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Okinawa 沖縄 #2 Day 286 (09/04/25) 嘉手納町 (5) Nozato Hamlet 野里集落

2025.04.10 15:42

嘉手納町 野里集落 (ヌジャトゥ、のざと)


字嘉手納の散策で、野里合祀所を訪れたが、字野里は嘉手納飛行場となり、かつての集落は消滅してしまった。旧野里住民が嘉手納町野里共進会を設立して、土地管理、文化継承、旧野里住民の交流を行っている。共進会が2004年に発行した字野里誌に野里の歴史等が詳しく記されている。


嘉手納町 野里集落 (ヌジャトゥ、のざと)

野里集落は戦前まで存在していたが、沖縄戦後、全域が米軍嘉手納基地として接収されたままで、旧野里住民の多くは字嘉手納に住んでいる。戦前の野里は西は県道を隔てて野国に隣接し、北は耕地で屋良に接し、東は昔は野里に属していた国直、上原集落があり、南は野里馬場を経て北谷村下勢頭に接していた。野里の大部分の住民は野国川の南の方に住み、戦前の野里集落は戸数約300余で、北谷村の中では最大の戸数を擁する大集落だったが、沖縄戦で集落は破壊され、戦後、米軍の占領により住民は離散し、全域が米軍の嘉手納飛行場となっている。

野里集落の始まりについては時期などは不明だが、野国の中の野里と呼ばれた原に人が移り住み、次第に集落の形となっていき、1671年に野国村から分離独立して野里邑が成立したと考えられている。

文献では、野里脇地頭の中真 (野里)親雲上安宣(毛氏七世池城家 1674 ~ 75年)、続いて野里親雲上安奇 )毛氏八世池城家 1675 ~ 83年) が野里の名が表されている最初で、1671年に宜野湾間切が創設された際に、邑の編成が行われた際に、野里邑ができ、脇地頭が任命されたと解釈されている。

琉球国由来記 (1713年) には「野里村 ヨシノ嶽 (野里巫)」「カデカスノ獄 (野里巫)」「野里巫火神 (野里巫)」とあり、琉球国旧記 (1731年) には北谷郡 (領邑十二座) として野里邑が記載され、野里殿、西殿、東殿 (共三殿在野里呂) とある。初期の野里集落はヨシノ嶽をクサティー (腰当て、聖域) としてしてその南側に集落があったとされる。

戦前の野里集落は碁盤目状に区画されており、この様な集落は、蔡温が三司官を勤めていた1737年 (第13代尚敬王) に導入されたとされる地割土地制度以降に成立、再整備された事から、これ以降に、元の集落地から現在地に移り村を碁盤目状に再整備したと考えられる。

野里にはその東に離れた地に国直 屋取集落があった。最初の居住者は野里邑の知念家の人で、それ以降に、首里などからの帰農土族が移り住み集落が形成されたと思われる。1915年 (大正4年) には野里から国直屋取集落が分離独立し字国直となっている。

戦前の野里の主要産物はサトウキビとサツマイモで、それについで大豆が生産され、これら産物が生産の殆どを占めていた。野里には当初6組(当間組、仲組、リンドウ組、東組、新組、新東組)、6ヶ所のサーターヤー(製糖場)があった。後になって4組(新屋組、幸地組、島袋組馬場組)が新たに組織され、戦前にはサーターヤーも合計12ヶ所を使っていた。

沖縄戦が予想される中、旧日本軍は制空権の奪還の目的で沖縄諸島に飛行機場の建設に乗り出していた。1944年 (昭和19年) 嘉手納村では中飛行場 (嘉手納飛行場) の建設が始められ、土地は旧日本軍に接収され、野里など近隣の集落始め、全国から勤労動員された人達が、野国、野里、屋良、兼久にの民家を宿舎として工事に携わっていた。日本兵もこの地に送り込まれ、野里の民家、村屋、サーターヤーが兵隊の宿舎となっていた。1944年 (昭和19年) 10月10日には中飛行場、野里共同精糖場、軽便鉄道などが空襲で大きな損害を受けたが、野里集落民家の被害はなかった。1945年 (昭和20年) 3月26日に米軍が慶良間諸島に上陸し、いよいよ沖縄本島への侵攻が迫り、27日には水釜で米軍の一部の上陸が確認されている。28日には集落住民の17才から47才までの男性は戦闘員として招集され、それ以外の住民は羽地村への避難が開始され、日本兵は村から撤退していった。避難出来ずに村に残った住民は野国川下流の古墓などに隠れていたが、米軍に見つかり保護されている。沖縄戦での野里住民の戦没者は221人で嘉手納村では最も多い。当時に野里の人口データが見つからず、戦没者率はわからないが、1200~1300人程と仮定すると、17~18%程と思われる。沖縄南部の島尻では40%以上の戦没者率の集落も多く、比較すると戦没者率は低い。(とは言っても17%も異常な率で悲劇ではある) 日本兵が撤退していた事で、大きな悲劇的な戦闘が少なかった事や捕虜としての保護が日本兵に阻止されなかった事、上陸前に山原への疎開者が多かった事など諸要因が考えられる。

戦後、捕虜収容所にいた旧野里住民に1947年 (昭和22年) に帰還許可がおり、そのの大部分が嘉手納地域 (現在の字嘉手納中央区) に帰村している。野里集落は米軍用置として開放されず、旧野里住民の多くは嘉手納の旧六区で生活している。


琉球国由来記等に記載された野里集落の拝所

主要な祭祀行事は野里巫 (ノロ) によって執り行われていた。この野里ノロの管轄中には野里、屋良、後に野国ノロが絶家し、野国祭祀も司っていた。屋良は嘉手納では最も古い村だったので、ノロが存在していた筈だが、後発の村の野里ノロが管轄していた事から推測されているのは、野里邑ができた際、邑となった地域には屋良の一部も含まれ、そこに屋良の祭祀を司っていたノロが住んでいた。それ以降、屋良のノロが野里ノロと称され、野里と屋良を管轄していたと推測されている。




嘉手納町野里共進会

字 嘉手納内、嘉手納火ヌ神屋 (ヒヌカンヤー) のすぐ東側に嘉手納町野里共進会が建っている。字 野里は地域全土が嘉手納飛行場基地に接収されたままで、旧野里住民は他の地域での生活を強いられ、旧野里の多くの住民は戦後六区だったこの地に住んでいる。野里の伝統、文化、地域の繋がりを継承する為と軍用地となった土地に管理を目的として旧野里住民の郷友会として活動が行われている。

嘉手納町野里共進会のサイトには継承している踊りが紹介されている。


野里合祀所

野里は戦後、全域が米軍に軍用地と接収され、現在でも嘉手納飛行場として返還が叶っていない。昔から戦前までは、旧野里集落には18カ所もの村拝所が存在し、村で拝んでいた。これら野里集落の拝所は嘉手納基地が整地された際にコンクリートの下に埋没している。

消滅した全ての拝所を現在の嘉手納小学校の北側の丘の一区画に集積して、旧野里住民により祭祀行事が続けられている。資料に以下のように其々の配所の説明とかつての所在地が紹介されていた。合祀所には合計で19の拝所が置かれ、琉球王国時代には野里ノロによって祭祀が行われていた。

左から見ていくと


合祀所には祀られていない拝所は




参考資料