 源河井戸 (ジンカカー)
- 渡口井戸 (ワタイグチヌカー)
- 竜宮神へのお通し
- 千原郷友会
今日は昨日訪れた兼久集落の北の水釜集落を訪れる。昨日野国川が満潮で千原に渡れなかったので、水釜に向かう途中に千原の拝所に立ち寄る。
嘉手納町 千原集落 (シンバル、せんばる)
千原集落は野國村に属していた屋取集落で、西方は東支那海に面する海浜砂丘地で、野國川の南の地一帯を占め、東は県営鉄道線路で野國に、南は久間作久原 (クマザクバル) の小川で砂辺集落に接し、北は野國川を隔てて兼久集落に接していた。
伝承によれば、1825年ごろに首里士族の知花築登之包規 (童名仁王 1808 〜 1875年) がこの地に移住帰農したという。知花包規は帰農先の野里村の祝殿内 (ヌンドウンチ) に農作業要員として雇われ、働き者で忠実な人柄だった。その誠実な人柄に対して、雇い主の祝殿内はこの地を包規に分け与え、包規は住居をかまえて移り住み生計を立てた。これが千原屋取の始まりという。その後、首里、那覇、久米などの土族が移住して集落が形成されたといわれている。
集落東に位置するタカンニグーフを起点に、西の海岸まで延びた未広がりの二本の道路 (荷馬車道) が走り、明治時代までには北側の道沿いに集落があり、その後、南側の道沿いに住居が増えていった。ほとんどの世帯が農業で生計を立てていた。東側には沖縄県営鉄道嘉手納線が通っており、近くに野国停車場があった。
1937年 (昭和12年) に北谷村字野国から分離して宇千原 (52戸) となった。沖縄戦後、千原全域が米軍に接収され、現在でも返還がかなっていない。字千原は住民が住んでいないにも関わらず、戦後も行政区としては存在していたが、1976年 (昭和51年) に字千原は廃止され、字野国に吸収されている。
1897年 (明治30年) 頃、タカンニグーフ付近に集落共有のサーターヤー (精糖場) ができた。当時の戸数は30戸ぐらいだった。1905年 (明治38年) 頃には、サトウキビ生産量の増加によって、サーターヤーは上組、下組、福地組、亀甲組の四つの製糖組に分かれて、それぞれがサーターヤーを作って砂糖を製造していた。その後、集落は南側に広がり、下組から古謝組が分離して独立したサーターヤーを設置している。千原では百合の栽培が盛んに行われ、甘薯栽培を上回る収入を得ていた。
千原の人口についてはまとまったものは見あたらず、資料にあったデータをプロットすると下のグラフの様になる。(戸数から人口を想定しているので正確ではない) 1850年頃には7 ~ 8世帯 (50人程?) だったのが、その後、寄留者が増え、沖縄戦直前の1945年 (昭和20年) には377人 (52戸) まで増加している。沖縄戦では48人が犠牲になり人口は減少した。沖縄戦後、千原全域が米軍用地となり、旧千原住民は字嘉手納など他地域に居住していた。戦後7年目の1952年 (昭和27年) には戸籍ベースでは446人 (83戸) と戦前の人口 を上回っている。それ以降は住民登録ベースでの人口統計となったので、旧千原人口のデータは存在しない。
沖縄戦前には、日本軍は千原の海岸沿いに陣地、海岸の自然壕に砲台を構築し、数メートルおきに機関銃砲座を設置していた。千原集落では日本軍の組織的駐屯はなかったが、字事務所や民家に日本軍の上官が宿泊していた。戦時体制下空襲警報の度に野国川沿いの防空壕に避難していたが、千原住民の多くは、米軍の沖縄上陸前、1945年 (昭和20年) 初頭から3月にかけて、北谷村民の疎開割り当て地の羽地村方面への避難行きを余儀なくされた。千原など複数地に対戦車施設の建設を予定していたが、軍の方針変更で、この地域に駐屯していた日本軍は、米軍上陸前に浦添、首里方面に撤退している。1945年 (昭和20年) 4月1日に米軍は北谷から読谷山に至る海岸から上陸を開始し、千原の海岸も主要な上陸地点となり、千原村落は4月1日早々に占領された。村に残った住民の殆どは野国川下流のクシヌトゥ (無名川) の壕に避難しており、日本軍が撤退していた事で、日本軍の抵抗もなく、全員が同日に米軍により保護されている。
第二次世界大戦での千原集落住民の戦没者は48人で、当時の千原人口377人に対して12.7%にあたる。戦没者の半数は外地を含め防衛隊など軍関係者だった。日本軍がいなかった事で村内での戦没者はおらず、南部に避難した住民の20人程が犠牲になっている。 (嘉手納町の戦没者数のデータは見つからず、嘉手納町史 資料編7 戦後資料 (2010 嘉手納町教育委員会) の戦没者リストを足し込んだのが下のグラフ。沖縄戦直前の人口データがない地域が多く、各字の戦没者率は計算できなかった) (嘉手納町としての各字、嘉手納町全体の戦没者率は発表されていないようだが、1945年沖縄戦当時の人口を6,500人と推定すると、嘉手納町の戦没者率は17.8%ぐらいだったのではと思う)
