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こうの一郎 公式サイト|幸福実現党

こうの一郎 3才の時に生死を彷徨う!

2013.12.04 01:40

  (前回11月8日の続き)

 3歳のとき、宮崎市内から名古屋市の緑区有松町に引っ越していきました。新しい家ができるまでは名鉄沿線の借家に住んでいたのを覚えています。とても狭く、家族6人で暮らしていました。

 楽しみは、家族でいっしょに近くの銭湯 に行くことでした。大きなお風呂と富士山の絵がありました。風呂上りに飲む瓶入りコーヒー牛乳のおいしかったこと!

又、電車をよく祖母と見て喜んでいました。

 新築の家ができてすぐ、イチローは生死を彷徨う病気になりました。ほぼ一ヶ月間原因不明の40度の熱が続いていました。2つの町医者で2週間2週間治療を受けましたが、原因がわからず、このままでは助からないということで、大学病院で検査を受けました。

 診断の結果は「腸チフス」でした。即隔離病棟で1カ月入院生活、母が付き添いをしてくれました。その当時の『腸チフス」の治療は体内の悪い血を抜き、新しい血をつくることで、毎日注射器で血を抜かれていたのを覚えています。

 入院最初のごはんがお粥のお汁だけでした。全くごはん粒が入っていなかったことを覚えています。大好きなテレビ番組「鉄人28号」が見れずにわがままを言って母を困らせていました。

 入院中もはじめは高熱が続き、何度か幻想を見ています。自分が2階窓から飛び、空を飛んで自宅に帰ったことや姉達と一緒に遊んできたとか隣の病室に姉達がいるなど幻想と現実との差がない感覚です。

 ほとんどベッドから起き上がれない状態でしたが、おかゆのお汁だけのごはんから普通のおかゆになり、だんだん体力も少し回復し、やっと歩けるようになった時、母達がすごく喜んでくれたのを思い出しました。

 退院前は、一人で2階から1階へ降りたのを覚えています。そのころは食事も普通のごはんになっていました。ほぼ一ヶ月退院できました。

 それから20年後の出来事ですが、初めて通る道路ですが、すごく懐かしく、『ここ覚えている!」と直感が働き、家に帰って考えたら、3才のとき隔離された病院でした。人間の記憶はすごいなと痛感しました。

 退院時はガリガリに痩せていました。祖母が泣いて喜んでくれたのを覚えています。祖母はもう助からないと思っていたようです。父からは「骨皮筋衛門」と言われましたが・・・

 小中学校の成績が兄弟姉妹の仲で一番成績が悪かったの理由を「幼いとき1ヶ月近く40度の高熱が続いたため、頭が悪くなった!」と断定されていました。姉達からも言われたことがあり、長くトラウマになっていました。

 3歳のときなので、家の状態などは分かりませんが、そのあと、幼稚園に2年間行く予定でしたが、一年しか通えず、幼稚園中退!小学校入学前まで家に居たこと、これを機に母が働きに出たりしたことを考えると、金銭的には苦しい時代だったように感じます。

 イチローの入院でかなり家計が厳しくなったのは間違いないと思います。家族に心配をかけたことも含め、まだまだ感謝が足りません。

 「あと一週間大学病院にいくのが遅ければ、アウト、天国に還っていたとこだった」と大学病院の先生に言われたそうです。危なかったです!

 今が元気一杯で、大学も体育科卒です。体の弱い幼い時と正反対の人生です。鍛えないといけないと思って頑張ったのかな!!人生何が効するか分かりません