季語が青梅の句
https://kigosai.sub.jp/001/archives/2127 【青梅(あおうめ、あをうめ) 仲夏】より
【子季語】梅の実、実梅
【関連季語】梅干、梅酒
【解説】
熟さない梅の実をいう。梅は梅雨のころ、みずみずしい浅みどりの芳香のある実を結ぶ。固くて酸味が強いが、梅酢や、梅酒、煮梅などを作る。梅干は黄をすこし帯びた実を用いる。
【来歴】
『花火草』(寛永13年、1636年)に所出。
【文学での言及】
妹が家に咲きたる花の梅の花実にしなりなばかもかくもせむ 藤原八束『万葉集』
【科学的見解】
梅(ウメ)の実は、有機酸(クエン酸など)やミネラルを多く含んでいるため、健康食品として愛されてきた。しかし、未熟な果実(青梅)や種子の中には、アミグダリンという物質が含まれており、それらを大量に摂取すると中毒を起こす場合がある。(藤吉正明記)
【例句】
うれしきは葉がくれ梅の一つかな 杜国「春の日」
実の落ちる夜の音奇なり軒の梅 太祇「太祇句稿」
青梅に眉あつめたる美人哉 蕪村「五車反古」
青梅に手をかけて寝る蛙かな 一茶「寛政三年紀行」
青梅に塩のしむ夜か蟾の声 梅室「梅室家来」
青梅や空しき籠に雨の糸 夏目漱石「漱石全集」
青梅や小房ながら清浄に 大谷句佛「我は我」
夕日いま高き実梅に当るなり 星野立子「立子句集」
摘みためて石の重みや梅の籠 長谷川櫂「天球」
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梅の実の子と露の子と生れ合ふ
中川宋淵
花が散った後、気にも留めなかった梅の枝に小さな実がついているのに気がつく。近よってみると、その梅の実にさらに小さな露の玉がついている。青い梅の実と透きとおった露がすがすがしい。植物、梅の実は水があってこそはもちろんだが、「露の子」も「梅の実の子」の柔毛?があってこそ生まれたという生命の共生への思いを込めた「生れ合ふ」だろう。(齋藤茂美)
青梅をかむ時牙を感じけり
松根東洋城
言われてみると、なるほどと思うことはよくある。歯に関する知識はないが、青梅のような固いものを噛むときには、なるほど口腔に牙のような歯があることを感じさせられる。昔の人が俗に言った「糸切り歯」あたりの歯のことだろうか。ところで、私が子供だったころには、たいていの子供は青梅を食べることを親から禁じられていた。「お腹が痛くなる」という理由からだった。戦後の飢えがあったけれども、親に隠れて僕らはよく食べたものだ。仮名草紙『竹斎』に「御悪阻(つわり)の癖としてあをうめをぞ好かれけり」とあるそうで(『大歳時記』集英社)、言われてみると妊婦には、牙をむき出して青梅など酸っぱいものに立ち向かう勢いがあり、それが実に頼母しいのである。(清水哲男)
何となくみな見て通る落ち実梅
甲斐すず江
道ばたに、いくつかの青い梅の実が落ちている。なかには人に踏まれたのか、形が崩れてしまっているものも……。それだけの情景であるが、通りかかる人はみな「何となく」見て過ぎてゆく。惜しいことにだとか、ましてや無惨なことにだとかの感情や思いもなく、ただ「何となく」見ては通り過ぎてゆくのである。三歩も行けば、誰もがみな、そんな情景は忘れてしまうだろう。こういうことはまた、他の場面でも日常茶飯的に起きているだろう。「何となく」いろいろな事物を見て過ぎて、そしてすぐに忘れて、人は一生を消費していくのだ。句は読者に、そういうことまでをも思わせる。「何となく」という言葉自体は曖昧な概念を指示しているが、作者がその曖昧性を極めて正確に使ったことで、かくのごとくに句は生気を得た。「何となく」という言葉を、作者はそれこそ「何となく」使っているのではない。情景は、その時間的な流れも含めて、これ以上ないという精密さでとらえられている。地味な句だが、私にはとても味わい深く、面白かった。『天衣(てんね)』(1999)所収。(清水哲男)
明け烏実梅ごろごろ落ちていて
寺井谷子
昔の本に「梅熟する時雨ふる、これを梅雨といふ」(『滑稽雑談』)とある。子供でも知っていることだが、私などは長い間都会で暮らしているうちに、実感的に梅雨の本意を感じなくなってしまった。しきりに梅雨と言いながら、感覚が「実梅(みうめ)」に至ることは稀である。掲句に出会って、ひさしぶりにその感覚がよみがえってきた。前夜は激しい風雨。荒梅雨。早朝に烏の声で目覚め、雨戸を繰って庭を見るとはたせるかな、懸念していたように、梅の実が「ごろごろ」とたくさん落ちてしまっていた。いまだ曇り空のあちこちでは、烏たちがわめくように鳴いている。絵に描けば荒涼たる風景ではあるけれど、このときに作者が捉えているのは、むしろあるがままの自然を前にし受容した充実感だろう。こういう実感が湧くのは、まだ人間が動きはじめない早朝だからこそである。雨の匂い、濡れた土の匂い、樹木の匂いがさあっと身体を包み込む。「ごろごろ」と落ちている梅の実の後始末なんて、実はいまは考えてはいないのだ。この気持ちを恍惚と評すると表現過剰かもしれないが、何かそれに近いような気持ちになっている。『人寰』(2001)所収。(清水哲男)
犀星の句の青梅に及ばねど
榎本好宏