戦後、字千原は全域が米軍に接収され、嘉手納飛行場が建設された。このことでかつての集落はちょうど滑走路の場所にあたり、完全に消滅している。現在でも土地は返還されておらず、かつての字千原に住んでいる人はいない。旧千原の北西部には畑がみられるが、これは黙認耕作地と呼ばれ、この地での耕作を米軍は黙認をしている。ただ、米軍の都合により、いつでも、この耕作地から立ち退きを命令されることがあり、不安定な状況でもある。
千原は屋取集落なので、御嶽や殿、村火ヌ神は存在しないが、移住後に祀られた拝所は次のとおり。
- 御嶽: なし
- 殿: 殿 なし
- 拝所: 土帝君、八門ヌ神
- 井泉: 小港井戸、金城前井戸、源河井戸、渡口井戸
旧千原住民により、伝統行事の7月16日にエイサー、5月5日に 土帝君御願、12月24日に御願解きが行われている。
千原集落の史跡等 (位置は正確ではない)
野国川
昨日は野國總管の墓の南に流れる野国川まで来た。野国川の南岸にある千原の拝所に行こうと思い、ここまで来たのだが、満潮で、野国川河口まで海水が満ちて渡れず、潮見表で干潮時を確認して今日再訪した。野国川は兼久村と野国村千原集落との境界になっていた。この野国川を渡った所に千原の拝所がある。兼久や水釜には何本も川が海に流れ込んでいたが、今は水が流れている川は少ない様だ。米軍基地になり基地内の川は埋められてしまったのかも知れない。
潮も引いており、今日は対岸に歩いて渡れる。野国川河口は野国港 (ヌグンンナトゥ)で戦前には満潮時に水深は3mぐらいで、陸上の交通が発達していなかったころには、ヤンバル船が入ってきて那覇の商人により交易が行われたという。
野国川には戦前の千原集落の生活に深く関わる場所があった。現在では嘉手納飛行場となっており、昔の姿は残っていない。
クシヌトーと呼ばれた野国川の下流には自然の洞穴を利用した 10基程古墓があり、墓参者もなく由来もわからず按司墓と呼ばれていた、上部は開いていて、中の方はまる見えで、たくさんの人骨が積み重ねられていた。住民は墓の周辺の草木を刈り取ったりすると祟りがあるということで、その近くには寄りつかなかった。沖縄戦では村に残った住民はこのクシヌトーのガマに避難して助かっている。
古墓のある場所から野国川下流を少し下った所に、ウフグムイと呼ばれる深さ2m程の大きな池状になっている場所があり、かつては、昼間は主婦や娘たちが洗濯をするために利用し、夕方になると、野良仕事帰りの人々が体の汚れを洗い落したり、芋や農具などを洗っていた。夏には子供たちが泳いだり、水遊びをしたりする場所だった。
ウフグムイから更に40m程下流に、澄みきった水が流れている場所があり、近くの人々が、野菜を洗う場所として利用して、いつしかオーファアレーグワー(野菜を洗う所)と呼ばれるようになった。
オーファアレーグワーから野国川を少し下ると橋が架かっている場所があり、シマブクマーチューヌサチ又は渡口 (ワタイグチー) と呼ばれていた。ここは昔から、砂辺、千原、兼久、水釜の浜辺に面している集落の人々が、野国川を越して行く場合の渡り場所で、南の千原、砂辺方面からは、嘉手納製糖工場へ歩いて通う近道になっていた。
千原の合祀所
野国川を渡り、千原の拝所に到着。
戦前に存在した千原村は嘉手納基地内にあり、中に入れない。1957年 (昭和32年) に旧千原の基地内のこの場所 (黙認耕作地) に祠を建て、基地内 (旧千原集落) にあった拝所を合祀している。御願の時には米軍から許可も取らず基地内に入ることが黙認されていた。階段を上がり合祀所に入ると幾つもの拝所がある。正面の向かって右側から見ていく。
八門ヌ神 (ヤジョウヌカミ)、土帝君 (トゥーテイクン)
千原屋取への入口に置かれていた拝所で、村を悪霊や災難から守る神だった。沖縄では風水の神や石獅子も同じく村を守る神として村の境界に置かれていた。本土の道祖神の様なもの。八門とあるので村の八つの隅に置かれていたのだろう。
八門ヌ神の隣には唯一祠が建てられた拝所があり、土帝君 (トゥーテイクン) が祀られている。千原は那覇、首里、久米村からの帰農士族などの寄留民の集まりで農耕に従事していた屋取集落だった。集落の東側に位置する高く盛り上がったタカンニグーフに最初にサーターヤーを作り、この場所に拝所を設け、農耕土地の守り神である土帝君を祀っていた。タカンニグーフからは集落の全体や東シナ海も見渡せる見晴らしのよい場所だった。土帝君は千原屋取集落では最も重要な拝所となり、毎年旧五月五日には、ここに村中の人々が集まって盛大な行事を行うようになった。それぞれが、酒やごちそうを持ち寄ってきてお供えし、豊作を祈り、三味線や太鼓を打ちならし、歌をうたってにぎやかに過ごした。タカンニグーフは現在では飛行場滑走路になっており、黙認耕作地のこの場所に移して、毎年の拝みの行事を続けている。戦前には兵士の出征の武運長久もこの土帝君に祈願していた。
