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Okinawa 沖縄 #2 Day 286 (09/04/25) 嘉手納町 (6) Kuninao Hamlet 国直集落

2025.04.11 15:54

嘉手納町 国直集落 (クンノーィ、くになお)


嘉手納町 国直集落 (クンノーィ、くになお)

字国直は字野里の東に位置している。元々は野里村内に形成された屋取集落で、クンノーイとよばれた。

国直集落のがいつ頃から存在したかは定かではないが、野里邑の知念と称する家の元祖が最初に移住してきたとされる。仕明請地を持ち移住したか、嘉手納の耕作地不足で寄百姓として強制的に移住させられたのか、本人の願出によって移住したのかは不明だが、薩摩藩への年貢米を増産するため、原野の開拓を庶民に命じ、17世紀から寄百姓の強制移住政策をとっていたので、この頃に国直集落が始まったと考えられる。その後、首里の士族が帰農して集落が発展していった。

国直集落は街道筋を遠く離れ、地勢が高く水利にも不便な所が多く、交通も不便な辺鄙な所だった。早魃時には、遠く野国の井泉から馬で水樽に飲料水を運んでいたという。その後、共同井戸や個人で深い井戸を掘って、水不足を解消していた。昭和の始め頃には、平安山の上部落から下勢頭、上勢頭、上原を通って国直への村道が開通され、越来村の宇久田、大工廻へ通ずる道と連結し、他隣部落との間にも農道が開通し交通の不便もようやく緩和されるようになった。

国直は宇野里より1915年(大正4年)に行政字の字国直として独立した。当時は、国直カジマヤー(十字路)を中心に発展し、農業を営む簡素な村だった。後代になって国直に属するようになった屋取集落の「上原」も、同様の理由によって形成された小集落であった。

1915年(大正4年)に宇野里より独立した当時の人口はわからないが、10年後の1925年 (大正14年) には933人 (169戸) と、かつての本村の宇野里の1,110人 (259戸) に迫る程増加している。その後、1943年 (昭和18年) 頃には約130戸位に減少している。

1945年 (昭和20年) の沖縄戦では字全域は米軍に占領され、戦後、極東一の嘉手納飛行場と変わり、集落は完全に姿は消えてしまった。国直住民の戦没者は143人だが、当時の人口データが見つからず、戦没者率はわからないのだが、1943年頃には約130戸だったので、当時の人口は650人程と推定され、戦没者率は22%程と思われる。戦後、旧国直の住人は、元の村への帰還は叶わず、嘉手納を中心に沖縄市に居住することになった。

国直は屋取集落なので、御嶽や殿、村火ヌ神は存在しないが、移住後に祀られた拝所は次のとおり。

国直集落で戦前までに行われていた祭祀行事は以下の通り。



国直合祀所

野國總管宮から比謝川に沿った丘陵地の西への道がある。その道沿いは墓地になっており、その中に現在でも全域が嘉手納基地として土地を奪われた字国直の合祀所が置かれている。国直は屋取集落なので、御嶽、殿、村火ヌ神などはなく、三つの祠に水神、ビジュル、あしびなーの神が祀られている。

ビジュルは国直カジマヤー (十字路) から北に進み、国直グスクを過ぎたあたりにあった拝所。ビジュルの敷地は周囲に松の木が生え、石垣で囲まれた約40坪程で敷地は芝生で覆われていたという。このビジュルでは9月9日に国直住民が子供の健康祈願、家族の無病息災を祈願していた。

民族地図では、村内に2ヶ所アシビナーが記載されている。その一つは字の凡中ほどの前ヌ山 (メーヌヤマ) 沿いあり、その南側傾斜の下方には、村の生活用水として使用されていた下井 (シチャガー、民俗地図では前ヌ井 メーヌカーとある) がある。つるべ式の井戸で、国直住民が総出でつくったそうだ。この井戸ができる以前は、水を汲みに野国まで行っていた。合祀所も水神はこの井戸、あしびなーの神は井戸近くのアシビナーを祀っているのだろう。

国直集落は嘉手納飛行場となり、かつての集落は消え失せてしまった。

國直字誌編纂委員会が作成した嘉手納町 國直誌 (2005年) に戦前の国直集落の様子が紹介されている。集落が消滅してしまい、今では合祀所しか、国直に関わるものがなく、集落を偲ぶ事はできないので、國直誌から当時の様子を掘り起こしてみる。読み続けると、不思議に、当時の様子が想像できる。


