あふれでたのはやさしさだった
facebook相田 公弘さん投稿記事
りんごが落ちるのを見てニュートンが万有引力の法則を発見したことは有名な話ですが、りんごでニュートンという名前の品種があるそうです。
ニュートンがいつも見ていたりんごの木の品種が後になってニュートンと名付けられたそうで、この品種の特性はすごく落ちやすく、りんごが熟したと思うと瞬く間にポトポトと落ちてしまう。「ニュートンは”毎日”木から落ちるりんごを見て・・」とあった。
なるほど、うなずける話です。りんごにまつわるほのぼのしたお話をご紹介します♪
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『じいちゃんの傷リンゴ』志賀内泰弘
「ありがとうよ、マサル」「うん、いいよ」「じいちゃんは身体だけが自慢だったけんど、去年くらいから腰が痛くてな」「ううん、どうせオレ暇だから・・・」
大矢マサルの家は農家だ、農家といってもなかなか専業で食べていけない。父親は、JAに勤めて保険の仕事をしている。「高いところだけでも取ってくれると助かるわ、大事にな」
「わかっとるよ、じいちゃんの大切なリンゴだもんな」マサルは幼い頃からスポーツが得意だった。身長は172センチ。けっして大きい方ではないが、足首のバネが強かった。
そのおかげて、足が速くて、小学校の運動会ではずっとリレーの選手だった。
中学に入ると、陸上部に入った。地区の記録会でずば抜けたタイムを出した。
先生たちが慌てた。「未来のオリンピック選手だ」と持ち上げた。年々、タイムは上がり、全国大会でも短距離で上位入賞を競うようになった。
そして、県で一番の実績を誇る私立高校へ、特待生として入学した。しかし、その時がマサルのピークだった。1年生の夏の大会で、いきなりアキレス腱を切った。
右足の膝から下がパンパンに腫れ、二ヶ月も歩行困難になった。整形外科医は、若いから早く治ると言ってくれた。「早く治したい」陸上部の仲間が駆けるのを、眩しく見ていた。その焦りが災いした。医者に「まだ早い」と言われていたのに、軽い慣らしのつもりでトラックを一周したとき、左膝に痛みが走った。皿が割れた。無意識に、ケガの右足をかばったのが原因だった。再びの治療。そして、激しいスポーツの禁止の宣告。特待生をはずされ、「普通」の生徒となった。そして、1年を待たずに、追われるように退学した。
いや、追われたわけではない。陸上だけが自慢だっただけに、マサルには居場所がない気がしてしまったのだった。「マサル、そろそろ休もうか」「いいよ、もうちょっと頑張ろう」
「いやいや、じいちゃんが休憩したいんだ。 裏のクミちゃんのところから栗のお饅頭をもらったろう」クミちゃんとは、裏の和菓子屋の娘。マサルの中学の同級生だ。
「いいよ、一緒に食べようか」「オレ、家からお茶持ってくるよ、今日は天気がいいから、ここで食べよう」「そうじゃな」そう言うと、マサルは首に巻いた手拭いで汗を拭き取り、母屋へ駆けた。(クソッ)マサルは走るたびに思い出す。(クソッ!)しかし、その悪態は誰にも見せたことはなかった。人前で、「クソッ」などと言ったら、惨めなのは自分自身だとわかっていたからである。
「じいちゃん、箱ごと持ってきたよ」「おお、ありがとう、ありがとう。 クミちゃんとこの栗きんとんは美味いからなぁ」「うん・・・」
マサルは祖父の勘治が好きだった。半年前に、高校を辞めた時、父親も母親も引きとめた。
父親は烈火の如く怒った。祖母は、オロオロして両親をとりなしてくれた。「マサルだって辛いんだから、わかってあげなさいよ」と。その優しさが、よけいに辛かった。
そんな中で、何も言わなかったのは、祖父だけだった。退学届を出す前に、すでに学校へは行かなくなっていた。何もしなくて、家でブラブラしていると、「よかったら手伝ってくれんかな」とマサルに声をかけた。それ以来、ときどき手伝うのが日課になっている。「なあ、じいちゃん。なんで、じいちゃんは怒らないんだよ」「・・・」「父さんなんか、今もチクチク皮肉ばかり言うのにさ」「言ってほしいのか」「ううん・・・」「じいちゃんはな、別に学校を辞めてもかまわんと思うとる」「え!?」「だって、じいちゃんは大学へ行ってるじゃないか」マサルは、勘治は頭がよくて若い頃は東京の大学へ行き、一時は東京で働いていたと聞いていた。
