<宮古島滞在記・断章>
JCDN国際ダンス・イン・レジデンス・エクスチェンジ・プロジェクト2018年度日本/香港共同制作
■みゃーくふつ
みゃーく・ふつ=宮古のことば。これを語らずに私の宮古島滞在はない。
そもそも、なぜ宮古島のことばに興味を持っていたのか。
1.宮古島のことばには初めて出会うけれど、沖縄本島で出会っていたことばたちからの類推。そもそも方言ではなく、もはや違う言葉。でも、現在同じ国に属しているとされているがゆえに、みなさんが話しているのは標準語。外国語を話すようには差別化せずに存在する全くの異言語。
2.沖縄地方の方言は平安時代のことばがそのまま残っていると聞いた。本当かな。
3.話し手が減っているという言語の今を知りたい。
4.中国政府が推し進めている言語政策。香港および広東省で話されている広東語。すでに本土の一部の公共機関や教育の中では地方言語は禁止されている。ここ数年しばしば訪れる香港。明らかに中国語表記の標識が増え(でもこれは日本も同じだけれど)、図書館の本が広東語から中国語(標準語)に入れ替えられたり、初等教育が中国語になり始めた、と聞く。広東語と中国語。両方ともわからない私が聞いてもまったく別の言語。これが、標準と方言という扱いで統制されていくのはどういうことなのか。
日本が明治維新以降行ってきた言語政策がまだ地続きに行われていると思う。琉球諸島に対して行った言語政策。アジアの諸地域に対して行った言語政策。その人々の母語を奪い、別の言語を押し付けることで、来ている服を着せ変えるように生活を着せ変えようとした。明治維新政府は、自ら帝国の一員になるためにおこなった意識の刷新を、今度は服従させるために支配の原点として行ったのが言語政策だ。失うのはことばだけではない。そのことばの後ろにあった生活、習慣、風習、ものの考え方、人間、すべてを奪ってしまう。
さて、宮古は?
みゃーくふつの面白さ。それは未だ定義されていない、生きた言語だということ。滞在先、友利地区の地域の飲み会で、オジイたちの会話を聴く。50代以上の方々はみゃーくふつを第一言語として話している。しかし、これが人によって全然違う。違う同士で通訳なしに話している。あの小さい宮古島に30の言語(方言ではなく!)とさえ言われているほど、ことばが氾濫し、未分化のままにされている、その総称がみゃーくふつ。たとえば、「ありがとう」。近年のみゃーくふつ教科書によれば、それは「たんでぃがーたんでぃ」。ありがとうの気持ちを強く表現するときは「がー」をめっぽうのばす。しかし、友利地区では違う。「たんでぃがーたんでぃ」は人にすまない、赦しを請うという意味があるために、飲み会の席では使わないと言う。ではなんというか。「まいふか」。で、別のオジイがこんどは「まいふか」ではなく「ぷからす」だという。別のオジイは「ぷからす」ではなくて、、、と本当に小説の中のようにおじいたちがどんどんとことばを放ってくる。「では、これはどういいますか」と聞けば、オジイたちが論争になり、結論は出ないし、教えてももらえない。あっているのか、間違っているのか、ではない。その場のシチュエーション、話す相手、そして自分の感情にピタリとあう一語を選び取って話しているのだ。そこで、ことばは記号としてのことば以上の役割を果たしている。現在のことば、ことばの意味を一義に限定して話すことばとは明らかに一線を画している。ほとんど蛸の擬態に近い状態。ことばがことば以外の何物かになっている。
発音もすごい。ドイツ語のような音がある。「す」に「゜」がついた音もある。正確には、みやーくふつにはもともと表記がなく、話されることばであったのが、これも明治以降に日本語の表記をつかって書かれるようになった。この表記を使用したことで、みゃーくふつが保存されることになった一面もあるだろう。言語が保存されるようになること、これも相反する二面。保存されるようになるとき、「ありがとう」は「たんでぃがーたんでぃ」に1語になってしまい、そのほか多くの「ありがとう」たちは死語となっていく。多くのことばたちが通ってきた運命。同時に多くのことばたちが日々生み出されていく。それは悪いことではない。けれど、いったんメインストリームが決まってしまえば、それ以外のことばの出番はなくなっていく。そこに、別のことばがあったことも忘れられていく。
