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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

ショパン、パリで挫折と天使

2019.02.04 07:06

ショパンにピアノを子供の頃に教えた姉ルドヴィカはショパンと離れ離れになってから

いつの間にか25歳になっていた。

彼女はショパンがどこの国にいようとも手紙を弟フレデリックに書いてフレデリックを支

え、フレデリックには音楽で身を立てるように励ました。

彼女もフレデリックと同じようにワルシャワの音楽院でヴォイチェフ・アダルベルト・ジヴ

ヌィにピアノを習い、ショパンンは音楽と文学の才能がある姉ルドヴィカをとても慕ってい

た。

ルドヴィカはワルシャワでピアノを買って与えられないと父ニコラはパリにいる息子フレデ

リックに節約を常にするよう説教をした。

ルドヴィカは1832年9月28日に弁護士でワルシャワ公国の大佐ユゼフの息子であるヨゼフ・イ

ェンドルジェフヴィツと結婚した。

そして、その頃、ワルシャワのエルスネルはショパンが演奏家としてのデビューはしたもの

の肝心のオペラを1作も書いてないことを心配していた。

エルスネル先生はショパンにオペラを書くには、すべての民族の文化と詩人と作曲家の結合

と努力に尽きると話した。

そして、ポーランドの詩人であるミッキェヴィチ程度の人間と討論できないショパンとその仲間たちも情けないものだとエルスネルはショパンを奮起させたかった。

ショパンにエルスネル先生はまだたくさん教えたいことがあるのだと自分がパリへ行ってシ

ョパンに会いたいけれど、それが出来ない悔しさで感情が高ぶったのだ。

ショパンが以前エルスネル先生に話していたアイディアの〈悪魔の合唱〉と名付けたモチー

フを〈天使の合唱〉と変えてしまったことを、ショパンが美しさを求めてそうしたのではな

い、それはショパンがパリに染まって挫折し、オペラを諦め志が低くなったのではないかと

エルスネル先生は本当に悲しかったのだ。


アダム・ベルナルト・ミツキェヴィチ( 1798年12月24日 - 1855年11月26日)ポーランド

国民的ロマン派詩人 政治活動家

旧ポーランド東部のノヴォグルデク(現ベラルーシ、ナヴァフルダク)生まれ

父は弁護士、1807年から1815年にかけてドミニコ会の修道院で学ぶ。ヴィリニュスにあるステファン・バトリ大学で学ぶ。学生時代にポーランドのロシア帝国からの独立を目指す若者による政治・教育地下組織の共同設立者の一人となる。1823年にロシアによって逮捕され、1824年にロシア領内への追放刑を受ける。その後、サンクトペテルブルクで文芸サークルに所属し詩作を始める。

1829年にロシア出国を認められる。ドイツのヴァイマルでゲーテに会う、その後、イタリアに向かい、最終的にはローマで創作活動を行った。ここでミツキェヴィチの代表作ともされる叙事詩「パン・タデウシュ」を執筆。

1830年ポーランド11月蜂起に思想的な影響を与えた。

1832年にはフランス(七月王政期)のパリに移る。

(ショパンのバラード1番から4番はミツキェヴィチの愛国的な詩に啓発されたと言われてきたが、それはシューマンがショパンから聞いたという信憑性に欠ける説から始まっている。

なぜなら、元々、ショパンはシューマンの曲と物語をこじつける評論を嫌っていた。シューマンにショパンが自分の曲についての真意を話したとは考えにくい。

実際、標題音楽のように詩と曲との関連を明確に見いだせる箇所は存在しないと近年は考えられていて、例えばミツキェヴィチから何らかの影響を与えられたとしたら、それは文学が持つ雰囲気や色調や表現ではないかと考えられている。)

ワルシャワ大劇場1839年頃

(Teatr Wielki w Warszawie)はポーランドの首都ワルシャワにある劇場。ポーランド国立ワルシャワ室内歌劇場の本拠地としても知られている。

1833年に落成し、杮落としはロッシーニの『セビリアの理髪師』。1939年のワルシャワの戦いにより劇場は甚大な被害を受け焼失した。1965年に再建。


現在のワルシャワ大劇場 

(建築家 Antonio Corazzi, Chrystian Piotr Aigner, Bohdan Marconi)


 エルスネル先生はショパンに将来帰って来てほしかったのではなかろうか。

現在も変わらぬ面影を残す。ショパンはここへは帰って来れなかったのだなと思い巡らす。