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Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄 #2 Day 286 (09/04/25) 嘉手納町 (7) Yara Hamlet 屋良集落

2025.04.13 04:16

嘉手納町 屋良集落 (ヤラ、やら)


嘉手納から屋良に移動する


嘉手納町 屋良集落 (ヤラ、やら)

屋良村は嘉手納町の中央に位置しており、北は比謝川を境に読谷村の牧原、字久得、東は宇伊金堂、南は字東と字野里、西は字嘉手納と接している。屋良村は10の原名 (ハルナー) で構成されていた。北から順に高見猪原 (たかみししばる)、聲座原 (こえざばる)、下仁原 (げーにばる)、後原 (くしばる)、屋良原 (やらばる)、當底原 (とうそこばる)、西原 (いりばる)、亀甲原  (かみこうばる)、前原 (めーば る)、真我屋原 (まがやーばる) になる。

屋良村はかつては屋良城 (大川城) を腰当 (後躰 クサティ ) にして、そのから南側に広がっていた。屋良村は嘉手納町では最も古くからあった集落と言われ、縄文時代以前に比謝川河畔に人が住んでいたと考えられている。そこから次第に内陸部に移動していったと思われる。集落が形成されたのは、今帰仁城主を先祖とする伊波城主の子孫で、接司五子の一人である屋良大川接司が屋良城主となり、城の南平坦地に集落が形成され発展して行った。

かつての屋良は耕地が広く北谷間切内では最も農家が多かった地域で、作物ではさとうきびが最も多く、ついでいもが生産され、大豆、小麦、米などだった。東組、西組、中組の三つのサーターヤーがあり、屋良でもっとも多い生産高を誇っていた津波古 (ツハヌク) が個人で所有するサーターヤーもあった。1911年 (明治44年) に嘉手納製糖工場が竣工され、池武当や越来、国直方面から屋良を通って嘉手納製糖工場へサトウキビを運ぶトロッコ軌道が敷設されている。

嘉手納町の中で屋良は最も古い集落で、かつて屋良には七つもの屋取集落があり、それぞれの人口増加に伴って、大正末期に屋良久得屋取集落は字久得に、屋宜原屋取、野理原屋取、伊金堂屋取、屋良ヌ前屋は 1936年 (昭和11年) に字東に分離独立している。その後、1939年 (昭和14年) には旧伊金堂屋取、旧屋良ヌ前屋が字東から分離して字伊金堂となっている。もう一つあった千貫田屋取集落は分離独立せずに字屋良に属している。


これら屋取集落は録を失った首里、那覇などに士族が帰農してできた集落で、現在の嘉手納町を含んだ北谷村では最も旧士族が多く移り住んだ土地になり、明治時代の屋良人口の57%が旧士族だった。

1919年 (大正8年) の地図を見ると、字嘉手納に近い所に民家が集中し、そこから離れた畑地帯に屋取集落が分散している。沖縄戦では米軍上陸後すぐに全土が占領され、捕虜となった住民は終了所に送られている。戦後、1947年 (昭和22年) に字嘉手納と共に、嘉手納村の他の地域に先駆けて土地が解放されている。字屋良は北半分の土地に帰還が許可された。

帰還許可の後、旧屋良住民だけでなく、土地が接収されたままで帰還がかなわなかった住民も字嘉手納、字屋良に住居を構えたことで、本土復帰頃 (1972年) には県道74号線の北側平坦部に民家が図化している。

1883年 (明治16年) の屋良人口 (字久得、字東を含む) は1,129人で字野里に次ぐ地域だった。1925年 (大正14年) には1,501人に増加し、戦前までは人口増加が続いていたと思える。 戦後1952年の戸籍ベース (字久得、字東含む) では2,134人で沖縄戦での戦没者369人を考慮すると、沖縄戦直前には2,000 ~ 2,400人程だったと思える。(戦没者率は15 ~ 18%と思う)

戦後は人口増加はコンスタントに続き、現在では世帯数、人口ともに増加傾向にある。


琉球国由来記等に記載されている屋良集落の拝所

屋良村での主要な祭祀は野里ノロにより執り行われていた。昔は屋良ノロガ存在していたと思われるが、いつの時代にか野里ノロが屋良村の祭祀を司るようになっている。その考察は野里集落のレポートに記している。

下の表は戦前から現在でも行われている村祭祀行事で屋良共栄会が中心となって執り行われている。

村祭祀行事とは別に、戦前には各家庭門中で以下の祭祀が行われていた。



旧村屋跡、屋良共栄会

嘉手納から中通りを東に進み、字屋良に入る。中通りは屋良の中道 (ナカミチ) に突き当たり、北に進んだ所に屋良共栄会が建てられている。ここは戦前はアシビナーだった場所になる。昔の村屋はイリチュハヌクの土地にあったが、敷地は狭隘だったので、南の県道沿いのガージャの土地を買い移転している。現在では空地となっており、「旧村屋跡」の表札がある。