たとえば、日本語の「自然」という言葉。「しぜん」は後から入ってきた概念で、西洋の概念。自然と人間社会が対立する構造。それに対して、古来の「じねん」は、人間社会も自然の一部に内包される構造。考え方が根本から違うのだ。
だから、「たんでぃがーたんでぃ」がメインストリームの「ありがとう」になったとき、「たんでぃがーたんでぃ」が持っていた赦しを請うというもうひとつの側面は失われてしまう。なぜならひとつのことばがふたつ以上の概念をもつことにたいして、現代はそんなに寛容ではないから。劇言語を除いては。
演劇のことばは違う。演劇のことばはいつも多層(であったほしい)。なぜなら、演劇は他者の言語による再表現だからだ。そこでは、ことばは一義的な意味しかもたないことばとして扱われない(ように私は創作する)。それが劇のことばである。
さて、最後に広東語に話をつなげると、広東語はやはり書かれない言語であった。喋りことばであって、書かれるときには中国語の文法をつかって表記するため、喋りことばをそのまま表記することがない。さらには、繁体字の入力に手間がかかるためである。だから、香港の友人たちは常にボイスメールでのやりとりか、英語入力を好み、繁体字の入力については、いったいどうやってPC入力したらいいからわからないとさえ言う。ところが、SNSの誕生で状況が変わってきたらしい。今までは書かれることのなかった広東語が、より自分の感情を表現するために、SNS上で表記されるようになりだした。たしかに、完全に書き言葉でかしこまったSNSでは多くの“いいね!”は集められないだろう。SNSがことばを一元化していく(絵文字だって、なぜあれを理解できるのか本当は疑問だらけのはずなのに)一方で、SNSがひとつのことばを進化させていることもあるのだと、希望もある。
■ドン・キホーテ
おどろくことなかれ。宮古島には夜中も営業しているドン・キホーテがある。2016年8月にオープンしたとか。東京にいるときでも、ドン・キホーテとTSUTAYAとBOOKOFFにはほぼ足を踏み入れない。所狭しと並べられている商品の軽んじられている価値と、情報過多な店内、広告の多さに眩暈がするから。まさか宮古島でドン・キホーテに行くことになろうとは。外国人観光客の方々が、大きなスーツケースを転がしてドンキに入っていく。宮古島で? 本当に? 地元の人々が買い物をしている。宮古島で? 本当に? ドンキの黄色いビニール袋が大層憎らしく感じる。
■あたらす市場
日々の食品の買い物で一番好きだった場所。あたらす市場。みたことのないお野菜がいろいろとある。クセが強そうで、おいしそう。島のお野菜。その土地にしかないものを、その土地でいただく。これがその土地に出会うひとつの方法である。生の島とうがらしを島の外に持ち帰ってはいけない(メモ)。
■日の出
2週間の滞在のほぼ終わり、朝日を見に歩いて海辺へ。展望台から日の出を臨む。空も海も、即興で色が変わっていく。何色と表現することも難しい。刻々と変わる。太陽が海の端にまだ沈んでいるころ、水色の空に浮かぶ赤い雲、その日の雲はひつじ雲かな? 完全にターナーの油彩の世界。もちろん、ターナーの方が世界を真似したんだと思いますけど。何枚も何枚も絵が仕上がり形を変えていく。橙の卵の黄身のような太陽がついに海から顔を出す。あまりの温かさに思わず「わぁ」と声が出た。とろけそうな黄身がじわりじわりとのぼっていく。すると今度は、海が色づきはじめる。さっきまで静かに沈んでいた海が、どんどん咲き始めた。
日が昇りきり、物見台を下ると、2人のおばあに会った。友利地区出身のおばあ2人。沖縄本島にお嫁にいったそうだけど、1カ月に1度くらいのペースで帰ってくるとか。このマリンガーデンの一帯が海浜公園よろしく埋め立てられたことにより、砂がなくなり海が浅くなり濁ってしまった、と話を聞く。おばあたちが小さいころは岩にはムール貝がびっしり生えていてよく採っていたとか、運動会の時には海岸の砂を小学校に運んでかけっこしたとか。大きな時間の流れが小さな時間の流れで分断されている。この小さな時間がやらかした変化は、大きな時間の命取りなのか、それとも大きな時間はそんなことには負けじといるのか。
■下地島・佐和田の浜・明和の津波(1771年)による巨石群
