加藤楸邨・竹を詠んだ句
http://e2jin.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-6b2d.html 【青竹の俄かに近く秋の風(加藤楸邨)】より
嵐山から嵯峨野へ、竹林の道を歩きました。紅葉もいいですけど、竹薮もまたいいですねぇ。
筆者が子供のころは、少し郊外へ出ると、そこらじゅう竹薮でした。京都の西郊、嵯峨野・大原野・乙訓といえばいまでもタケノコの産地なのでしょうが、宅地造成が進んで、本当に竹林が少なくなりました。これだけの竹林が残っているところは、数えるほどしかないと思います。多くの人が訪れるのもよくわかります。
ーーーーー
嵯峨の竹を詠んだ句をさがしてみました。芭蕉の【すずしさを絵にうつしけり嵯峨の竹】、【ほととぎす大竹薮をもる月夜】、【嵐山薮の茂りや風の筋】はじめ、現代俳句にいたるまでたくさん見つかりました。その中から、今回は加藤楸邨の句を鑑賞します。
【青竹の俄かに近く秋の風】(あおたけのにわかにちかくあきのかぜ)
意訳:竹林の道を歩いていたら、突然青竹が揺れてこちらに近づいてきた。あっ、秋の風だ。
この句は上五を「竹林」「竹薮」とは置かず、「青竹」と置いたところに具体性があります。季節は初秋、有名な古今集の【秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる】を念頭に、ふと秋風=秋の気配を感じた場面を句にしたものと思われます。それは「俄かに近く」に効果的に集約されています。言葉の意味だけではありません。五七五が緩・急・緩となっているのです。ローマ字で書いてみます。
Aotakeno Niwakani Chikaku Akinokaze
「あおたけ」と「あきのかぜ」は、『ア』音から始まり、「にわかに ちかく」は、『イ』音を使っています。上五から中七へ、音感を変えています。声に出してみると、急に風が吹いてちょっと驚いた、という印象を受けます。さりげなく詠んでいるようで、周到な言葉運びがされているわけです。加藤楸邨といえば芭蕉の研究者としても知られていますが、芭蕉同様、音楽としての句を評価していたことがわかります。
いい句です。
https://blog.goo.ne.jp/yomado0406/e/e30a002c6cc616a0de87e4c793ee24a6 【加藤楸邨句稿】より
俳人・加藤楸邨の自筆原稿である。本郷の住人からの預かりもので、一昨年の秋に、俳句の友達の多いオマエなら売る算段もあるだろうと言われ受け取った。
「蟬と貨車」と題された句稿には6句の俳句が書かれており、そのうちひとつは波線で消してある。
右上に「労働文化原稿」と書き込みがあるところをみると、雑誌『労働文化』(労働文化社)に寄稿したものだろう。この雑誌についてはよくわからない。
句は次の通りである。
焼けざりし夏帽の黴なつかしき(黴は草冠となっている)
蚊帳を釣る肩ばかり見え灯りぬ 桐の花この後ここに何を戀ふ
皮を脱ぐ筍青し悔いんとす 踏みはづす蚊帳をまた釣り月の中
蟬なける貨車やそのまま動き出す
これがいつ頃書かれたものかわからないが、ヒントは最後に書かれている住所にある。
「東京都品川区東品川四都立第八高女内」は、楸邨の年譜(『現代俳句の世界8加藤楸邨集』〈朝日文庫〉以下『加藤楸邨集』)によると、楸邨がこの住所に転居したのは1945(昭和20)年12月のことである。2年3か月後の48年3月には東京都大田区北千束の新居に移転している。すると、この2年3か月の間に書かれたものということになる。
この時期楸邨には2冊の句集がある。48年の『火の記憶』と『野哭』である。『火の記憶』は43年から45年までの句を収めているから、戦中に詠まれた句集である。『野哭』は45年から47年までの句稿で、終戦直後から2年間に詠まれた句を収めていることになる。三章からなる『野哭』には836句が収録されているが、私の手元にある『加藤楸邨集』では、その中から529句の収録である。これを探してみると一章の「流離抄」に4句みつかった。
まとめるにあたっての推敲によるものだろうが少し句の姿が変わったものがある(太字部分)。
焼けざりし夏帽の黴をあはれみき 蚊帳を吊る肩ばかり見え灯ともりぬ
踏み落す蚊帳をまた吊り笑ふなり 蟬鳴ける貨車やそのまま動き出す