戦後、1949年 (昭和24年)に捕虜収容所から屋良に帰還し復興が始まり、ガージャの場所から、屋良のアシビナーに村屋 (写真右下) を建設し移っている。戦後の村屋は村の管理機関としての役割のほかに、幼児等を集めて教育する現代版の保育園的な 機能も有していた。村屋による運営と並行して、字有財産の管理と旧来の祭祀を取り行う地域共同体があった。1972年 (昭和47年) から、この地域共同体の組織化の動きが始まり、翌年に「会員の相互理解と団結により字有財産を保護活用して、祖先伝来の諸行事を円滑に行うと共に、会員の共同福祉の増進と共栄を図ることを目的とする」として屋良共栄会が設立され、村屋を事務所としていた。

戦後、字制から行政区制に移り、従来の字公民館 (村屋) はなくなり、共栄会が旧字屋良村屋の機能の一部を果たすようになっていた。1986年に同敷地内に共栄会事務所が建てられた。


屋良合祀所、城間屋 (グスクマヤー)

屋良共栄会事務所の庭には幾つかの拝所が置かれている。庭に入った所には城間屋 (グスクマヤー) の祠が置かれている。城間は屋良集落の村立ての宗家で、根所 (ニードゥクル) だった。屋良共栄会の道を挟んだ所に屋敷があったが、根神 ( ニーガン) だった娘が野里のヌン殿内に嫁ぎ、跡継ぎが途絶え絶家となり、屋良集落でこの場所に神屋を建てて祀っている。城間屋内には6個の香炉が置かれており、城間屋の火の神、城間屋 、城間王子(?)、屋良グスク世の主、ノ口火の神 (ここよりすぐ北にあったノロ殿内にあった) 、一つ不明の香炉を祀っている。


火ヌ神 (ヒヌカン) 

城間屋の隣には村の火ヌ神 (ヒヌカン) を祀った祠がある。元々は県道沿い、村屋の西側に火神屋 (ヒヌカンヤー) に置かれていたが、県道74号沖縄嘉手納線 (旧軍道16号線) の道路拡張で、この地に移設され、村で子孫繁栄を願い、村の守護への感謝、五穀豊穣を祈願している。


カンカー毛

火ヌ神の隣にはカンカー毛の拝所がある。ここから少し南の道路沿いにあったが (写真右下、左下)、道路整備に伴い、屋良共栄会事務所内に移設されている。一般的にはシマクサラシーとも呼ばれているが、屋良ではカンカーと呼ぶ。カンカーは古代中国の祭礼で生贄として牛をささげ、大地を刺激し生産力を高めたといわれ、琉球に伝わったとされる。旧暦12月7日に村に悪霊などが入らない様に願うカンカー御願と呼ばれる祭祀行事で、昔は沖縄のどの村でも行われていた。戦後の一時期まではこのカンカー毛で供物ので牛を屠殺し、村の四隅のホーグ (保護林) にあった場所に左縄 (ヒジャイメンナ) を張り、カンカー毛で屠殺した牛の腸や骨や肉片をぶら下げて厄払いをしていた。集落のホーグは東はナカシジマーチュー、西シホンマーチュー (四本松 写真右上)、南は屋良尋常高等小学校の校門前のトーママーチュー (当間松 嘉手納飛行場内 消滅)、北は後井 (シリーガー) の上でカーヌイマーチューだった。


ビジュル

カンカー毛の隣には子授け、子育て、豊漁などで拝まれているビジュルの祠が置かれている。この拝所も元々ここに造られたのではなく、戦前迄は西溜池 (イリヌクムイ) と村屋の間のヌーリー松に火神屋と共にあったのだが、県道拡張工事で、屋良共栄会事務所内に移されている。祠内にはニービ (細粒砂岩) の霊石が5つ祀られている。旧暦の9月9日のチクザキウガン(菊酒御願) の日にビジュル祭りが執りおこなわれている。


獅子屋 (シーシヤー)

庭の奥に小屋がある。獅子屋 (シーシヤー) で、中には魔よけの獅子を安置している。沖縄では獅子は悪霊を祓うものとする民間信仰があり、豊年祭や厄払い行事では、獅子を舞わすことによって豊作を祝い、集落の繁栄を祈願する。屋良では旧暦の7月16日の盆明けに旗スガシーの行事を行い、根人 (ニーチュ) から旧村屋跡まで獅子を舞わせながら練り歩き、村を浄め悪霊祓いをおこなう。


根人 (ニーチュ) 神屋

屋良共栄会事務所のすぐ北東に知念家がある。跡継ぎの途絶えた城間家から根人 (ニーチュ) を引き継いだのが、草分けの旧家だったこの知念家で、屋良の根屋 (ニーヤ) となり、代々の根神 (ニーガン) を輩出し、村の祭祀行事を主催してきた。知念家の神屋に祖霊を祀り、村で拝んでいる。