1771年の明和の津波で運ばれてきたという巨石が海に浮かんでいる。みたことのない景色。津波の後。1771年のその津波で運ばれてきたのは巨石の他になにがあっただろう。海で朽ちる木の舟や網、生き物たちもいただろう。沈む金属製の舟や車、タンカーから流れ出る油はなかっただろう。
■下地島・海
海。この1文字で語ることがもはや不可能。これを同じ海と呼ぶことができるのか? びっくりするほど美しい。海の向こうから神様、先祖がやってくると思うよ、そりゃあ。と本当にため息しか出ない。宮古島の海と宮古島のことばに共通点がある。
■池間島―宮古島―伊良部島―下地島・・・橋、そしてサバニから、TRANSへ。
ところで、多くの島同士が橋でつながっている。中国と香港とマカオも橋でつながった。橋でつながることで、島の生活が便利になることを期待していたけれど、実際には人が出て行っただけだったと聞いた。橋はつなげるものであると同時に、吸い取るもの(ストロー)でもあったわけだ。橋に流れるエネルギー、双方向のエネルギーがどういうものであるか、それを長い時間の流れで見込む必要がある。
橋がかかる前、もっと昔にはサバニを漕いで恋人に会いにいったんだって。命がけで会いにいったんだって。移動が便利になった今、なぜ移動することの意味を私たちはもう一度考えるところ。初めて香港との交流をしに飛行機に乗ったとき、台風に遭遇した私たちは香港にたどり着けずに上海でひと晩を過ごした。その時から、移動することは当たり前ではなくなった。
転勤族の家庭に生まれた私にとって、「移動」というのは人生の大きなひとつの要素。移動する元と移動する先ではなく、「移動」自体。まだ、やっぱりここにこだわりたい。私にとって「移動」とはTRANS(トランス)=越。でも、これも一線のこちらからあちらに越えるのではなく、あくまでも線の上にいる状態。
■伝統/現代 主に空間編 TRANS part 2
2013年から「絶対的」と銘打って香港のアーティストと一緒に共同企画を行ってきた。メンバーのひとりに広東オペラの俳優がいる。パリス・ウォン。彼は、香港で唯一、女役を演じる女形。さらに2016年、JCDNのダンス・イン・レジデンスで、広東オペラのアクロバットから動きや考え方を抽出してダンス作品をつくる振付家ヒュー・チョウに出会った。2017年さらに行ったヒューとの交流ワークショップでは、能楽師の鵜沢光さんにも参加してもらい伝統と現代それぞれのパフォーミングアーツが持つ新体制についての意見交換を行ってきた。
もっとも印象に残っているのは、香港のバンブーシアター。その名の通り、竹製の劇場。舞台と客席だけではなく、楽屋エリアもすべて竹で組まれている。大部屋、小部屋、衣裳部屋、道具部屋、、、すべてが竹でできた迷宮。その劇場は、息をしていた。
バンブーシアターで上演される広東オペラを袖から覗く。舞台に集中しすぎて、靴のヒールが竹と竹の間にはまって動けなくなったりしながら。
バンブーシアターで見る広東オペラもやはり息をしていた。マイクを通して聴こえる謡が、アクロバットの動きが、演奏を続ける演者たちのくゆらせるタバコの煙が、震えてバンブーシアターの呼吸になる。巨大な生き物。
広東オペラの発声・動き・衣裳・メイク・音楽、そして電球。すべて、バンブーシアターとともに形成されたのだろうと納得する。すべてが有機的に呼吸する。
能楽堂もしかり。能役者の身体を形づくっているのは、能楽堂の空間と時間。やわらかく張り詰める空気の中に360°囲まれて形づくられる体。体だけでつくられた体ではない。
広東オペラも能もその体がいる空間と時間がその体に要請しているものがある。
では、現代における空間と時間はどこにあるか。
現代においても、空間が最初の問いのひとつである。こと、劇場を持たない現代の日本では。わたしたちの劇空間はどこにあるのか。もとい、私たちには劇空間が必要か? 劇/ダンスを起こす、その空間はどこなのか? どこでもよかったその空間は、その行為(パフォーマンス)によって、何になるのか。
ここでもまたTRANSをキーワードに挙げたい。何かと何かの間、隙間、名もなき場所、失われた場所。TRANSとして通りすぎられる境界線、もしくは橋。そこが私たちのいる空間になりうるのか。
■伝統/現代 主に時間編 TRANS part 3
