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ZIPANG-3 TOKIO 2020 ~平成最後のお伊勢参り~「『平成』から次の時代へ 感謝と祈りのお伊勢参は 『常若』の精神に通ずる!」

2019.02.09 19:50

はじめに 記事をお届けするに当たり、先の北海道における地震災害、関西地方ならびに中国四国・九州地方における大雨・地震災害で未だ行方不明、並びに亡くなられた皆様のご冥福をお祈りするとともに、被災された全ての方々に心よりお見舞い申し上げます。


伊勢神宮内宮 宇治橋 冬至

伊勢神宮内宮 宇治橋 下から見上げても美しい宇治橋の橋脚。

伊勢神宮内宮 御手洗い場


~「平成」から次代へ 感謝と祈りのお伊勢参り~


本年は、約 200 年ぶりとなる天皇陛下の生前御退位及び皇太子殿下の御即位が行われる予定であり10連休となる中、「国民こぞって言祝ぐ」雰囲気になることが予想されます。


また、伊勢神宮は皇祖神である天照大御神を祀っており、正宮は一般的には日頃の感謝を伝える場所とされていますので、平成を無事に過ごせたことへの感謝と次代も無事に過ごせますようにと祈りに、日本人の「心のふるさと」と称される伊勢神宮へ訪問する絶好の機会となります。


伊勢神宮では 20年に一度の式年遷宮により、社殿をはじめ御装束( おんしょうぞく) 神宝 (しんぽう )をそのままの形で新しく造り替えます。

伊勢神宮内宮正宮

ここには、『常に若々しく瑞々しいままで永遠に』という「常若」の精神が息づいています。新しい元号になるこの時期に、感謝の地“伊勢”を訪れることは、この「常若」※の精神に通ずるものがあるのです。

※「常若」とは、伊勢神宮では 20 年に一度の式年遷宮により、社殿をはじめ御装束(おんしょうぞく)、神宝( しんぽう) を そのままの形で新しく造り替える行事でその精神を表します。


伊勢神宮社殿の建築

正宮は正殿を中心にして、瑞垣(みずがき)・内玉垣(うちたまがき)・外玉垣(とのたまがき)・板垣(いたがき)の四重の垣根がめぐらされ、その建築様式は、唯一神明造(ゆいいつしんめいづくり)と呼ばれます。唯一神明造は、日本古来の建築様式を伝え、ヒノキの素木しらきを用い、切妻(きりつま)、平入(ひらいり)の高床式の穀倉(こくそう)の形式から宮殿形式に発展したものです。屋根は萱葺(かやぶき)、柱は掘立(ほったて)など、その姿は簡素にして直線的で、素木の美しさを最も輝かせる建築様式と言えます。


唯一神明造りの特徴について

1.ヒノキの素木造りであること
2.丸柱の掘立式で礎石を使用しないこと
3.切妻・平入の高床式で棟木(むなぎ)の両端を支える 棟持柱(むなもちばしら)があること
4.萱葺の屋根の上には鰹木(かつおぎ)が置かれていること
5.千木は屋根の搏風(はふ)が伸びた形状であること


内宮と外宮の違いについて

神宮の社殿の中でも両正宮の正殿は、その規模が格別に大きいことや、外に高欄(こうらん)※が廻らされ居玉(すえだま)※が飾られていることなど、別宮以下の社殿とは特徴が異なります。また内宮と外宮の正宮は、殿舎の配置、構造など、ほとんど変わりませんが、細部には相違点があります。

※高欄(こうらん) 建物の外縁などに縦横に材をわたした、人の墜落を防ぐ手すりです。
※居玉(すえだま) 内宮(ないくう)と外宮(げくうの)正殿(しょうでん)の高欄(こうらん)に取り付けられた玉。青、黄、赤、白、黒と5色があります。


「内宮」「外宮」の相違点

内宮の正殿の構造は京呂組(きょうろぐみ)、外宮は 折置組(おりおきぐみ)。 

内宮の正殿の鰹木は 10本(偶数)、外宮は 9本(奇数)。

内宮の千木は 内削(うちそぎ )、外宮は外削(そとそぎ)。

内宮の東・西宝殿は正殿後方の左右、外宮は正殿前方の左右。


妻側から見た図(説明上棟持ち柱を除いています)


