こころ
facebook森井 啓二さん投稿記事 真の指導者Leaderは、Seeder。
今の指導者たちは、自分の主張を強引に押し付け、思い通りに人々が従うことを好む。
時に不安や恐怖心などを利用した心理的な誘導も躊躇なく行う。
自我の強いAutocratやdictatorが、指導者である時代はもう必要なくなってくる。
新しい時代の指導者は、人々の心という土壌に種子を撒くように、清く美しく響く気づきを優しくもたらすだけでいい。神理の種子を撒く人。その気づきが心に共鳴すれば、各人が自分の内側からの喜びと共に天意に則った行動に導けるのだから。
facebook長岡 美妃さん投稿記事
集団や組織を嫌う人は多い。
それは一つに集団や組織からの強い影響を受けずに済むという点である。
影響を受けてしまったら組織に取り込まれていき、「自分」が消えてしまうという不安が立つ。そしてもう一つに周囲からの視線。
「この人はこのカラーの人」と決めつけられることによって、他のカラーの人たちとの交流が途絶えることを恐れるからだ。
そのため、弱い結びつきでいくつかの集団に属するという空隙で生きようとする。
個人主義自由主義の現代はこのような考えが主流であり、それによって様々な情報に触れる機会が多くなって漁夫の利を得ることができると考える。
そのため集団や組織を敬遠する傾向に拍車がかかった。
しかし人と人との出会いは「その人が何者であるか」を知ってから起こる。
自分にカラーが付くことを恐れているうちは、人と人との出会い方も弱い結びつきでしかなくなる。決めつけられる危険性は回避できても、真剣に出会うことはできずに関係性は終わる。人生も曖昧模糊としたまま終わる。
自分の輪郭をくっきりとさせることを恐れることはない。自分の主張を、自分のカラーを堂々と世界に提示すればよいと思う。
真の関係性はそこからしか生まれないことを知れば尚更である。
そして人間は小さな身体の範囲が自分であるという間違ったアイデンティティを脱することができたなら、組織に取り込まれるなどとは思わなくなる。
組織は自分であり、自分一人では成し遂げられないことも組織なら成し遂げられるということを知る。
「自分」は一旦消える。しかしどでかいアイデンティティをもった「自分」が組織の一部として生きるようになる。それが不二一元としてこの世に立つということである。
集団や組織に個性を潰されると思うのは無理はない。
というのも、一人一人が自由闊達に行動したら必ず摩擦衝突が起こるのは当然のこと。だから暴力やお金の力を使って人は他者を黙らせることで秩序を築いてきた。人は皆、違う世界を見て違う物語を生きており、忍耐我慢の結果として共同体は作られるというのが当たり前だった。
そして今や「忍耐我慢はしたくないから集団や組織には属さない」という若者たちが多いのも確かだ。
しかし人間は個人になった時にはあまりにも弱い存在と化す。社会が安定しているうちは社会システムが守ってくれているかもしれないが、社会システムなどお金同様に幻なのだ。そこに実在はない。故に個人の不安や孤独は増し、社会システムを批判しながらそのシステムに依存するようになる。
しかしこれから来るAI時代は待ったなし。そんな捻くれも通用しなくなる。存在の局所実在はあり得ないことが証明された今、個人では生きていけないことを知る。人間を人間たらしめるのは、2人以上の集団になった時。1人いる時は何も始まらない。どんな高尚なる思想を得ようが、どんな悟りを得ようが、1人ならば何の意味も持たない。それを他者に伝達してはじめて動きとなる。なぜなら2人以上で「間」が作られるからだ。「間」こそ、進化発展の登竜門である。
ではここで本題に入る。
集団や組織に個性を潰されない方法はあるのか?一人一人が自由闊達に行動しても摩擦衝突が起こらないことはあり得るのか?…ある。そのたった一つの道は一人一人が一元を悟り知ることである。実在するものは心しかないことを「知る」ことである。そのことを「知った」時、世界を見え方が一変する。人生の意味価値が変わる。
この世界に「自分」はある。しかし真の自分はこの世界には属していない。
見ても見ていない。聞いても聞いていない。喋っても喋っていない。生まれても生まれていない。だから、世界とは誰にとっても自分の個性を爆発させる遊び場となる。摩擦衝突は起こりっこない。なぜなら誰もが何をしても何も起こっていないことを「知っている」からだ。
一元を悟り知るコンテンツは完成されている。これは修行で開眼するものではなく、論理体系的な教育として誰もが悟り知る時代になったのだ。だから世界ではじめて真の共同体の完成が作られる日も遠くない。
facebookまつだ ふみこさん投稿記事
真の自分を生きる。こんな簡単なことが一番難しい。この世は意識で出来てる!?