宮古島滞在よりさかのぼること数カ月。ヒューといろんな会話をする中で、印象に残っていること。香港の今の変化を止めることはできないだろう、けれども、どうやってこの変化をよい方法で受け入れることができるか、それが次の世代への責務であると。アダプテーション。どう受け入れるか。
昔つくられたダンスと今つくられるダンス。懐古の展覧会ではなく、伝統から何を受け入れたのか。原典をなぞっても、それはすでに現代的な視線になる。それでも、時間の流れにこだわりたい。伝統も現代も点ではない、ずっと続いている幅の広い境界線が時間。
■TRANS/橋/ことば part 4
最後にTRANS。香港との交流を続ける中で、移動/TRANSがテーマとなっていることは前述のとおり。そして、今回のクリエイションでは、TRANSが作業の中心を担ってくるように思う。TRANS-LATION, TRANS-FAR,TRANS-ITION,TRANS-FORM, TRANS-MARINE, TRANS-MIT, TRANS-GENDER,TRANS-FIGURE, TRANS-BOUNDRYなどなど。ちなみに、伝統=TRA・DIT・IONもまた超えて・与えられる・もの。
TRANSそれ自体の可視化。越える/受容するという行為の可視化。一方通行のストローではなく、メインストリームに吸収されていく規定ではなく、伝わることによって伝わらなくなることばの多重性、純化できないエネルギー、目的地への移動ではない浮遊として=TRANS。
■くつ/くとぅ/ことば/靴のはなし
滞在最終日のプレゼンテーション。
クリエイションの入り口に立つためのプレゼンテーションで、何をするか。
原点に戻ろう。
「伝える」こと。
私は何者で、何を考え、何をするために、今、ここにいるのか。
それを文字どおり「ことばを借りて伝えてみよう」と思った。
宮古島のことばを集めた本を片手に、“みゃーくふつ作文”。
大神島から帰る船の中で、與那城美和さんに添削していただき、発音を教えてもらった。
ばあやあ ばがふつぅどぅ ばがくとぅぼうどぅとぅみうぅ
(私は私のことばを探しています)
ばが つかいうぅ ふっつぁ(くとぅばや)のーしぬむぬがら ばぬんなっさいん
(私は私のことばがどんな形をしているのかわかりません)
ばんたぁ ばんたがふつぅくとぅぼー ばっしにゃーん
(私たちは私たちのことばを忘れてしまいました)
ぬくりうぅ むぬがもーぴすい あつみってぃ ばんたがふっつぅ くとぅぼー つっふぁでぃてぃ うむいうぅ
(残されたことばのかけらを拾い集め、私たちはあたらしいことばをつくります)
たった4行のこのことばを話すことが本当に大変だった。
覚えるのが大変というよりも、そのことばが体を通って発話されることがこんなにも大変なことだっただろうか。宮古島博物館でみた入れ墨にあこがれて、ことばを体に書きつけてみたけれど、それでもことばたちは私から剥がれていく。
きゅうや うぐなぁい ふぃーさまい たんでぃがーたんでぃ
(今日はみなさまお越しいただき、本当にありがとうございました)
ぜったいに忘れないと思った感謝の言葉さえ、頭が真っ白になり出てこない。
ことばを忘れて、本物のパニック。頭が完全にハテナマークになったとき、
いらしていたオジイたち、お世話になったコーディネーターの方々が「ふぃーさまい」と教えてくれた。ことばを手渡された。
終わって、残ってくださったおじさんに「くつの話をしてたね」。
「くつ」=「くとぅ(ことば)」だろうか。それとも「くつ」=「靴」だろうか。
もしかしたら、靴の話かもしれない。
塚原さんがつくった長い長い糸電話;塚原さんが車の中で話すことばをボーさんがみなさんに伝える時には、まったく違う言葉になっている。
スティーブが教えてくれたカポエラの歌;自分たちの過去を忘れないために歌い継ぐ物語。
フェイが感じたかもしれない単純化された物語への嫌気;ノスタルジックにせず現在を語ること。
阿児ちゃんのことばの足りない物語り;消失していることばの居場所にはまるピースがあるのか。
小学校でのワークショップのためにつくった海を越えて交流する島のゲーム;自分の文化を伝えるのが上手な島、守るのが上手な島、人の増えた島、減った島、海をただよう人。
島と島をつなぐ橋。橋をわたる人、もの、ことば、エネルギー。そこから起こる変化。
受けとり、形をかえて、手渡す「翻訳者」。
何を受け取り、何を手渡すのか。
香港につづく。。。