左:内宮正殿 右:外宮正殿

その他にも内宮のみあるものとして、中重鳥居(なかのえとりい)の八重榊(やえさかき)、内玉垣の東腋門(ひがしわきもん)、瑞垣と内玉垣の間の蕃垣(ばんがき)、外宮のみにあるものとして、御饌殿、外幣殿(げへいでん)が挙げられます。(内宮の外幣殿は御垣の外にあります。)


伊勢神宮について

「お伊勢さん」「大神宮さん」と親しみを込めて呼ばれる伊勢神宮は、正式には「神 宮」とお呼びします。神宮には、私たち国民の大御祖神(おおみおやがみ)として崇敬を集める天照大御神をお祀りする内宮と、衣食住を始め産業の守り神である豊受大御神(とようけのおおみかみ)をお祀りする外宮を中心に、14ヶ所の別宮、43ヶ所の摂社、24ヶ所の末社、42ヶ所の所管社があり、全125ヶ所の宮社をふくめて神宮と総称しています。

「若宮神社」
瀧原宮の東、石段を上がった場所に立つ所管社です。ご祭神は詳らかではなく、天水分神(あめのみくまりのかみ)との伝説が残ります。

内宮神楽殿
宇治橋から正宮に至る参道の中間地点、左側にある銅板葺、入母屋造の建物が、内宮神楽殿です。向かって左側からお神札授与所、ご祈祷受付、御饌殿(みけでん)、神楽殿となっています。 お神札授与所では、お神札、お守りを始め神棚等の授与を、ご祈祷受付では御神楽(おかぐら)、御饌などのご祈祷のご奉仕や次期式年遷宮に向けた御造営資金の奉納を承っています。 また、参拝記念の御朱印もここでいただけます。


伊勢神宮の歴史・文化

瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)以来、天照大御神は天皇のお側で(皇居の中で)お祀りされていましたが、第10代崇神(すじん)天皇の御代、御殿を共にすることに畏れを抱かれた天皇は、大御神を皇居外のふさわしい場所にお祀りされることを決意され、皇女豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)は大和の笠縫邑(かさぬいのむら)※に神籬(ひもろぎ)※を立てて大御神をお祀りしました。

※笠縫邑(かさぬいのむら)とは、現在の奈良県桜井市と考えられ、檜原神社(ひばらじんじゃ)や多神社(おおじんじゃ)などが比定地(ひていち)として挙げられます。

檜原神社 (別名: 日原神社)
崇神天皇は天照大御神を豊鍬入姫命に託され伊勢の地に御遷宮された後も今尚、その御蹟を尊崇し、大神神社を結ぶ山の辺の道中「倭笠縫邑」(やまとかさぬいむら)に「元伊勢」として、祀られています。


※神籬(ひもろぎ)とは、神霊の依り代(よりしろ)となる施設のこと。四方に青竹や榊(さかき)を巡らし、中央に幣(ぬさ)を取り付けた榊を立てます。


その後、第11代垂仁(すいにん)天皇の皇女倭姫命(やまとひめのみこと)は豊鍬入姫命と交代され、新たに永遠に神事を続けることができる場所を求めて、大和国を出発し、伊賀、近江、美濃などの国々を巡り伊勢国(現在の明和町大淀)に入られました。
そして倭姫命は佐々夫江行宮を造り、カケチカラ行事の発祥※となる伝説が創られたのです。

 ※カケチカラ行事の発祥とは、一羽の真名鶴が根は一株で八握穂に茂っている稲を示し、倭姫命がそれを大神に捧げたという伝説があり、懸税(かけちから)/毎年10月に伊勢神宮で行われる神嘗祭で内垣に掛けられる稲束)の発祥の地とされ、記念碑が建てられています。