後井 (シリーガー)

根人 (ニーチュ) から東に進むと水路で出る。国直井 (クンノーィガー) を源流として流れる水路で、東溝 (アガリンジュ) と呼ばれ、北の比謝川に流れ合流している。四本松 (シフンマーチュー) から東溝 (アガリンジュ) 周辺迄の住民をヤランチュ (屋良人) と、ここから東側の千貫田屋取集落 (シングワンダー) 住民をシングワンダーンチュ (千貫田人) と呼んでいた。

この東溝 (アガリンジュ) の側に後井 (シリーガー) がある。普段は洗髪や洗濯用水として利用されていたが、死者を棺に納める前の湯灌 (アミチュージ) の際に、この後井 (シリーガー) からの死水 (シニミジ) を汲み湯に注いだ逆水 (サカミジ) で遺体を清めるのが習わしとなっていた。また、水路の片側には馬を浴びせる場所があり、多くの人でにぎわったという。

戦後にはこの後井 (シリーガー) の水を利用してモヤシなどの栽培が盛んにおこなわれていた。


東区コミュニティーセンター

後井 (シリーガー) の南東すぐ近くには東区コミュニティーセンターが建っている。

戦後、1952年 (昭和27年) にそれまでの字制から行政区制となった際に字屋良は一区、二区になっている。その後、住民の反対により翌年には再び字制に戻ったが、人口増加により、字制での運用が困難となり、1957年 (昭和32年) に十一区制となっている。1970年 (昭和45年) には一区と二区が東区に変更され現在に至っている。

現在の東区の人口は西浜区に次いで多い地区で約3,000人が暮らしている。東区が誕生した当時は約2,600人だったが、それ以降はコンスタントに世帯数は増加しているが、少子化の影響で、人口は微増、微減を繰り返し、近年では横ばい状態となっている。1952年 (昭和27年) の二区の人口が突出しているのは、当時は居住地として開放されていた地域が二 ~ 六区と一区の一部だったので、嘉手納中心に近い二区に人口が集中し、その後、他の地区が解放されるにつれて人口が分散されたのではと思う。


次は県道74号線沿いのスポットを見ていく。旧村屋から東に向かって進む。


前井 (メーガー)

屋良集落の南側に、現在の県道74号線沿い南に前井 (メーガー)が残っている。1993年 (平成5年) に埋まっていた土砂を取り除き、県道74号線拡幅の際も屋良の前井の形が損なわれないような保存措置が取られている。明治の初めの1870年頃に6mほど掘り抜いたところで水が出た人工的に掘った井戸で、当初は桶を井戸に投げ入れ、手でたぐり寄せて水を汲みあげるタグイガーだったが、後に滑車で桶で水を汲みあげるチンガーとなった。100年余にわたって戦前までは、屋良の人々が飲料水として水を汲んだり、髪を洗ったり、世間話をしたりなど、ふれあいの場所でもあった。また、水量も豊富で、しばしばあふれ出る場面もあったという。村人の用水として生活を支えてきたこの前井は村の拝所にもなっている。戦前迄は前井のすぐ東側にはアガリヌクムイ (東ヌ溜池) と呼ばれていた防火用の溜池があり、馬を浴びせたり、野菜や農機具などを洗うのに利用された。現在では県道74号線で消滅している。現在は、水量は少なくなったが、県道沿いの黙認耕作地の農業用水として活用されているそうだ。

この前井が造られた以降は各家庭でも井戸が掘られるようになったという。下の写真は散策中に見つけたチンガー形式の個人井戸。


千貫田 (シングワンダー、せんかんだ)

県道74号線を東に進むと、千貫田バス停がある。この名の由来が資料に載っていた。明治以前には、ここ小字下仁原に嘉手納村の請地があり、その中に50 ~ 60坪程の屋良村の小さい田もあった。この小さな田の所有権について嘉手納と屋良で争いが起き裁判沙汰にまで発展し屋良村所有権の裁定となった。この裁判には千貫文(20円)という大金がかかってなってしまった。それ以来、この小さな田は千貫田といわれるようになったという。

1919年 (大正8年) の地図ではこの千貫田の北側に小規模の集落が見られる。ここには千貫田屋取集落があった。いつ頃に出来た屋取り集落かは不明だが、前述の千貫田の近くにできたので千貫田屋取と呼ばれるようになったのだろう。

かつての屋良村には幾つもの屋取集落が存在していた。1903年 (明治36年) には屋取集落を形成した士族の割合は57%にも達している。この千貫田屋取は本村の屋良に残っているが、他の屋良久得屋取は大正時代末期に字久得に、野理原屋取、屋宜屋取、伊金堂屋取、屋良ヌ前屋取は1936年 (昭和11年) に字東に分離独立している。(1939 年には伊金堂屋取、屋良ヌ前屋取が字東から分離して字伊金堂になっている)