この合祀所では旧千原村の若者が旧盆にエイサーの演舞を奉納している。1800年頃に首里、那覇、久米村等から移住して来た人々によって小集落が形成され、その後20年程後には7~8世帯となり、その人たちが寄り集まって、祖先の御霊に対する供養と字民の娯楽のためにヤイサー (エイサー、千原ではヤイサーと言っていた) を旧暦7月15日のウークィ (精霊送り) の際に奉納舞踊として行い始めた。若者たちが土帝君に集まり、そこで踊りを奉納した後、各家々を廻り、祖先の供養と字民の健康・繁栄及び豊作を願う大切な旧盆行事として定着した。千原のエイサーは有名で、他村へ派遣もしていたが、その際にはここでエイサーを奉納し、派遣の往復の安全を祈ったという。その他、旧暦12月24日の御願解き (ウガンブトゥチ) でも拝まれている。
井戸拝所
向かって左には旧千原屋取集落にあった四つの井戸を形式保存して祀っている。右から
- 小港井戸 (クンナトカー): 集落南側、砂辺との境界線の海岸にはクンナトゥグムイ(小港池)があり、牛馬を浴びせたり、芋などを洗ったり、また、洗濯や水浴びなどにも利用されていた。その背後は、小高い岩山になっており、岩山には豊富に水の薄き出る泉水の小港井戸 (クンナトカー)があった。
- 金城前井戸 (カナグスクヌメーヌカー): 集落中央西側の民家少ない地域にあった井戸
- 源河井戸 (ジンカカー): この合祀所の近く、集落の北西になり、源河 (ジンカ) の屋敷の後方の源河ヌ後毛 (ジンカヌクシヌモー) にあった釣瓶井戸 (チンガー) になる、源河ヌ後毛では旧暦4月25日のアブシバレーの日に、竹のさやなどに害虫を入れて、野国川から海上へ向けて流し、豊作を祈った。祈願後、河ヌ後毛に集って、ニー セー (青年) たちがすもうを取ったりして過ごしたという。
- 渡口井戸 (ワタイグチヌカー): 千原屋取に移住してきた当初は、この井戸が多く使われて、四つの井戸の内でムトゥートゥガー (元井戸) 的存在だった。柄杓 (ニーブ) で汲むニーブガーだった。資料の民俗地図にはこの渡口井戸の記載がないのだが、野国川に渡口 (ワタイグチー) と呼ばれた橋が架かっていたので、その付近にあったのではと思う。この渡口はシマブクマーチューヌサチとも呼ばれ、昔から、砂辺、千原、兼久、水釜の浜辺に面している集落の人々が、野国川を越して行く場合の渡り場所で、南の千原、砂辺方面からは、嘉手納製糖工場へ歩いて通う近道になっていた。
井戸拝所の後方に道 (写真左下) があり、畑には続いている。黙認耕作地だ。
竜宮神へのお通し
合祀所の入口にも拝所がある。竜宮神への遥拝所 (お通し ウトゥーシ) で、ここから海岸の大岩のトゥビラジーにある神体のトゥビラジービジュルを遥拝をしている。大岩にはトベラという植物が生育している事からトゥビラジーと呼ばれ、旧9月9日に拝んでいる。
千原郷友会
1957年 (昭和32年) のコザ市のエイサーコンクール出演を機会に郷友会結成の気運が高まり、伝統芸能 (千原エイサー) を継承する必要あるという字民からの声や強い要望で、1960年 (昭和35年) に千原郷友会が結成され、伝統行事などの継承と会員の親睦を図るために諸活動や冠婚葬祭などの相互扶助を中心に会活動を行っている。旧字千原の全域は嘉手納飛行場に接収されたままで、旧住民は字嘉手納や読谷村に住んでおり、千原郷友会の事務所は嘉手納ロータリーに置かれている。
戦前までは千原集落の中央付近に1941年 (昭和16年) に建てられた宇事務所があった。その落成祝いは、二日間にわたって、住民総出で演芸を催し、盛大に行われた。この字事務所は、集会や諸行事の他、当時、盛んに栽培されていた百合球根集荷所として利用されていた。
千原合祀所を見た後、国道58号線を北上して水釜に向かう。
参考資料
- 千原誌 (2001 千原郷友会)
- 北谷村誌 (1961 北谷村役所)
- 嘉手納町史 資料編2 民俗資料 (1990 嘉手納町教育委員会)
- 嘉手納町史 資料編5 戦時資料 (2000 嘉手納町教育委員会)
- 嘉手納町史 資料編6 戦時資料 (2003 嘉手納町教育委員会)
- 嘉手納町史 資料編7 戦後資料 (2010 嘉手納町教育委員会)
- 嘉手納町史 資料編8 戦後資料 (2020 嘉手納町教育委員会)
- 嘉手納町分村35周年記念誌 (1983 嘉手納町役場)