国の永遠 の繁栄を祈る懸税(カケチカラ) 行事の発祥の地(明和町)。


『日本書紀』によると、そのとき天照大御神は「この神風の伊勢の国は、遠く常世から波が幾重にもよせては帰る国である。都から離れた傍国ではあるが、美しい国である。この国にいようと思う」と言われ、倭姫命は大御神の教えのままに五十鈴川の川上に宮をお建てしました。
これが斎王と明和町との御縁となり、斎王制度が確立しました。
斎王が天照大神に仕えた場所・斎宮は、伊勢神宮からおよそ15キロメートル離れた伊勢神宮領の入口(明和町)につくられました。


このように天照大御神は永遠の御鎮座地を伊勢に得られたのです。これが二千年前にさかのぼる、皇大神宮御鎮座の歴史です。『皇太神宮儀式帳(こうたいじんぐうぎしきちょう)※』には豊鍬入姫命と倭姫命のご巡行地の記載があり、14ヶ所の比定地があげられています。

※皇太神宮儀式帳とは、延暦23年(804)宮司大中臣真継(おおなかとみのさねつぐ)らが神祇官(じんぎかん)に提出した上申文書。祭儀、鎮座の由来などについて記した重要な神宮資料です。


1三輪の御諸の宮(みわのみむろのみや)2宇太の阿貴の宮(うだのあきのみや)
3佐佐波多の宮(ささはたのみや)4伊賀の穴穂の宮(いがのあなほのみや)
5阿閇拓殖の宮(あへつみえのみや)6淡海の坂田の宮(おうみののみや)
7美濃の伊久良賀波の宮(みののいくらがわのみや)8伊勢の桑名の野代の宮(いせのくわなののしろのみや)9鈴鹿の小山の宮(すずかのおやまのみや)10壹志の藤方の方樋の宮(いちしのふじかたのかたひのみや)11飯野の高宮(いいののたかみや)12多気佐々牟江迤の宮(たけささむえのみや)13玉岐波流磯の宮(たまきはるいそのみや)
14佐古久志呂宇治の家田の田上の宮(さこくしろうじのやたのたがみのみや)


明和町(斎宮)の海と遺跡

斎宮とは?

竹の都 斎宮(さいくう)。それは、天皇に代わり、伊勢神宮の天照大神に仕える斎王の住まう所でありました。


そこは碁盤の目状に道路が走り、木々が植えられ、伊勢神宮の社殿と同じく清楚な建物が100棟以上も建ち並ぶ整然とした都市で、そこには斎宮寮を運営する官人や斎王に仕える女官、雑用係などあわせて500人以上もの人々が起居し、当時の地方都市としては『遠の朝廷(とおのみかど)』と呼ばれた九州の太宰府に次ぐ規模を持っていました。


また、斎王を中心とした都市であることから、斎宮では貝合や和歌など都ぶりな遊びが催されました。また、都との往来もあり、近隣の国からさまざまな物資が集まるこの地方の文化の拠点でもあったと考えられています。


斎宮跡の規模は東西およそ2キロメートル、南北およそ700メートル。これを、日本の都であった平城京・平安京や、斎宮が栄えた時代とほぼ同時代の地方都市である大宰府と比べると上図のようになります。


平城京や平安京はもちろん日本の『首都』であり『遠の朝廷』と呼ばれた太宰府は、都から遠い九州を統治し、大陸に対する防衛の役目を持つ『小政府』のようなものです。


一方、斎宮は伊勢神宮の天照大神に仕える斎王のためだけの都。
斎王の在任中のみ構成される斎宮寮には13の司があり、120人以上の役人をはじめ、斎王の世話をする女官、雑用係を会わせて500人を越える人々がいました。これは、当時の諸国を治める国府よりも遙かに大きな規模でした。

三重県・明和町で斎王を偲んで、毎年6月の第1週末の2日間にわたって開催される「斎王まつり」斎宮にて

斎王と役人と女官「斎王まつり」にて

 斎王の代が代わるごとに新しく造営された斎宮は「延喜式」等の記録や発掘の結果によると、碁盤の目状に道路が走り、大垣や溝、植樹が整備された整然とした都市であったことがわかってきました。そしてその内部は、斎王とその世話をする人々が暮らす内院、斎王に関する事務を処理する役所である斎宮寮の庁舎がある中院、官舎や官人の居宅が並ぶ下院に別れ、総数100棟以上の建物が建ち並んでいたと考えられています。


明和町には史跡斎宮跡などたくさんの遺跡があります。しかし、皆さんがご存知の遺跡は町の南部に限られ、大淀地区など海岸部にも遺跡があることはあまり知られていません。


大淀、地名の由来は地形にあり !? 