嘉手納道の駅

更に県道74号線を進むと嘉手納道の駅に着く。ここで暫く休憩とする。広場にはここにも野國総管の座像、そして隣にはいもっち像も置かれている。

ここには多くの観光客が来ている。中国人も多く見られた。お目当ては嘉手納飛行場が一望できる展望デッキだ。このデッキから数十分おきに離発着をする戦闘機が見れる。大きな望遠レンズのカメラを据えつけて、撮影チャンスを待っている常連さんも数人いる。戦闘機の離発着には物凄い爆音で、観光客は非日常の体験で喜んでいる。住民にとっては数十分おきにこの爆音は耐え難いだろう。

飛行場を囲む二重フェンスの間に畑がある。これは基地内にあたるのだが、黙認耕作地として、地権者の立ち入りが黙認されている。ただし、いつ立退を要求されるかもしれない。

第二次世界対戦では、この場所には、読谷村にあった旧日本軍の北飛行場を補完する目的で1944年 (昭和19年) 9月に大日本帝国陸軍航空隊の中飛行場 (写真上) が開設されたが、翌月の十・十空襲で多くの施設が破壊されている。1945 年 (昭和20年) 4月1日に米軍はじめとしての連合軍が北谷、嘉手納、読谷の海岸に上陸、同日午前中にこの中飛行場を占領し、その日のうちに修復してアメリカ軍の臨時飛行場 (写真中) として使用可能な状態にして沖縄戦の展開に大きな役割を果たしていた。沖縄戦における組織的な戦闘は6月下旬に事実上終了していたが、9月7日のこの飛行場で沖縄戦の降伏調印 (写真下) が行われ沖縄戦が正式に終結している。

戦後、嘉手納飛行場は米軍の補給基地と位置付けられていたが、ベトナム戦争で、実質的な出撃基地となっていた。嘉手納飛行場の離発着機による墜落事故、基地騒音訴訟により午後10時から午前6時まで飛行禁止の航空機騒音規制措置は米軍の運用上の必要があれば除外となっている。PFOSとPFASを含む消火剤の流出問題やジェット燃料の流出、米軍兵による犯罪など数多くの問題が解決されないままとなっている。

道の駅内には学習展示室があり、平和学習を主目的として、嘉手納町の歴史文化、嘉手納飛行場の変遷、問題、課題のパネル展示をしている。多くの観光客は嘉手納飛行場の戦闘機離発着を見るために展望台を訪れているのだが、この学習展示室に立ち寄っているのは、観光客のごく僅かだった。

沖縄の米軍基地に関しては複雑で、国、県、自治体、個人レベルで関わり方が異なり、基地に対する思いや意見が異なっている。嘉手納飛行場は返還対象にはなっておらず、地元の人達は今となっては返還の期待はないようだ。返還されたとしても、自衛隊の基地となるのではという人もいた。嘉手納飛行場の地主は11,450人で、国は地主に対して年間239億円超の賃借料支払っている。地権者の中では、高収入と低収入の人達でも思いは異なる。


無漏渓 (ムルチ)

道の駅から沖縄市方面に向けて県道74号線を進み、字屋良から字東に入り、沖縄市との境に無漏渓 (ムルチ) という沼がある。長さ89m、最大幅38m、一番深いところで14m、面積は2,364m2の沼になる。この無漏渓 (ムルチ) には伝説が残っている。

義本王の時代 (1249~1259年) に北谷間切屋良村の茂呂奇 (ムルチ)という古い沼に大蛇が棲んでいて、暴風雨を巻き起こしたり、住民に被害を及ぼしたりしていました。 そこで、付近の住民は童女を生け贄として捧げ、禍を鎮めていました。ある年、非常に親孝行の娘が生け贄に選ばれ娘は悩みましたが、近隣の邑々の住民を救うため年老いた母を遺し生け贄となる決意をしました。すると生け贄の儀式の最中に天神様が現れ、その大蛇を退治してくれました。その話を聞いた義本王は、たいへん喜びその娘を王子の妃として迎え入れ、年老いた母と共に幸せに暮らしました。

この伝説は玉城朝薫作の二童敵討や執心鐘入の元になったという。

県道から沼に降って行くと、階段脇には古墓なのか拝所がある。

沼に降りると、伝説にある様な、神秘的な雰囲気が漂っている。ムルチ伝説が生まれた理由がわかる様な気がする。

沼の畔には拝所が置かれている。この拝所は琉球国由来記にあるムロキノ嶽 (ムルチ 神名 アキミウハリミウノ御イベ) で、野里ノロによって祭祀が行われていた。

この場所は嘉手納飛行場の滑走路の端で、次から次へと戦闘機が頭の上を飛び去っていった。


東屋宜原拝所 (賓頭盧、水の神、あしびの神)