という具合である。「桐の花」の句は見当たらない。編集の際に外されたのだろうか。また消されている「皮を脱ぐ」の句は「皮を脱ぐ筍青し腹へりぬ」として二章の「北海紀行」に収められている。
加藤楸邨は戦前・戦中・戦後を通じて、中村草田男、石田波郷らとともに人間探求派と呼ばれた俳人であり、「寒雷」では森澄雄や金子兜太という対照的な二人を初めとして多様な俳人が育っている。その中には軍部の要人(たとえば陸軍中佐で大本営陸軍部報道部員として「大本営発表」に関わっていた秋山牧車とその兄本田功中佐など)がいたこともあり、中村草田男は「芸と文学――楸邨氏への手紙」という表題で「俳句研究」(46年7・8号)で楸邨および「寒雷」が軍部から何かと便宜を受けたのではないかと、その戦争責任を指弾した。これに対して楸邨の反論もあるが、ここで触れる必要はないだろう。
この句稿は売れずにまだワタシの手元にある。
https://ameblo.jp/masanori819/entry-12675723951.html 【2021.5.21一日一季語 竹の皮脱ぐ(たけのかわぬぐ《たけのかはぬぐ》)】 より
2021.5.21一日一季語 竹の皮脱ぐ(たけのかわぬぐ《たけのかはぬぐ》) 【夏―植物―三夏】
竹皮を脱ぐやこどもはいつも旬 辻美奈子
初学の頃、沖にて一緒に学んだこともある辻美奈子氏。彼女の接している職業柄か、命を大事にし、生命力を感じられる句には秀句が多い。
この句からも、季語の持つ成長していく力と子供を対比させ、生命力溢れた句に仕上げている。俳句はわび、さびの世界、美しい物を詠む、などだけの世界では無い、普段目にする、触れ合う事からも、生き生きとした句は生まれるのです。
【傍題季語】
竹皮を脱ぐ(たけかわをぬぐ《たけかはをぬぐ》)、 竹の皮(たけのかわ《たけのかは》)、竹の皮散る《たけかはちる》、竹落葉《たけをちば》
【季語の説明】
筍(たけのこ)の成長は盛んで、昨日まで頭を出しただけの筍が、翌日にはぐんぐん伸びて、根本から皮を脱ぎます。そして、伸びるにつれて、下方の節から順に皮を脱いでいくのです、
竹皮は、天然の抗菌性と通気性に優れ、時間が経っても中身が蒸れずに美味しくいただけると、古くからおにぎりや牛肉などの包装材として重宝されてきました。
孟宗竹の皮は黒斑、粗毛ががあり剛く、細工には向かないようです。真竹の皮は包装に使い、草履や傘の材料になります。
竹の皮は葉鞘(ようしよう)が変化したもので、自然に脱落するころに採取し、用いるそうです。
【例句】
豹紋のある竹の皮脱ぎはじむ 鷹羽狩行
竹皮を脱ぐ人影をやり過し 伊藤登紀
今年竹皮掃く僧の青頭 大森ムツ子
野放図に伸び竹の皮まだ脱がず 東野鈴子
竹皮を脱ぐ少年は声変り 山田正子
【竹の皮】
筍(タケノコ)の発生時期は、孟宗竹は3~5月、淡竹(はちく)は5~6月、真竹は6~7月で、40~50日で伸長が終わり、その後1~2ヶ月程度で枝葉が充実して成長が完了する。筍が成竹(12~14m)に成長する過程で、皮が落ちる。 緑色が美しい竹の稈の「表皮」 には、抗菌効果(キノン類・タンニン類化合物)、抗酸化効果(リグナン類・フラボン類化合物、ラクトン類・フェノール酸類化合物)、消臭効果(フェノール類・フラボン類化合物)等が含まれているといわれている
【「竹の皮」の種類】
食品包装資材として利用されている「竹の皮」は主に真竹の皮で、孟宗竹の皮は鹿児島県の灰汁巻(あくまき)や石川県の菓子あんころ以外にはほとんど使われていない
【駅弁での利用】
駅弁の最初のルーツは、明治18年に宇都宮駅で発売された駅弁(日本鉄道(株)の依頼で白木屋旅館が製造)が日本初のものである。梅干を入れて黒ゴマをふりかけたにぎりめし2個に沢庵を添えたものを「竹の皮」で包んだ弁当で、金五銭で売り出されたと伝えられている。 当社の製品は、当初真竹の皮を素材としたものであったが、その後厚みがある孟宗竹の皮を使った「孟竹容器」、竹の皮の風合いや味わいをもたせた「竹皮貼容器」を続けて販売する。 のちに、竹皮容器の拡販にもコストの低い物が求められるようになり、孟宗竹皮に真竹を貼り合わせて機械でプレス加工した「竹皮プレス容器」を商品として導入する。 そして更にデザイン性を重視し、孟宗竹の竹皮を編み込み機械で貼って仕上げる「竹皮BOX」 まで竹皮容器は進化した