明和町内には、斎王や倭姫命に関わる伝承地が点在し、一部は日本遺産「祈る皇女斎王のみやこ斎宮」の構成文化財に認定されており、関係性の深さを物語っています。


特に大淀地区は天照大神の鎮座の地を求め諸国を旅した倭姫命が上陸された場所と伝わるとともに、斎王が伊勢神宮で行われる神嘗祭に赴く前に禊を行った地です。倭姫命に関わる神話をまとめた『倭姫命世紀』によると、大淀に関して次のように記述されています。


「…風浪無くして、海の塩大与度に与度美て、御船をして幸行せしむ。その時倭姫命悦び給ひて、その浜に大与度社を定め給ひき…」


この神話が「大淀」という地名の由来になっています。
さて、どうして倭姫命は大いに淀んだ海に喜んだのでしょうか。また、どうして淀んでいたのでしょ うか。その謎を解くヒントが、実は地形に隠されています


明和町参照文によると


中でも④番が、今回の謎に大きく関係しています。
古代の船は、現在の船と違い護岸に着岸することはできません。現代の港では、大きな 船が港内深く進められる水深が求められます が、古代の場合は浜に上陸していました。浜 に上陸する場合、大きな波が打ち寄せる外洋に面した場所よりも、入り江状の波が静かな場所の方が好都合でした。


このような条件で見た時、大淀は大きな砂堆が形成され、伊勢湾と台地の間に袋状になった静かな入り江が存在した可能性があ り、まさに倭姫命が大いに喜ぶ「良港」だったのではないでしょうか。こうした地形によって、大淀という地名が生まれるとともに、古くから良港によって地域が繁栄してきたといえます。


昭和 23 年に撮影された古い航空写真をもとに、明和町の海岸部の地形を推定してみましょう。地図からはいくつかの事実がわかってきます。

①大淀・行部・川尻に砂堆と呼ばれるかつての海岸の痕跡が複数確認できます。
②下御糸地区周辺には、現在の祓川に関わる昔の川の流れがいくつも見られ、何度も川の流れが大きく変わっています。
③現在の集落や遺跡は、砂堆や自然堤防の上にあり、比較的自然災害に強い場所に立地しています。
④大淀に形成された砂堆の奥の部分には広大な後背湿地もしくは潟湖が存在した可能性があります。


 

参考

長崎県国境の町「対馬」の例

対馬「西漕手(にしのこいで)」 ~万葉の時代の港~

 古代、日本本土から最初につく港です。

小船越は三浦湾から小さな丘を隔てて浅茅湾の西漕手に接しています。小船越の地名は古くからこの丘を船を引いて西に越え東に越えていたことに由来します。かつて遣隋使や遣唐使などは、九州本土から三浦湾に来て、西漕手に用意されていた別の船に乗り換えて大陸に向かったと言われています。


続く・・・


協力(順不同・敬称略) 

神宮司庁 〒516-0023 三重県伊勢市宇治館町1電話: 0596-24-1111

三重県庁 〒514-8570 三重県津市広明町13番地 電話番号:059-224-3070

明和町 斎宮跡・文化観光課 〒515-0332 明和町大字馬之上945番地
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公益社団法人伊勢志摩観光コンベンション機構 〒519-0609 三重県伊勢市二見町茶屋111-1
伊勢市二見生涯学習センター1F 電話番号 0596-44-0800

一般社団法人 対馬観光物産協会 〒817-0021 長崎県対馬市厳原町今屋敷672番地1
観光情報館ふれあい処つしま TEL 0920-52-1566 



鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」の明和町観光大使
石川県 いしかわ観光特使


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石川県 いしかわ観光特使