「あのな、マサル。お前、ケガしたとき、どうだった」「どうって・・・痛かったよ」
「うん、痛かったろう。痛いってことはな、痛い人の気持ちがわかるってことだからな。
それがわかっただけでいいじゃないか」「そんなこと言ったって、オレ負け犬・・・」
「あのな、マサル。そのリンゴ取ってみい」と言い、勘治はリンゴの木の下枝を指差した。
「どれ? これ?」「おお、それそれ」マサルがそのリンゴをもいで手に取ると、勘治はこう言った。「そこにな、小さな傷があるじゃろ」見ると、そこには黒く凹んだ小さな点々が二つ付いていた。
「うん」「その傷があるだけで、もう売りもんにはならん。それがマサルだな」「え!」
マサルは言葉を失った。(売り物にならない・・・オレは傷物か・・・)
「じゃがな、面白いことがあるんじゃよ。傷がついたリンゴのほうが美味いんだな。
傷がつくとな、リンゴはその傷を治そうとする。 それも、早く、早く治そうってな。
するとな、なぜだかわからんがな、リンゴの糖度がグッと上がるんじゃ」「・・・」
「見てくれだけ良いリンゴと、見てくれは悪いけど、中身は美味い。マサルはどっちのリンゴを食べたいかな」「・・・じいちゃん・・・ありがとう・・・。じいちゃん」マサルは、涙を隠すようにして下を向き、傷ついたリンゴにかじり付いた。今まで食べたリンゴの中で、一番甘かった。
志賀内泰弘さんプロフィール
24年勤めた金融機関を平成18年8月に退職し「プチ紳士を探せ」運動を全国に広めるため東奔西走中。コラムニスト、経営コンサルタント、飲食店プロデュース、俳人、よろず相談など、何足もの草鞋を履くネットワーカー。人のご縁さを説き、後進の育成をする志賀内人脈塾主宰。
https://shiganaiyasuhiro.com/fes/mizutani-matsuda/1533/ 【やさしさに溢れていた授業」】より 水谷もりひと
日本講演新聞にはいろんな講演会で語られた心を揺さぶるいい話が掲載されています。
昨年掲載した泉鏡花賞作家・寮美千子さんのお話はとても強烈でした。寮さんは奈良市少年刑務所で受刑者の少年たちに絵本や詩を使った授業をしてきた方です。
きっかけは同刑務所で開催された矯正展でした。矯正展とは受刑者が作成した家具や工芸品の即売、彼らが書いた絵画や作った俳句などを展示する地域に開かれた催し物です。
同じ赤や青でもいろんな赤や青がある絵に感動し、「振り返りまた振り返り遠花火」という俳句に涙した寮さん。一緒に行った夫に「この子たちは悪いことをした子に思えないね」と話したら、その会話を聞いていた教官が「そうなんです。ここの子はみんなやさしいんです」と声を掛けてきたのです。
「どういうことですか?」と聞き返したところから、しばし立場話になり、寮さんは名刺を差し出し、「私にできることがあればお手伝いします」と言って別れました。
少年刑務所から電話が掛かってきたのは半年後のことでした。「少年たちに絵本や詩を使った授業をしてほしい」と依頼されたのです。まさか直接受刑者に接触するなんて思ってもみなかった寮さんは「どんな子たちなんですか?」と聞きました。「殺人、強姦、薬物、傷害などです」と聞いて尻込みした寮さんでしたが、「この施設の目的は退院後に就職させることです。だから何としても『人の心』を取り戻してあげたいんです」と熱く語る教官の思いに心打たれて引き受けました。
最初の授業は、寮さんの絵本『おおかみのこがはしってきて』を使いました。
寒い冬の日、凍った池の上を走っていたオオカミの子どもがすべって転んだ。それを見ていた子どもがお父さんに「なんで転んだの?」と質問する。お父さんは優しく「それはね…」と答える。子どもは「それはどうして?」とまた聞く。お父さんは「それはね…」とまた答える。この会話がずっと続くのです。
寮さんは受講生を二人ずつペアにして、片方をお父さん役、片方を子ども役にして朗読劇をさせました。終わった時、予期せぬことが起きました。聞いていた受講生たちがその二人に拍手をしたのです。
恥ずかしそうに、そして嬉しそうに席に戻った最初の二人。寮さんは思いました。