無漏渓 (ムルチ) から道の駅まで戻り、そこから北側の道を西に進んだ所に拝所がある。東屋宜原の拝所になる。屋良 (一部は水釜に) に属していた屋宜原屋取、野理原屋取、伊金堂屋取、屋良ヌ前屋は 1936年 (昭和11 年) に屋良から分離して字東を形成し、伊金堂屋取、屋良ヌ前屋は1939年 (昭和14年) 字東から分離して字伊金堂となり、字東は旧屋宜原屋取、旧野理原屋取になっている。字東はその地域のほぼ全域が米軍基地に接収されたままで、嘉手納や屋良などに住んでいる。ここに置かれている拝所は字東の旧屋宜原屋取の住民が拝んでおり、農耕土地の守り神の賓頭盧 (ビジュル)、集落にあった井戸の水の神、あしびの神を祀っている。


東屋宜原拝所から北へ嘉手納運動公園を通り久得橋に向かう。


久得橋

字屋良と字久得は比謝川を境界線として接しており、そこに久得橋が架かっている。現在は米軍弾薬倉庫として、ほぼ全域が軍用地となっている。久得集落の始まりは、首里・那覇からのさとうきび作援農隊として入植した人びとにより屋取集落だった。その後、人口増加に伴い大正14~ 5年頃に屋良村から分離し、字久得として独立している。返還された地域は嘉手納葬祭場などが建てられているが民家はない。米軍弾薬倉庫の久得の黙認耕作地への出入口に当たっている。

久得橋は1928年 (昭和3年) に架設されたのだが、架橋前は比謝川におり、徒歩で石伝いに渡っていた。このルートは、農産物の運搬や通学路でもあり、久得集落住民の生活に支障をきたしていた。架橋後は利便性が格段によくなり、久得集落住民の生活も向上した。

その後、1985年に改築され現在に至っている。


鉄血勤皇農林隊壕跡 (牧原壕)

久得橋を渡り字久得に入る。比謝川沿いの農道を西に行くと道の終点で崖にぶつかる。この場所は読谷村字牧原になる。沖縄戦が間近になってきた頃、嘉手納にあった沖縄県立農林学校の生徒達は勉学どころではなく、座喜味城跡の高射砲陣地の構築、楚辺から波平に至る海岸沿いの戦車壕掘り、ウマカジー(北谷平安山)の海軍砲陣地の構築、防空壕掘り、軍事教練等であけくれていた。米軍上陸直前の1945年 (昭和20年) 3月26日に農林学校の学徒130名が日本軍に動員され、鉄血勤皇隊農林隊 (本隊110名、斬込隊20名) が編成された。本隊は第19航空地区司令部のこの牧原の壕に配置されていた。壕の前には長屋作りの慰安所があったそうだ。コンクリートの基礎があったが、その跡なのだろうか?ここに配属されて三日目の3月29日に空爆を受け、学徒が一人戦死している。農林生の最初の犠牲者だった。この後、鉄血勤皇隊農林隊は沖縄戦の真っ只中に巻き込まれて学徒隊は23人、農林生全体では124人が亡くなっている。


牧原壕から屋良中心部に向かう。


興湾親方祖先の墓

嘉手納高校西沿いの道を北に進むと比謝川取水ポンプ舎右側の岩に興湾親方祖先の墓ある。 以前は南の屋良城跡公園通り沿いにあったが、道路拡張でこの場所に移されている。馬氏元祖となった與湾大親は屋良先大川按司二代目の次男の屋良大主の子孫とされ、奄美大島の首長を務め、善政を行い島民から慕われ、首里王府からの信望も厚かったが、同僚から妬まれ、謀反の企みありと讒言され、尚清王 (1527 ~ 55年) は討伐軍を大島に派遣、與湾大親は縊死したという。後に讒言と判明し、尚清王は大いに悔やんだという。大島攻めの際、與湾大親の遺子三名は捕虜として首里に連れ戻され、後に放免された。嫡子は中城掟親雲上となり、その長男の浦添親方良憲が尚元王代 (1556~72年)の三司官となった。その後、この家系から21名の三司官を輩出し、名家の一つとなる。


産井 (ウブガー)

道を少し北に進むと比謝川方面へ降りていく階段がある。そこを下った所に屋良村の産井 (ウブガー) がある。この井戸の湧水は産水 (ウブミジ ) に使われ、赤ちゃんが産まれると、汲んできた水にm中指を浸して赤児の額を3回撫でまわすウビナディ (御水撫で) を行い、それが済むとたらいに湯を入れ、汲んできた湧水で薄めて産水 (ウブミジ ) を作り、産湯をつかわせていた。


栄橋跡

更に道を北に進むと道は途切れ、比謝川に出る。ここには1930年 (昭和5年) に台南製糖により、人海戦術を駆使した工事は難航を極め犠牲者も出したが、屋良と読谷村牧原を結ぶ二重アーチ式の鉄筋コンクリートの橋梁の栄橋が完成した。この栄橋を渡り牧原を経て久得へ通ずる道は台南製糖 (後に沖縄製糖株式会社の前身) 嘉手納工場へのさとうきび搬入に使われ、橋のコンクリ ート床板の中央には鉄軌道が敷設され、トロッコを曳いた馬が走っていた。