https://ameblo.jp/seijihys/entry-12898231446.html?fbclid=IwY2xjawJ-p1NleHRuA2FlbQIxMQBicmlkETFCNmpua3pMTk9hWmM1MElrAR7ug3_SytXdth-qeEkV8SnHDdYsprerA8wUy68iJLXsiIFYPHCbEvNWSZYLg_aem_oXfSpWK3JRIrM9mWN6Z5Sg 【加藤楸邨の「歩行的思考」「真実感合」】より
歩くということ自身が、一つの安定から、その安定を破る足を踏み出し、次の安定からさらに次の不安定へ、次へ次へと来るべきものを追うている形であることを、考えないわけにはゆかなくなるのである。加藤楸邨「歩行者の言葉」(「馬酔木」昭和14年3月号)
来月はありがたいことに三つの団体で俳句の話をする機会がある。
実にありがたいことだが、当日配布する「資料」の作成に結構てこずっている。
三つとも同じ話が出来ればいいのだが、さすがにそうもいかない(笑)。
日曜から火曜まで句会がなく、本業の作業も今一段落しているので、この二日間で三つ分の講演資料を作り、全てメールで幹事の方に送付した。懸念材料がなくなると実に心が晴ればれする。ただ、連日パソコンに張り付いていたので、頭がぼーっとしている。
今日作った資料は「加藤楸邨」。会場が埼玉県春日部なので楸邨がよかろうと思ったのだ。
楸邨の俳句の出発点は春日部で、初期の時代を「春日部(粕壁)時代」とも呼ばれている。
まあ、あまりに「ベタ」だが、俳句団体での講演ではないから、大丈夫だろう。
ただ、楸邨って結構難しい。同じ人間探求派の石田波郷は「私小説的」、中村草田男は「理想主義」と表現出来るが、楸邨の場合はなんか複雑。
「内面的」と言っていいのだろうが、「内面的」って言われてもよくわからないだろう。
私もよくわからない(笑)。楸邨の俳句、手法で有名なのは、
歩行的思考 真実感合 だが、これもやはり簡単には説明できない。
略歴や代表作などはもう調べてあるので、今日はこの二つについて調べ、まとめてみたが、なんとなくボヤ~~っとしている。
私が頭が悪いからかもしれないが、主張自体、もともとボヤ~~っとしているのかもしれない。そもそも「内面」のことであるからボヤ~~っとするのは、まあ、しかたない。
「歩行的思考」「真実感合」にしても、旅…、特に松尾芭蕉の『おくのほそ道』を歩き、そこから生まれた考えであることはなんとなく知っていたが、今日調べてみると、歩くことを通して芭蕉の作品に入ってゆく。という楸邨の言葉があり、これには大いに共感した。
僕も楸邨ほど深くはないが、歩いたことによって得たものは多い。
『おくのほそ道』市振では、遊女が登場し、一つ家に遊女も寝たり萩と月という句を芭蕉は残している。そのことについて楸邨は、旅行く遊女にこれほどまでに、心をゆるがすのは、このゆるぎを生み出すような下地を、ここまでの旅の風物の中で蓄えてきているからである。
と言い、東北の「あらあらしい風土」は、芭蕉を精神の上での飢餓状態とさせた、と楸邨は推測し、やわらかな世界がおのずと求められるのは自然なことと述べている。
確かに市振の手前にある北陸道最大の難所・親不知は呆然とするところである。
私は「おくのほそ道」踏破の旅で、数カ所、歩行を断念したところがあるが、親不知もその一つ。
車で通ったのだが、それでもここを芭蕉、源義経一行が歩いたと想像しながら眺めると、旅の厳しさに呆然としてしまう。
そして、市振に到着した時の安堵感というか、やわらかな寂しさというのか、そういう空気を私も味わった。この句、「萩と月」が実にやわらかく、やさしいのだ。
楸邨は、親不知・子不知の難所を越えて市振に着き、市振でのものやわらかな樹林のたたずまいの地に触れた。その夜『一家に遊女もねたり』なのである。
この、にわかに移る風土のやわらぎこそ、この句の呼び起こした大きな要因であり、この句の発想の契機であろう。 (以上、楸邨『芭蕉の山河』)
と述べる。
「にわかに移る風土」…つまり、断崖絶壁、荒波の「親不知・子不知」を越え、静かでどことなくやわらかな「市振」へと変わる「風土の急展開」…、市振のやわらかな景色が芭蕉の精神的飢餓を癒し、この句が生まれた、というのである。
「歩行的思考」とは簡単に言えば「歩きながら考える」ことであり、「真実感合」は「自己の真実」と「対象の真実」との一体化を目指すこと。
楸邨のこの〈一つ家に〉の句への考察はまさしく「歩行的思考」「真実感合」の上で感受されたものと言える。
まあ、そういったことなどを話そうと思うのだが、うまく説明できるかな…(笑)。