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子らを見送る

2025.05.07 05:56

facebook山川 紘矢さん投稿記事【エッセイ:老い】

老いは、静かにやってくる。ある日ふと、階段を上る足が重く感じられたり、誰かの名前がなかなか出てこなかったりする。その瞬間、私たちは「ああ、自分も年を取ったのだ」と気づく。

だが、老いとは衰えだけを意味するのだろうか。昔から、日本では老いを「円熟」とも呼ぶ。果実が熟れるように、人もまた時を経て味わい深くなるということだ。

若い頃には見えなかったことが、年を重ねるうちに、ふと腑に落ちる瞬間がある。怒りの向こうにある寂しさや、沈黙のなかに宿る愛情に気づく。それは、長く生きてきた人にしか見えない風景だ。

哲学者カール・ヤスパースは「人は老いによって、時間の奥行きを知る」と言った。老いるとは、過ぎてきた歳月に意味を与える作業でもあるのだろう。

もちろん、痛みや不安がないわけではない。けれど、だからこそ、今この瞬間を愛おしむ心が生まれる。ゆっくりと歩く日々の中に、やわらかい光が射す。

老いとは、命が静かに輝きを放ち始める時期かもしれない。


facebook赤塚 高仁さん投稿記事

変えられるものを変える勇気を 変えられないものは受け入れる謙虚さを そして、変えてはならないものを見分ける智慧を与え給え、と祈ります。

 新しいものを拒否するでもなく、古きものを懐かしむでもなく、忘れてはいけないことを大切に魂に刻み、変わり続けていこう。

https://ameblo.jp/seishomandan/entry-12901001250.html?fbclid=IwY2xjawKH1kJleHRuA2FlbQIxMQBicmlkETFqdklrTjFtN21LZ0xxYXoyAR4hCzcSXcTXUZqhxmQpRzV5XPwxhd_ONgYmmSQf2nhTnMnxP_k82dwgjOUufA_aem_VV8TM6qn61_1QRPSy86REw 【変わり続けることが生きること】より

福井県護国神社での講演会後ろには、昭和天皇、平成の天皇、今上天皇の御写真

手には、糸川英夫先生の写真。

熱いやまとこころのキャンドルサービスとなりました。 あゝ これが私の生きる道

ライフワーク 私たちは、今、生きている。 日本に、日本人として。 福井の皆さん、ありがとうございました。ところで、この頃時間が早く進む気がするのですが・・

 ほんの10年前を思うとき、時間はこんな速さだったでしょうか?単純に歳をとったから、時が速く感じられるだけではないような気がするなぁ。

どこで何をしていても、フェイスブックで瞬時に誰が何をしているのかわかってしまったり、テレビの情報待つまでもなく、インターネットで検索できる。

かつて本屋さんに本を注文すると、平気で2週間くらいは待たされましたね。

先日、夜中にアマゾンに注文したら、その日の午後届きました。文房具もコピー用紙も、頼んだら 明日くる。この便利さ、速さ、驚かされてしまいます。

  東京でひとり下宿して、四畳半に暮らしていた頃、電話もなく、友達とつながるのはもっぱら手紙でした。夜中に書いた手紙を、朝起きて読み返すと、とても出せないような文章だったりして、書き直したり。あまりの熱さに、書いた本人が引いてしまったり。

相手に届くのに2~3日かかり、 すぐに返事を書いてくれたとしても、一週間後に返信が届く・・・そんなスピードだったですね。

緊急の用事は、大家さんに電話が入り、伝言だったり、折り返し公衆電話で10円や100円を握りしめて、コインの落ちる音にハラハラしながら急いで用件をまとめたものです。

 メールを打つようになって、返信を待つのが短気になっています。何度も着信を見てしまいます、何分かの間に。毎日郵便ポストに手紙が届いていないか確かめたペースが、ものすごく短くなっているのですね。

しかも、文章も推敲することもなく、文字も手書きのアナログからデジタルへ。

古きを懐かしんでいるわけではありません。新しいことを批判するのではありません。

古いものは消え去ります。新しいことも残るものはわずかでしょう。古くて、新しいものだけが残るように思えます。変えられるものを変える勇気を変えられないものは受け入れる謙虚さを そして、変えてはならないものを見分ける智慧を与え給え、と祈ります。

 新しいものを拒否するでもなく、古きものを懐かしむでもなく、忘れてはいけないことを大切に魂に刻み、変わり続けていこう。

諸行無常、万物流転、 すべてはみな、移り変わってゆきます。なりたい自分になりましょう、 なりたくない自分を生きるのは、自分に対する侮辱ですから。

 さあ、福井から三重、明日は飛鳥、明後日から大分そして京都、東京へと旅はまた続く。


facebook矢加部 幸彦さん投稿記事

私達は、死というものに必ず触れながら生きていて、食膳を賑わす魚肉野菜類もそうであり、古来、神に供するものも魚鳥の死骸だったり。。故に、死そのものはケガレではなく、死

に対する心の乱れをケガレ(気掛かり、気枯れ)といったのです。全て巡り故に、永久をことほぎ、我が身を棒ていくのです。。