栄橋は皇居の二重橋に似ているところから二重橋とも呼ばれ、名所として親しまれていた。当時の栄橋写真が残っており、その中には、川に降りて栄橋を背にした記念写真が幾つかあった。

1945年 (昭和20年) 3月末頃、米軍侵攻を阻止するためとして日本軍の手によって爆破され、橋桁の基礎部分の鉄骨のみが残っている。今は雑木で覆われて上手く写真が撮れなかったので、嘉手納町の紹介ページに掲載されている対岸から撮った写真 (右下) も含める。


屋良グスク、屋良城跡公園

屋良集落の北側、比謝川の水辺に14世紀半ば頃までの大川按司の居住跡だった場所は屋良城跡公園に整備され、嘉手納町民の憩いの場やレクレーションの場として利用されている。

屋良グスクは比謝川の中流の標高40.3mを最高所とするカルスト台地の丘陵に位置しており、屋良大川按司の居城であった事から屋良大川城とも呼ばれている。グスクが立地する一帯は屋良城の獄があり、屋良村のクサティー (腰当て、聖域) だった。屋良グスクに関しては、口碑伝承のみで、古記録や文献は見つかっておらず、その由来やグスクの構造、性格や築城年代等は不明だが、出土品から、13世紀から14世紀頃とも考えられる。

戦後、米軍による燃料タンク設置工事など造成工事で大部分が壊滅している。

1978年 (昭和53年) に屋良城跡公園化整備計画が進められ、グスク全地域の保存は困難となり、消滅予定地区を中心に緊急発掘調査を実施し、堀立柱の建物跡、敷石遺構があり、グスク系土器、13世紀から14世紀の輸入陶磁器、鉄、古銭、石器、線刻画石版、獣魚骨等が出土している。の貴重な成果品が出土し、古い時期に作られたグスクであったことが分かっている。屋良グスクは一ノ郭を中心に半円状に外郭を巡らした輪郭式城郭で、外郭の下には数箇所の腰郭を雑段状につけ、グスクの北を流する自然の要害の比謝川に更に二ヶ所の突出部を配置することによって防御を固めていたものと推量される。南は緩い傾斜となって屋良集落へと続いており防御の点では問題があるのだが、発掘調査で斜面を急勾配に削った切岸が僅かに確認されている。グスクの石垣が、比謝橋を石橋に改修したときに持ち出されたという伝承はあるが、石垣が全く見られないこと、発掘によっても根石が確認されないこと等から考えると、石垣が持ち去られたわけではなく元々築城の段階から石垣のない、沖縄では珍しい土のグスクだったと考えられる。

伝承では勝連城主阿摩和利がこの屋良グスクで生誕したとあるが、出土遺物の時代とは付合しないので信憑性は薄い様だ。

屋良グスクの大川按司については久手堅親雲上作とされる組踊「大川仇討ち」の題材になっている。

大川按司の祖先は国頭郡今帰仁間切今帰仁城の城主からの分かれで、美里間切伊波村の伊波城の城主の子孫で安慶名按司、屋良大川按司、大湾大川按司、北谷大川按司、喜屋武按司の五氏となっている。谷茶の按司は大川按司を亡き者にするため、大川接司が諸接司に征討を企てているとデマを飛ばし、味方をつくり急に大川城を攻めた。大川按司は部下の多くとともに討ち死に、大川城を乗っ取り、若按司は谷茶の捕虜となった。その後、大川按司の旧臣、村原の比屋 (ムラバルヌヒヤ) は復讐を企て妻を若按司の乳母として谷茶の城 (乗っ取られた大川城) に送り込んだ。谷茶按司の臣下の満納ヌ子 (マンナヌシー) は、乙樽が村原の比屋の妻であることを見抜き、谷茶の按司に進言するが、美しい乙樽の色香に惑わされた谷茶の按司は、満納の子を邪魔に思い斬ってしまう。乙樽を心配した村原の比屋は、物売りに変装して出かけ、大川按司の旧臣を集めて谷茶城を攻め、見事、谷茶を生け捕りにし、大川の若按司と乙樽を救出、主君の敵を討ち取って城を奪回した。それから村原の比屋は若接司を育てあげ兄の大川城の城主となった。


五ノ郭、四ノ郭

公園に入った左側は広い芝生広場になっている。観客席も設けられているので、イベントなどに使われているのだろう。この場所はグスク時代には屋良グスクの五ノ郭と四ノ郭があった場所になる。四ノ郭は三ノ郭の下の腰郭で、更にその東側には小さな腰郭が設けられ、緩やかな傾斜面からの侵入を阻止したと思われる。