季語は「青梅(あおうめ)」で夏。「犀星の句の青梅」とは、おそらく有名な「青梅の尻うつくしくそろひけり」のそれだろう。いかにも女人礼賛者の室生犀星らしく、青梅の「尻」にも女性を感じて、ひそやかなエロティシズムを楽しんでいる。もっとも、この場合の女性は、童女と表現してもよいような小さな女の子だと思う。掲句の作者は、犀星句の青梅には及ばないにしてもと謙遜はしているが、かなりの出来映えに満足している様子だ。よく晴れた日、青葉の茂みを透かして見える青梅の珠はことのほか美しく、作者はうっとりと見惚れている。見惚れながら、犀星の青梅もかくやと思ったのだろう。が、そこをあえて一歩しりぞいて「及ばねど」と詠み、その謙遜がつまりは自賛につながるところが日本人の美学というものである。しかし日本人もだいぶ変わってきたから、この句を書いてある字義通りに、額面通りに受け取る人のほうが多いかもしれない。でもそう読んでしまうと、この句の面白さは霧散してしまうことになる。どこが面白いのかが、わからなくなってしまう。やはりあくまでも、心底での作者の気持ちは犀星の青梅と張り合っているのである。実は、我が家にも小さな梅の木があっていま実をつけているが、とても尻をそろえるほどに数はならないので、こちらは字義通りに及ばない。だから、無念にもこういう句は詠めない宿命にある(笑)。俳誌「件」(第四号・2005年6月)所載。(清水哲男)
累々として今生の実梅たり
廣瀬直人
見事な句と思う。累々というのだから実梅が地に落ちている情景。「たり」には一個一個の存在感が意図されている。「今生」つまりただ一回きりの自分の生の或る瞬間の風景として実梅を見ている。品格も熟達の技術も一句の隅々まで行渡っている。ところで、今生の或る瞬間の風景として、たとえば自転車や自動車やネジやボルトやパソコンやテレビや机や椅子が「累々」としていては「今生」を意識できないか。できないとするならばなぜかというのが僕の中で持続している問題意識。「今生」の実感を引き出すのに「実梅」が持っている季語としてのはたらきや歴史的に累積してきた「俳句的情趣」が不可欠なのかどうかということ。特段に自然の草木の中に身を置かずとも僕らが日常見聞きし感じている万象の中にこそ「今生」の実感を得る契機は無数に用意されているのではないか。病床六尺の中にいて「今生」の実感を詠った子規が生きていたら聞いてみたいのだが。『新日本大歳時記』(2000)所収。(今井 聖)
あいつとは先生のこと青き梅
林 宣子
少女期の思い出だろう。禁断の実というのはオーバーだが、青い梅は腹痛を引き起こすことがあるので、たいていの子は親から食べることを禁じられていた。だが、そう言われればなおさら食べたくなるのが子供というもの。これから実ってくる木苺などに比べれば、およそ美味とは遠かったけれど、よく口にした。学校からの帰り道、幼かった作者は友だちとその青い梅を噛りながら道草をしている。いっぱしの悪ガキを気取って、先生のうわさ話や悪口に興じているのだ。先生を「あいつ」呼ばわりできるのも、こんなときくらいである。振り返れば、なんと未熟なおのれだったろうと、恥ずかしくもなってくる。と同時に、何も知らなかったあの頃のこと、いっしょに学校に通った仲良したちのことが懐かしい。一生のうちで、あの頃がいちばん良かったような気もしてくる。今年も、庭の梅がたくさんの実をつけた。みんな、どうしてるかなあ、先生もお元気でおられるだろうか。『現代俳句歳時記・夏』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)
青梅や昔どこにも子がをりし
甲斐羊子
たしかに、子供の姿をあまり見かけなくなった。全国的な少子化という客観的な裏づけもあるけれど、昔のように子供らの遊び場が一定しなくなったせいもあるだろう。昔は、子供らの集まる場所はほぼ決まっていた。青梅など実のなる木の周辺なども、その一つだった。餓えていたころには、食べられるものがどんな季節にどこにあるのか。恐ろしいほどに、よく知っていたっけ。しかし飢餓の時代であっても、青梅を口にすることは親から禁じられていた。中毒をおこすので、厳禁だという。しかし子供らは、そんなことに頓着はしない。中毒よりも満腹である。そんな子供らと親とのせめぎあいが長くつづけられている間に、気がつけば世の中は掲句の世界へと移ってしまっていた。青梅か、あんまり美味しいものじゃなかったな。『現代俳句歳時記・夏』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)
人待ちの顔を実梅へ移しけり
中田みなみ
最近は駅などで待ち合わせをしている人はほとんどややうつむき加減で手元を見ているので、人待ち顔で佇んでいる姿を見ることは少ない。人待ちの顔、とは本来、待ち人を探すともなく探しながら視線が定まらないものだが、掲出句はそんな視線が梅の木に向けられた、と言って終わっている。葉陰に静かにふくらんでくる青梅は目立たないがひとつ見つけると、あ、という小さな感動があり、次々に見えてきてついつい探してしまう、などという言わなくても分かることは言う必要がないのだ。移しけり、がまこと巧みである。他に〈爪先に草の触れゆく浴衣かな〉〈紙の音たてて翳りし祭花〉。『桜鯛』(2015)所収。(今井肖子)