国直カジマヤー

国直は国直カジマヤー (十字路)を中心に発展し、農業を営む簡素な村だった。この国直カジマヤーは交通の要所で、東への道は越来村呉富志を通り胡屋に至り、南は野国川のウクマガイ橋を渡り北谷の上勢頭から平安山、越来村山内へと道が続いている。北方面は青那志を経由して宇久田、大工から御殿敷へと通じていた。

カジマヤーの東には村屋が置かれ、その後、カジマヤーから嘉手納へ西に伸びる道沿いに移動している。


国直グスク

カジマヤーから北への道を進むと、越来村の宇久田大工廻に接した高い丘陵に、戦前迄は国直グスク跡があった。築城年代や城主にについての古文書など歴史資料はなく、その詳細は不明。伝承では、第一尚氏7代尚徳王 (1461 ~ 1469) が金丸 (第二尚氏初代尚円王) のクーデターで敗れ、第一尚氏の残党が密かにこの地に隠れて王家再興を図り目指し築城が始められたが、築城途中に第二尚氏の治世は安定し、世は平和となり、再興計画を断念し、築城も中止されたという。国を直すという意味で国直と名付けたという。グスク南の国直岩 (シー) との間に、練兵場を思わす広場があり、城としては規模は小さいが要城になったと思われる。この広場と平城の間には岩を掘り、堀を予定していたと思われる。この広場は明治、大正、昭和のころは闘牛場としてや、青年や生徒の運動場としても利用されていた。

グスクの近くには按司墓と呼称される古墓があり、古墓には、数基の浮彫の精巧な模様がほどこされたな石棺があったそうだ。


国直岩 (シー)

国直城と広場を隔てた南側にあった国直岩 (シー)では、戦前は、出征兵士や本土や海外への移民を見送っていた。家族や知人、国直住民が小太鼓を打ち鳴らし、ダンヂェカリュシーを唄い船送りをしていた。戦後、国直岩も屋良飛行場建設のために粉砕され平坦地となり、米軍の兵舎が建てられた。


タカンニモー

カジマヤーから嘉手納への道を西に進み、村屋を過ぎて少し行くとがあり、その辺りには多数の墓があり、国直集落住民には恐れられていた場所だった。若者達は肝試しで、タマガイ (鬼火) の見る場所だった。


ウクマガイ橋

カジマヤーから南への道を進むと、野国川に出る。そこにはウクマガイ橋という木橋が架かっていた。その後、アーチ型の石橋に架けかえられ、山内や勢頭からトロッコのレールも敷かれ甘蔗運搬が便利になった。支那事変 (日中戦争 1937 ~ 1945年) のころにアーチ型コンクリート橋に改築された。ウクマガイ橋のすぐ西には多くの墓があり、そこには龕屋 (ガンヤー) も置かれていた。夜間の通行はウトゥルドゥクル (ウトゥル=恐ろしい、ドゥクル=所) として知られ、ウクマガイ橋を一人で渡るには怖く、チュイ待ち待ち (人 [チュイ] が来るのを待って) で連れ立って渡ったという。ウクマガイ橋の下は水浴場で社交の場にもなっていた。また牛馬を洗った場所でもあった。現在でも基地内に残っているそうだ。


暗シンガー、マールーグムイ、ナーバラーグムイ

野国川には幾つものクムイ (溜池) があった。ウクマガイ橋の下流、龕屋の近くには、川南から突き出た岩の下に鉄分の多い赤茶けた浅い水溜まりがあった。龕屋があったので、子供は、恐れて、ここでは泳ぐことはなかったそうだ。ここから、野国川下流に向けては、牛馬に水を浴びせていたマールーグムイ、梅毒にかかっている人が水浴をする所で一般の人々は近づかなかったというナーバラーグムイ、国直の人々が良く使い賑やかな場所だったナガグムヤーと続いていた。


前ヌ山 (メーヌヤマ)

国直の南西の流れる野国川を挟んで、アシビナー (遊び庭) を中心に松林の前ヌ山 (メーヌヤマ)が伸びている。この場所は国直の境界線だった。前ヌ山には茅毛地で管理者以外勝手に刈ることは出来なかった。前ヌ山のその他の地域は牛、馬、山羊の草刈場として利用されていた。松の枯枝や落葉は、女子供が拾い薪として使ってもいた。国直住民の墓も多かった。山の一部は開墾し、畑としても活用されていた。



参考資料