グスクの中で傾科面が緩く弱点となる南西側にかけては比較的大きな腰郭の五ノ郭を設けて防御を固めていたと思われる。

この芝生公園は嘉手納町が2032年 (令和14年) 完成を目指して進めている屋良城跡公園整備計画では、児童公園になる予定だそうだ。


三ノ郭

四ノ郭の上は三の郭跡になる。一ノ郭と二ノ郭を取り囲んだ外郭になっている。人為的な平場があった事が分かり、三ノ郭はいくつかの郭に細分化されていたと推測されている。また、三ノ郭の北西側には平場があり、ここにも土塁で囲まれた小さな郭があったと思われる。


二ノ郭、屋良城之嶽 (イビガナシー)、グスクガー

屋良グスク三ノ郭の上はのニノ郭で、そこには拝所が置かれている。琉球国由来記にある屋良城之嶽 (神名 笑司ノイベ) で、屋良村の守護神として古来より尊崇されてきたイビガナシー (祖先神) が祀られている。屋良村の祭祀行事はすべて、この屋良城之嶽の御願から始まる。

発掘調査で、この二ノ郭では刻画石 (写真左) が出土している。

この二ノ郭には井戸跡もあり、香炉が置かれ、村で拝まれている。


一ノ郭

二ノ郭の西側にはグスクの主郭の一ノ郭が置かれている。標高38mの最も高い位置にあり、東西に細長い。戦後、この場所に米軍の燃料タンクが建設されたために地形の変更を受けている一ノ郭に入った所にはモニュメントが設置され、そこから更に一ノ郭の高台への階段がある。階段を登った所は小さな広場にで東屋が置かれている。元々の一ノ郭は更に西に伸びていた広い郭だった。

一ノ郭の北西部には比謝川に大きく張り出した二つの突出部があり、平場になっている。ここからは比謝川を渡って来る敵兵を遮断する役割を果たしていたと思われる。また、北や西側からグスクを攻めて来る敵の観察が可能となっており、きわめて重要な役割を果たしていたと考えられる。


屋良先大川按司の墓

三ノ郭の東の端から北側への道があり、そこを降りた所に屋良大川按司 (屋良先大川按司) の墓がある。

屋良大川按司は今帰仁城第三代の今帰仁按司 (中北山) と大湾乙樽との間に生まれた五男で、初代の大川按司となり、この屋良グスクを築き、グスクを拠点とし北谷間切北部と読谷山間切を治め、勢力を誇っていた。初代大川按司の晩年に本家の今帰仁城の丘春 (オカハル、初代大川按司の兄) が従兄の怕尼芝 (ハニジ) に亡ぼされ、討死した丘春の遺体は大川按司のもとに送られ、比謝川の川ロの西 (イリ) タテーサー洞に葬られ、大川按司により墓が守られていたと伝わる。

二代大川按司の時代に屋良グスクの基礎が固まっている。今帰仁城を滅ぼした北山王の怕尼芝 (ハニジ)を攻める計画を立てたが、北山王の勢力はますます強くなるばかりで、悲願は叶わなかった。

三代大川按司の時代には、北山軍が国頭の西道を通って中山領内に攻めてくるので、比謝川を渡さないように読谷山間切まで出向いて敵兵を追い返すことがたびたびあった。中山王から信任が厚く中山唯一の忠臣で中山側の北部防衛線の第一線を引き受けていた。

四代目の大川按司の時代には中山初代王の尚思紹が尚巴志に北山王を征伐させ、中北山の子孫である伊祖城主浦添按司、越来城主越来按司、山田城主山田按司護佐丸の軍勢を率いて出発し、国頭按司もおのおの軍兵を率いて羽地間切仲尾次城に集合し、水陸両軍に分かれて北山城(今帰仁城)を攻め三昼夜激戦の後、北山第三代王攀安知 (ハンアンチ) を倒し中北山の丘春按司の仇討ちをはたしている。したという。

五代大川按司の長男の屋良大川若按司に継承者がいないまま亡くなり、婿養子に取り大川城を嗣がせている。初代から五代の屋良大川按司迄を御先大川と呼んでいる。御先大川の位牌は四代大川按司の三男 (屋良子) の子孫の松當 (マチタイ) 家、後に松當家を継いだメーチバル家が祀っている。両家も絶えて、現在はミーガーグヮーが継いでいる。屋良先大川按司の墓は屋良グスクの東側にあったが、戦後に崖崩れで崩壊し、遺骨も散乱していたが、その惨状を見かね、根人 (ニーチュ) 中心に住民により、現在の墓に移築している。


屋良後大川按司の墓

屋良先大川按司の墓の北東には屋良後大川按司の墓 (写真右上) ある。石棺9基、箱形甕棺1基、甕棺25基の計35基の棺が収められている。五代目の大川按司には息子一人と娘二人がいたが、息子の屋良大川若按司は若死して後嗣がなかった。長女真鶴金に具志川間切の中北山系統の安慶名大川按司の次男婿養子に取り、大川城を嗣がせている。養子の系統を後大川と呼んでいる。後大川按司系統は按司が三代つづき、四代目は尚真王の中央集権によって按司墓の位を取りあげられている。