「この子たちは今まで誰からも拍手をもらったことがないんだ」と。
朗読劇は全員にやってもらいました。初日から教室の中の空気が変わりました。寮さんの目に全員の顔が輝いて見えたのです。「拍手」、たったこれだけのことで、彼らの中に自己肯定感が芽生えたのです。
詩の授業です。今まで詩など書いたことがありません。寮さんは言いました。「何も書くことがなかったら好きな色についてでもいいよ」って。
「金色」という詩を書いた子がいました。
金色は空にちりばめられた星 金色は夜つばさを広げ羽ばたくツル 金色は高くひびく鈴の音
ぼくは金色がいちばん好きだ
「なんという感性なの!」、寮さんは胸がいっぱいになりました。
「くも」という詩はたった一行でした。
空が青いから白を選んだのです
「どんな気持ちで書いたの?」と聞くとこんな答えが返ってきました。
「お母さんは体が弱かった。お父さんはいつもお母さんを殴っていました。ぼくは小さかったからお母さんを守ってあげることができませんでした。お母さんは亡くなる前、病院で僕に言いました。『つらくなったら空を見てね。お母さんはいつでもそこにいるから』。ぼくはお母さんの気持ちになってこの詩を書きました」
寮さんは涙を堪えることができませんでした。
一人の少年が手を挙げて感想を言いました。「〇〇君はこの詩を書いただけで親孝行やったと思います」
別の少年はこんな感想を言いました。「ぼくはお母さんを知りません。でもこの詩を読んで空を見上げたらお母さんに会えるような気がしてきました」
寮さんの授業は二〇〇七年から九年間、奈良少年刑務所が閉鎖されるまで一八六人の少年たちに行われました。
改めて思います。幼年期少年期の子どもに必要なのは、「全承認」だということを。親の一番の仕事は子どもが子どもの心で過ごせる環境をつくってあげることだということを。
https://miya-chu.jp/mizutani/?itemid=3832 【「否定しない」「注意しない」「指導しない」】より
寮美千子著『あふれでたのはやさしさだった』(西日本出版社)
平成18年のある日のこと。作家の寮美千子さんは、奈良少年刑務所で開催されていた矯正展に出掛けた。そこで1枚の美しい水彩画に魅せられた。
一つひとつの色が微妙に違う。「几帳面すぎる。こんなに細かい神経の持ち主だったら、世間にいた時、さぞかし苦しかったのではないか」と思った。
「振り返りまた振り返る遠花火」という俳句に胸が締めつけられた。
「なんと端正な、抒情的な句なんだろう。この子は鉄格子の窓から花火を見たのだろうか」と寮さんは思った。その時、教官が声を掛けてきた。
「ここにいる子たちはおとなしかったり、引っ込み思案な子たちがほとんどです」
この出会いが寮さんの人生を変えた。
翌年の平成19年7月、「絵本や詩を使った教室を開きたい。ぜひ講師に」と、奈良少年刑務所から寮さんに電話があった。
実はその年の6月、100年ぶりに監獄法が改正されたのだと言う。それまでは社会復帰後のためにいろいろな技術を教えてきたが、法改正により職業訓練が困難な軽度知的障がい者や精神疾患のある受刑者のために情緒的な教育を施すことができるようになった。その講師を依頼されたのだった。
少年刑務所は、保護施設の少年院と違い、殺人や性犯罪など、刑事事件で実刑判決を受けた未成年の子たちが収監されている。寮さんは最初の授業でアイヌ民族の親子を題材にした絵本
『おおかみのこがはしってきて』(ロクリン社)を使った。
受講生の片方が父親役、片方が子ども役になって朗読劇をする。
子どもが父親に質問する。父親はどんなことを聞かれてもちゃんと優しく答えてくれる。
全員これをやった。全員が最後まで読めた喜びを味わった。「たったこれだけのこと」で、少年たちは自信を獲得したようだった。寮さんは「かすかな自己肯定感が芽生えた」と確信した。
彼らは幼少期から、何を言っても受け止めてもらえない家庭で育った。常に大人から否定され、叱責され、攻撃されてきたという。だから教官たちは、「否定しない」「注意しない」「指導しない」全承認の場を作っていた。
否定されない環境の中で初めて心を開き、少年たちは自ら成長していくという。