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旅する身体

方向性の話

2019.02.03 13:56

ここ最近は『方向性』がテーマだ。



方向性は、意識や気といったワードと似たような感じがするが、今の自分には方向性がしっくりくる。「意識を向ける」、「気が向く」といった表現もあるが、微妙に違う。



身体術では、方向性が向いてないで動くのと方向性が出ていて動くのでは雲泥の差と言っても良いほど動きの質が変わってくる。



身体が動き始めてから方向性が出てもすでに遅い。方向性が向いてもう到達していて、身体が動く。




身体ではないが、自然に関して、以前ツイッターでこう呟いた。


『自然は方向性を持っている。雨は地に向かい、火は天へと昇ってゆく。山という傾斜があれば雨は水に変わり緩やかに流れる。種は飛翔から落ちて土と共に育み、やがて木となり伸びてゆく。木々も様々な方向に伸びてゆく。寄せてはかえす波。個体、気体、液体。様々な現象は方向性がある。人も方向性が出ればまた違った身体になる。方向性をなくして方向を行こうとすると、方向性を見失ってしまう。方向性は出しておくと、向かった先が違っても見失う事はない。』




ここから分かる事は、自然は一定の方向性だけではないという事。様々な方向性を持ちながらも調和を保っている。




これを身体に置き換えると、慣れないうちは方向性がぶつかってしまい、お互いの足を引っ張り合ってしまう。はじめの稽古段階では、方向性は一つで、徐々に増やしていきそれぞれが癒着しないで方向性が向いてくれれば良いのではないかと思う。




例えば、持たれた手を押し返すという動きでもヨイショと押すとどうしても相手に動きが伝わる前に分かってしまうので対処されやすい。しかし、方向性が向いている感覚で手を差し出す位にして動くと相手は崩れてしまう。動く時のまとまり方と力(エネルギー)の伝達が方向性を出す事によって変わってくる。



方向性は迷いを祓ってくれる効果もある。

何か動きをする時に、「行けるかな」、「出来るかな」、「ダメそうかも」、といった余計な考えが入る事は誰しもが経験している事であろう。この迷いが、動きを実現させている。迷った時は大抵動きが上手くいかない事が多い。それは、迷いは行動自体にも迷いを起こしてしまっているからである。予言の自己成就ではないけれど、大抵迷いが頭をフッと過ぎった時は失敗、もしくは自分の納得のいく動きは出来ないと思う。ただやるという事が一筋縄では行かない事は、何かに挑戦した事のある方なら納得して頂けると思う。

方向性はそんな迷いを払拭して、結果的にただやる事に集中している状態に近いものがあると実感している。先ほどのワードに関して言えば、「意識を向けて」というと私の感覚では意識を向けた先に捉われてしまう感じがある。「気が向く」というのは、キッカケであり少し弛みがある感じがする。アソビといってもいいかもしれない。適度な張りが方向性には感じられる。そこら辺の微妙なニュアンスの違いなのかも知れないが、その微妙がここでは重要になってくる。



生きている事そのものが方向性を持っている。ただ、その方向性が、必ずしも快適で調和のとれた状態であるかというとそうではない。方向性が受け身の状態でいると、流された状態になってしまう(ダラけ過ぎて疲れてしまうパターン)。方向性が受け身でも、その受け身を積極的に観ていく事で、みえてくるものがある(ヨガでいうシャバアーサナに近いもの)。身心を調和には、方向性を観ていく事が重要なのかもしれない。