墓は三つある。2011年 (平成23年) に墓の老朽化に伴い、伊波一門によって改築工事が行われ、無名の多くの遺骨も埋葬されていたので、墓標を「屋良後大川按司一族の墓」としている。隣にある墓 (写真中) も後大川に関連したものと言われている。


アシビナレーガマ (遊び習い洞)

屋良グス クの北側の崖下、屋良先大川按司の墓の奥に洞窟ある。比謝川沿いには多くの洞窟があり、古代人が住居としていたと考えられアシビナレーガマもその一つとされている。以前は、かなり大きな岩陰となっており、 雨露もしのげるほどの広さがあったが、現在では崖崩れで昔の姿とは異なっている。戦争前まで、屋良の青年たちがムラアシビ (村芝居)の稽古にこのガマを利用していたこともあって アシビナレーガマ (遊び習い洞)とも呼ばれていた。洞窟は黒く焼けているのだが、沖縄戦で米軍による火炎放射器による痕跡だろうか?


樋川井 (ヒージャーガー)

屋良先大川按司の墓から比謝川に降りていく道があり、降りきった所に、琉球国由来記に記載のある樋川井 (ヒージャーガー)がある。首里王府にも湧水が献上されたという伝承も残っている。戦後は民間業者の手によって樋川に水道パイプが敷設されて、嘉手納村民に飲料水を提供していた。現在でも清水が湧き出て比謝川に注いでいる。


貝塚

一ノ郭と二ノ郭の北側は、琉球石灰岩の断崖となっており、ここはその二つの郭が接する崖下になり、貝塚が確認されている。上の郭から投棄された貝などが残ったと推測されている。


屋良ヌールガー

比謝川沿いの道を西に進むと、コンクリートで囲まれたヌールガーがある。これはノロ専用の湧泉で、ノロが水を飲用し、体を清め、洗髪していた。現在でも清水が湧き出ており、屋良集落ではカーヌカミ (井泉の神)を祀り、 拝所の一つとして拝んでいる。


トーシングムイ (唐船の港・船着き場)

屋良ヌールガーに面した比謝川河畔に突出した平らな岩石がある。この場所は、グスク時代に中国との交易船が出入りした船着き場だという。この岩場は船荷の出し入れを行った天然の波止場だった。大型の貿易船は比謝橋付近で停泊し、そこからティンマー (伝馬船) でトーシングムイまで遡江し、積荷を降ろしたと推測されている。

トーシングムイの傍らに、「イナグダナ」または「イナグザラ」と呼ばれる岩場 (多分、写真中右) がある。 王府時代、屋良のヌール (祝女) がヌールガ 一で水浴した後、洗い髪を乾かすために腰を下ろしたところと伝承されている。


古墓群

屋良城跡公園に戻り、五ノ郭跡の西側の道を北に進む。道沿いの両側の崖には幾つもの古墓が残っている。


ナグバカー、久米村墓 (クニンダバカ)

屋良城跡公園は再整備が計画されており、この道沿いの古墓の保存整備もその一つになる。五ノ郭の外郭斜面にあるナグ墓は整備中 (写真上) だった。東側のアガリーヌサンヌケーリにある嘉手納の西門 (イリジョー) 門中の久米村洞 (クニンダガマ) もその一つになる。


古墓

三ノ郭の斜面にも古墓が残っており、保存の対象となっている。


交流広場

道を進むと交流広場が広がっている。なだらかな起伏があり、丘の上には東屋が置かれ、広場下には池もあり散策には気持ちの良い公園になっている。


嘉手納ヌールガー

交流広場、丘の南麓、池の畔にヌールガーがある。サシガーとも呼ばれていた。昔、ウマチーやカーウガミの際にヌールが手足や髪を洗って身を清めたところと伝えられ、嘉手納村の拝所として年中行事 (年6回) の御願が行われている。旧9月18日には、ヌールガーミジナリーの拝みがある。終戦後は水源地として、湯屋や公民家の一部にも給水されていた。現在では井泉の水は園内の池に注がれている。

2032年 (令和14年) 完成を目指して進めている屋良城跡公園整備計画では、この嘉手納ヌールガーは復元整備が予定されている。

この時点で6時近くになり、日も翳り始めている。予定していた屋良集落のスポットの殆どは見終わったが、数ヶ月立ち寄れなかった所が残っている。日没間近なので、これで今日は打ち止めとし、次回再訪して見学する予定。

交流広場から、比謝川沿いに遊歩道が整備されており、この道を通り、嘉手納大通り経由で那覇の自宅まで走る。まもなく、日も暮れて、帰宅は8時半だった。今日は長い1日となった。


参考資料