めんめんと続く前世の記憶や意識の世界を超越することは想像以上に大変だと思う。
それでも、遠い昔の宇宙真理の響きが私を放さない。
私が私を生きる。あなたがあなたを生きる。自然界の鳥のように。自然界の動物たちのように。自然界の植物たちのように。自分の種の花を咲かせる。
facebook草場一壽 (Kazuhisa Kusaba OFFICIAL)さん投稿記事
「世界」と「世界」
人は誰もが「独特」です。
ひとりひとりの中にそれぞれ独自の「世界」があります。その「世界」は、考えたり、楽しんだり、悩んだり、苦しんだりする過程を含んでいて、それが内面として自らをつくるところに、他の誰とも異なる個性が光るのですね。
この「世界」は、個々の経験や価値観、思考の結果として形成されるものであり、誰もがユニークな存在として世界の創造主です。
人が出会うということ、それはまさに「世界」と「世界」の出会いです。
ひとりひとりが持っている「世界」は、無限に広がる可能性を秘めていますが、他者との交流によって新たな視点や感情が生まれます。どんなに似たような人生を歩んでいても、他人と自分の「世界」は、常に違うのです。その違いを知ることが、出会いの素晴らしさだと言えます。
「人が薄暗がりに住んでいて、薄暗がりの中で友を得るなら、薄暗がりも面白いじゃないか」。
これは、ある思想家の言葉で、何事にも価値を見出すことができるというのですね。人生の中で、もし暗い場所に住んでいたとしても、その中で共感できる友人に出会えれば、その場所も面白く感じることができる・・・どんな状況にあっても、出会いや交流によって新たな意味を見つけることができるといっています。
ところで、「若い頃、何をしておくべきか?」という問いがありました。どう答え(アドバイスし)ますか?
ふと、ここで気づいたのは・・・「若い頃」という限定にはすでに「常識的」な答えが用意されているのかもしれないとうことです。たとえば、よい老後を送るために・・・といったものです。それでは、あまりに「世界」が狭い・・・。
大切なのは、今を生きるということです。いま20歳であることは60歳になるためではありません。未来に生きるためではなく、今の自分を生きるために、「世界」を広げ、深めていきたいものです。
自由に根差して
連休はいかがお過ごしでしたか? 初夏かと思えば、肌寒い雨となり・・・きまぐれなお天気ですが、体調にご留意ください。
さて、「表現者」という言葉を聞くことがありますね。(特別な)才能のある人、といったイメージを抱きがちです。確かに、表現者=発信者としての使命感や矜持を持った人もおられます。
少しニュアンスは異なりますが、「生(生き方・在り方)」とはまさに表現であり、職種や能力に関わらず、そういう意味で、みんな「表現者」と言えます。
常々「童心こそは天才の種」と言っていますが、こちらもなんとなく似ています。偏差値が高いとか、競争に勝つとかが天才ではなく、自由に心のままに自らを生きる、そんな「天才」を誰もが自分の中に秘めていて、年齢とか環境には無関係です。
子どものころ、誰もがなにかを夢中で、描き、歌い、作っていたことでしょう。誰かの評価を得るためでも、役に立つかどうかを測るためでもなく、「やってみたいから」「やらずにはいられないから」。
損得も計算もなく、あるのは湧きあがる衝動や好奇心。まさに、純度の高い「表現」であり、天才性のなせるものだったと思います。
残念なことに、人は成長とともに、「正しさ(常識)」や「役割」や「効率」に縛られていきます。知らず知らずのうちに、他者と比べるようになり、自分を「らしさ」にあてはめていきます。
子供時代の、意味をもつ必要もない、純粋な行為の中には、根源的ないのちの輝きがあったのですが・・・。
表現とは、いわば自由の境地でしょうか。
何者かになるとか、沢山の選択肢を持つという「状況」や「状態」のことではなく、どこまでも広がっていくようなとらわれのない「心のありよう」ですね。